この一年の『ピアノの森』を読み返しながら、自分の『好き』について考える

Posted at 14/02/27

今日は雨。とは言っても、降っているのかいないのか分からないくらいの小雨。ここのところのよい天気で、少しずつ雪が融けてはいたけど、今日の雨はまた、雪に覆われていた家々の屋根を、少しずつあらわにしている。でもまだまだ。そのくらい、この間の雪は凄かったのだ。屋根を打つ雨の音が聞こえる。今日は一日、ゆっくりとした気持ちで過ごすのだろうか。冬の終わり、あるいは既に始まっているはずの早い春の一日を。

ピアノの森(23) (モーニングKC)
一色まこと
講談社

先ほど、「ピアノの森」の感想を『個人的な感想です』に書いたのだけど、そのあとモーニングを全部読み、また連載誌の単行本になっていない部分を読み返してみた。一番古いのは昨年の18号、4月4日発売の号だ。カイの演奏の途中、照明が落ちてしまったくだりから。オーケストラは動揺したが、カイは全く動揺せず、オーケストラも聴衆もカイのピアノに引っ張られて立ち直る。真っ暗な森の中でピアノを弾いていたカイにとっては、そんなことは当たり前のことだとでも言うように。

森の中でいろいろなものとコミュニケーションをとりながらピアノを弾いていたカイは、オーケストラとのアンサンブル能力も卓抜で、カイのピアノがワルシャワ・フィルの持てる力を何倍にも引き出して行く。

この日の演奏順が、向井・パン・カイ・レフの順になったのはなぜなのか、分かった。もちろんあとに行けば行くほど盛り上がるはずなので、普通ならばカイを最後にすべきだろう。でも、「カイが覚醒させたワルシャワ・フィル」の力で、「レフを全力でサポートし、さらにその力を開花させる」というストーリーだったのだ。なんと言うことだろう。カイは自分自身が成長しながら、森のピアノから大きな空の下へ、世界へと広がって行くピアニストへと成長しながら、フィルハーモニーも、そして間接的に最後のコンテスタント・レフ・シマノフスキの力をも引き出した、と言うストーリーが構想されていたのだ。

「ガラスのように繊細なピアノ」だったレフが、「ポーランドの苦難の歴史にもくじけない魂が宿った」ピアノへと成長して行く。それぞれのピアニストの持つ天才を、これだけ描き出すことができた一色まことさんは凄いと思うとともに、これだけの作品を生み出すということがどれだけの力を必要とするのか、気が遠くなるような思いにとらわれる。

通して読んでみると、連載のときにはちょっと引っかかったような表現が、凄く重く、大きく響いてくるところがあるのはいつものことだけど、今回は昨年の10月31日発売号に掲載された221話でそれを感じた。

「俺は森の端という歓楽街で生まれ育った娼婦の息子だ。家からつながる森は俺の庭で、そこに打ち捨てられたピアノは俺のかけがえのない親友だった。揉まれ、戦い、そしてムチャクチャ愛された。仲間と、大切な先生。平坦な道じゃなかったけど、気づくといつも寄りそってくれる人たちがいた。いつだって包まれていた。だから、だから今の俺がいる。俺は何がしたい?ピアノが弾きたい!ピアノを弾いて、俺は世界中に俺の音を届けたい!」

これはつまり、今までの長い長いストーリーをすべて要約した文章で、最初にこの回を読んだときは正直ちょっと興ざめした部分もあったのだけど、この長いストーリーの中で読み返してみると、凄く重い位置を占めていることが分かる。

「俺は何がしたい?ピアノが弾きたい!ピアノを弾いて、俺は世界中に俺の音を届けたい!」

それが、芸術家と言うもの。作家というもの。演奏者と言うもの。「俺の音」を届けるのが演奏者なのだ。ならば、「俺の絵」を届けるのが画家であり、「俺の味」を届けるのがシェフであり、みな「俺の何か」を届けるために表現をしているのだ。

私は何を届けるのか。私は書きたい。他の方法もしてみるかもしれないけれども、まずは書きたい。そして、何を届けるのか。作家によって、届けるものは違うかもしれない。でも、私は、「私の好き」を届けたい。そう思った。

そういえば、と思ってみる。「私の好き」を届ける作家は誰だったか。一番に思いついたのは、白洲正子。あの人は確かに、自分の「好き」を届けていた。自分が心の底から動かされるものについて、その心の動きを丁寧に追いかけ、その向こうにある風景まで描いてみせた。読者は、というより読んでいる私は、その白洲の書いている白洲の好きな世界の風景に、見とれていたのだ。

その他なんだろう、例えば茶人もそうだろう。千利休は、朝顔を見たいと言う豊臣秀吉を招待するとき、すべての朝顔の花を切り落とし、そして茶席に一輪だけの朝顔を生けて、自分の「好き」を見せた。天下人に、自分の好みを押し付けたのだ。それだけの傲慢さがなければ、「絶対的な自分の好み」を以て人をもてなす「茶の湯」は生まれなかっただろう。

自分の「好き」をもっと鍛えなければいけないなと思う。世界の人に押し付けられるだけの「好き」を、強く押し出して行くために。

……ああなるほど、それが「数寄」ということなのかもしれないな、とちょっと思った。

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by Luke Peterson

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