秋から冬へ、草刈りから雪かきへ/抑えられている自分と抑えている自分/「ぼくらのへんたい」と「恋につきもの」

Posted at 13/12/19

【秋から冬へ、草刈りから雪かきへ】

昨日の夕方から雪が降り始め、職場から帰る頃には10センチくらい積もっていた。そのあとも朝まで、というか午前10時近いいままで降り続けている。

昨日までは朝草刈りに行っていたのだけど、この雪なので草刈り(畑に行くこと自体が大変だということもあるが)ではなく雪かきを朝の作業としてやることにした。草刈りは最近は15分もやっていなかったのだけど、雪かきはそういうわけにはいかないだろうと思い、7時20分ごろ家のまわりをまず人が通れるようにし、それから車が出せるようにした。それから実家に回り、実家の前の道の雪かき。登校する小学生、中学生、高校生が通るので、この時間になるともうかなり踏み固められている。車は通れるのだけど、もともと狭い道な上に南側に家があるので日が当らず、いつもなかなか融けない。ただ、今日は気温が高め(0度前後)なうえ雪自体も少し湿った感じで、また地面自体もまだあまり温度が下がってないので比較的かきやすかった。ただそれだけやるのにやはり40分くらいかかった。

雪かきのような重いものを動かす仕事は下半身の使い方が大事だとよく言うけれども、下半身はもちろん大事だがやはり腕力も必要だ。ずっと草刈りをしていて、以前に比べると腕力がついたという実感があって、雪かきもわりとスムースにいった。そういう意味では草刈りは雪かきの予習、練習みたいなものだったともいえるかもしれない。草刈りは人に頼んでも何とかなるが、雪かきはその日の朝にやらないといけないのでよほどのお年寄りか身体が不自由な人でない限り、自分でやらざるを得ない。雪かきがあまり苦にならないくらいの体力があるのは、ずっと草刈りをしていた賜物だろう。

今日は12月19日。マンガ雑誌も年末進行に入り、今日はモーニングがお休み。26日の4・5合併号が年内最後の発行。ただ今日はコミックリュウの発売日なので、あとで出かけるつもり。それからまだコーヒーが飲めないので職場で飲むための紅茶を買っておこうと思う。ずっと安いティーバッグを使っていたのだが、先日「美味安心」というブランドのダージリンのティーバッグを使ってみたら段違いの美味しさで、これはこれを飲むしかない、と思った。コンビニにはないからリュウを買いに行くときにスーパーに行って買ってこようと思う。


【自分を脅迫し罰する態度】

自分のことについてずっと考えているわけだけど、それについて昨日こんな感じかとまとめをしてみたりしたのだが、そういうことをやりながら、最近ずいぶん妙に苛立ちがあるなということに気がついて、それをどうすればいいんだろうと思っていた。

最近、朝の寝床の中で目が覚めてから、「起きなきゃ」という気持ちともう少し休んでいた方がいいのではという気持ちが戦っている。今朝もそういうことが起こり、時計を見て6時ちょうどだということを確認してから寝床に戻って布団の中で心の中を見ていたら、自分の自分に対する態度の中に、「起きなきゃ許さない」というものがあることに気がついた。

「起きるぞ!」と思うだけでなく、「起きなきゃ許さない」という自分で自分を「罰する態度」がある。自分に対し、罰を以て強迫する態度。そしてその自分に怯えている自分がいる、ということに。

ああ、「自分自身が一番怖い」というのは例えばこういうことだなあと思う。そして意識しているのは「絶対起きる、絶対起きる」ということだけで、そう思っている自分を客観的に見られてないし、脅迫され葛藤して怯えている自分も見えていない。

ということに最近胃の調子が今いちと思いながら胃の当たり、つまり整体でいう腹部第4調律点を愉気しながら気がついた。怯えて葛藤している自分の一番明らかな現れはこういう身体に出て来る変化だ。それに気がつくと、ふっと気が緩み、少し楽になった。

私は自分自身に厳しいところがあるというか、縛りつけている、強いるところがある。私はそういうところが強いなと思う。だから思うように出来ないと、物事が思うようにいかないと、すごく苛々し自分を責める部分がある。意識ではそういうつもりではないのだが、そういう自己コントロール意識というかコントロール欲求というのがすごく強くある。しかしそういうものについて行けないと感じる自分がいて、胃が痛くなったり身体のいろいろなところに無理が来たりするのだなと思った。


【抑えられている自分と抑えている自分】

まあこんなものは心理的抑圧の普遍的な現象なんだろうけど、それが自分に起こっているということを確認するのは奇妙なものだ。ただ、人がどうのこうのというのではなく、自分の中に抑えている自分と抑えられている自分がいる、ということに気がつくということは大事だと思った。そして抑えられている自分の言うことに耳を傾け、その欲求を自由にしてやることが大事で、無理強いでなく、抑えられている心自身がふっと「起きよう」という気になるというふうに持って行くことが大事だな、と考えてみる。

しかし普段は抑えられている心の側は、「~しないとやばい」みたいな恐怖心になって、否応なく動かそうとしてしまっているのだけど、それをもっと自然に、あるいは自然に行かなければせめて「~したら楽しい」と思ってやれるようにしたらいいかと思う。

自分を強いる自分があることが問題なのではないだろう。むしろ、そういう自分が頑張りすぎていることが問題なのだ。頑張りすぎているから、疲れて来ると暴走してしまう。上手くいかなくなると自分自身だけでなくまわりにも当たり散らしたりする。たとえばそれが、ストレス的な食べ過ぎになり、またそれが身体を痛めたりする。

結局、考えていて思ったのだが、「~したい」と言葉にして思っている自分というのは、自分の中の一番深いところにいる、弱かったり傷つきやすかったりのほほんとしたり漠然と嬉しいなあと思ったりする無意識の自分ではない。無意識の自分というのは、実際には普通の時はかなり「素直について行く」ところがあるのだけど、無理だと思ったりいやだと思ったりすると拒否反応を起こす。生理的に受け付けない、という現象もそういうことだろう。

結局、一番深いところにいる自分は言葉に反応する部分ではないのだと思う。今やっていることが好きなのかどうなのか、聞いてみるしかない。はじめる前にいやだと思っていてもやってみたら良かったりすることもあるが、身体とか深いところの自分は素直にはじめは嫌がり始めてみたら喜んだりするので、初めて見る前の想像だけでは分からない。やってみないと好きかどうかはわからないのだ。

結局、そういう強いる心が指図するのではなく、そういうものを止めて無心で動かしていれば、自然に心の動きが鏡のように映って来る。その鏡に映った月のような心を眺めながら、次の動きを決めればよい。何か柳生新陰流みたくなってきた。


【はからい心、からごころ、ペアレント】

こういう何とかしようとする心、無理強いしようとする心を武術でいえば「はからいごころ」といい、本居宣長は「からごころ」と名付けたのだろう。交流分析でいえば「ペアレント=P」だ。

私の問題は、交流分析でいう言葉に反応しない部分、「チャイルド=C」がPを信用していない、信頼していないところにある、と思った。そういうPとCの仲を取り持つために「アダルト=A」がこんなふうに心の中を見ながら観察し、書きとめている。CはAをそれなりに信用はしているし、PもAの言うことを参考にしたいと思っているのだけど、人の動きの指揮を取るPが、実際に動くCに信頼されてない、ということは問題だなあと思う。

それはひとつは、Cや身体を満足させる、喜ばせるということよりも、P自身の理屈や都合を押し付けすぎるということがあるんだと思う。こんなふうにAは心の中を分析してPに示すのだが、Pは上手くそれを理解できていない。咀嚼できていない。だから心の統一が出来ていない。

いま私のPは、何もかも思い通りに行っていないというすごく強い意識を持っているのだと思う。その現状認識自体が正確なのかどうかというのも問題なのだが。

ただ、PもAも、Cと同じ私の心の一部だということを忘れてはいけないと思う。こういう考え方はすぐ抑圧されているCをいかに解放するか、ということに偏ってしまうのだけど、だからといってAの現状把握やPの現状認識自体を無視したり軽視したりするのはよくない。


【自分の心の中のお茶会】

しかし、自分の心の中の各部分が理解しあえてないというのは残念なことだ。お茶を飲んで話し合うくらいの感じで、心が一つになって和むことが大事だなと思う。

私は自分の心が弱い、ひ弱だという思いが昔から強くあって、だからそれを強くしようとしてPがすごく強くなってきたのだと思う。それはいつごろからのことかよくわからないのだけど、P的な仕事についていたことは大きいだろうと思う。自分を内省するAの働きもやはり最近になって相当良く働くようになってきている感じがする。

CとPとAが和んでお茶を飲みながら話し合う。まずはそんなイメージを持つことから始めればいいのかなと思う。


【「ぼくらのへんたい」と「恋につきもの」】

雪の中を、車を走らせていちやまマートと書店へ。胃の調子が悪くてまだコーヒーが飲めないので、美味しい紅茶を手軽に飲みたいと思い、こないだ試した「美味安心」のダージリンがとても美味しかったので、それを買いに行った。雪は降ったりやんだり、みぞれっぽくなったり。わずかの間に表情を変える。川を渡ったら雨になった気がした。紅茶を買って書店に車を走らせ、『コミックリュウ』2月号を探す。置いてある場所が分からず、結局店員さんに聞いた。なくなってなくて良かった。

月刊 COMIC (コミック) リュウ 2014年 02月号 [雑誌]
徳間書店

そう言えば、まだ来年の手帳を買っていない。もう来年の予定が入り始めているのに、まだ買ってないので平安堂で扱っているのをいくつか見たのだが、自分が欲しい感じにぴったりなのがない。いつもの年ならもう10月か11月には買っているのだけど、今年はまだいいまだいいと思っているうちに12月も後半になってしまった。何か来年のことよりも、まだ今年のことにいろいろと気持ちが残っているからなんだろう。年賀状も、まだやる気がしないのだけど、母の分をそろそろ作ってあげないといけない。自分のはそれから考えよう。毎日毎日やることがあるのに、いろいろとこういうイベント的なことがあるとそれに労力を割かれるのが困る。来年こそはそういう自転車操業を抜け出したいなあとふと来年のことを考えた。

ぼくらのへんたい 4 (リュウコミックス)
ふみふみこ
徳間書店

帰ってきて『コミックリュウ』を読む。今月は「ぼくらのへんたい」21回だけでなく、読みきりで「恋につきもの」が32ページで掲載、ふみふみこツートップ。「ぼくらのへんたい」はユイがはっちと話し、まりかがともちと話し、そしてパロウがあかねと話す。やりきれなさ、現状維持、希望、みたいな感じ。三人だけの話じゃなくて、その3人が三人の救済になって行くのだろうか。来月が楽しみ…と思ったらここで残念なお知らせ。来月は休載だという。だったら読み切りを来月載せてくれればいいのに…と思いつつ、読み切りを読む。

これはツイッターで公開されたふみふみこ原作映画2本制作中、のうちのひとつの原作になるもの。ふみふみこさんの作品は性と愛と乾いた感覚と可愛い絵柄のマッチングというか、そういうものの渾然一体となった感じが好きなのだけど、その中ではわりとドリームっぽいというか、ファンタジー・SF的なやや現実離れしたものと、やたらとリアルな心の中に突っ込んでいくタイプとがあって、私はふみさんの作品に関する限りではリアルタイプの「ぼくらのへんたい」が好きなのだけど(そういう意味では「めめんと森」も好きだな)、映画化されるのは「女の穴」もこの「恋につきもの」もSF系というか現実離れ系。

女の穴(リュウコミックス)
ふみふみこ
徳間書店

リアル系はどちらかというとマイノリティ系の性的なテーマが多く、ドリーム系は愛というか人間存在の深淵、みたいな感じの方が多い気がする。まあ性的なものも結局は人間存在の深淵へとつながってはいくのかなと思うけど、性は性自体でかなり深みというか深いぬかるみを持っているので、どちらかというと愛の方がそのまま人間性の不可思議さに突っ込んで行きやすい気がする。(「女の穴」の表題作はもっとただ奇妙な感じではあるか)

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday