教養はテクノロジーのようには世の中を変えないかもしれないが、逆境の時や頂点へ行ったときに自分を助けてくれる

Posted at 13/11/12

【教養はテクノロジーのようには世の中を変えないかもしれないが、逆境の時や頂点へ行ったときに自分を助けてくれる】

2時過ぎに帰郷。諏訪はもうだいぶ冷え込んでいる。今朝は氷点下まで下がったようだ。最高気温は9度で、この時間はもう6度まで下がっている。山もすっかり紅葉し、落葉松も黄色く色づいている。寒くなればなるほど、東京との温度・湿度の落差が激しくなり、帰郷してから慣れるまでに時間がかかるようになる。

今朝は朝からあまり調子がよくなかった。最近どうもブログを書くのが夜遅くになってしまい、それからクールダウンして寝るのに時間がかかってしまう。やりたいこともたくさんなって、昨日は久しぶりに『進撃の巨人』の録画を見たりしていたら寝たのが2時になってしまった。朝は7時起きでこれはそんなに特別でもないのだが、どうも体の調子と相談しながら動かなければならない感じがあって、それは東京の家を出てから特急に乗っている間も続き、すごく慎重に昼食を食べた。とりあえずあまり余裕はないが病気でもない、というぐらいの境目で何とかキープしている。

昨日書いた教養が社会階層転落に対する下方硬直性を持つことについてさらに考えてみる。それはある意味でいえば、自分が落ちていきそうになるときにそれを踏みとどまらせてくれる、救いになってくれるということでもある。

私は2年生まで東京郊外で育ったが、事情で夏休みに田舎に引っ越し、そこでかなりのカルチャーショックを感じた。それまでも本が好きではあったが、特に本ばかり読むようになったのはその頃からだろうと思う。ファンタジーが好きだったのは、「ここでないどこか」への憧れがとても強くなったからだと思う。そういう意味では「ドリトル先生」や「エルマーの冒険」、「ナルニア国シリーズ」などは私を支えてくれたものだった。

ルネ・マグリット 〔骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書〕 (シュルレアリスムと画家叢書 骰子の7の目)
河出書房新社

しかし小学生の間は本当には落ちることはなかったのだけど、中学に入ってから不登校状態に陥ったり、周りになじめない時期があって、その頃はまた図書館で読んだことがない本を求めて彷徨っていたのだけれど、その時に強い印象を与えてくれたのが、マグリットの画集だった。何ということはない、展覧会のカタログだったと思う。しかしそれは、世界への扉のように感じた。今考えてみると、本当の意味での教養というものが自分を救ってくれたのは、あれが最初の体験だったのではないかと思う。

今は大変だけど、大人になって東京へ行けば、こんな絵を見に行くことが出来る。この絵が一体何を意味しているのかさっぱり分からないけど、その分からないものこそが素晴らしい、と思った。

石ノ森章太郎のマンガ家入門 (秋田文庫)
秋田書店

そのあとも、私を外の世界へ連れて行ってくれるものにたびたびであった。たとえば中学の時に読んだ石森章太郎『マンガ家入門』。マンガ家を目指すストーリそのものが面白かったが、例としてあげられている「竜神沼」という作品が素晴らしく、カットバックや象徴的な映像でそこに起こっていることを暗示する手法など、映画的な技法も学んだ。たとえば中学3年の時にテレビで見た映画『旅の重さ』。石森の本で読んだ象徴的な手法が実際に映画で使われていて、強く印象に残った。たとえば高校で出会った萩原朔太郎の詩。言葉がこんな妖しい力を持ち得るということへの驚き。そういうアートの世界への扉は、むさぼるように読んだ多くの本やたまたま見られたテレビ放映の映画によって開かれて行った。

教養の基礎というのは、やはり本を読むことなのだと思う。物心ついたときから私は本を読むことが好きだった。でも本当の教養体験というのは―――つまり自分自身の「救済」とか「希望」というものとそれらのものが一つのものとしてとらえられたのは―――中学生の時のマグリットとの出会いだろう。それが文学、特に小説ではなく絵画や映画や詩だったのは今思うと不思議なのだが、自分の人間としての理想像のようなもののイメージはすでに『ナルニア』を読んだ頃に出来ていたし、それを壊したいとも思わなかったので、小説というものは自分にとってそんなに重要なものにはならなかった。

ライオンと魔女(ナルニア国ものがたり(1))
CSルイス
岩波書店

教養というのは身を持するものであると同時に、何があっても慌てない、不動心を養うものでもあるだろう。そういう意味で教養とは「大事なことを知ること」であり、生や死に関すること、病気に関すること、他者に関すること、世界に関すること、社会に関すること、人々の歩んできた歴史に関すること、自然に関すること、さまざまな技術について知ることなど、多岐にわたるものだ。

私は残念ながら、一つの習いごとをきちんと最後まで修めたことは―――英語などいわゆる学習に関することを除けば―――ひとつもないので、茶道の心得や舞踊の心得のある人は羨ましいと思う。そういう身体のさばき方に関することをひとつは身につけておきたかったと思う。身体的な教養として、ある程度は身につくといいと思っているのは野口整体の技法なのだが、とりあえずはたしなみ程度に、と言えればいいが実際には半分我流で、いくつかのことを理解し実行しているにとどまっている。

そういう一つ一つのことが教養や文化の体系なのだけど、それをより大きくとらえればその一つ一つがコンテンツであるともいえる。コンテンツは教養や文化よりより広いものととらえていいと思うけれども、それらを知ることが生きる力になるということを理解するのが教養というものだろう。

もう一つ高校時代に理解した大きなことは、学問が世の中を把握し、世の中と戦う力になるということだった。歴史を知ることで人間の社会のあり方を知ることができ、現状を批判的に分析して世の中にモノ申すことが出来るようになるというのは、驚きでありこの社会というものも捨てたものではないと思った。

もともと歴史は好きだったが、最終的には大学で西洋史を専攻し、高校の歴史教師を一時は職業にするほどにのめり込んだのは、その「現状を変える力」にゾクゾクしたからだと思う。実際にはそれだけでは現状を変えることはできないことを知ってそこから撤退していくことになるが、学問の持つ「根本的に何かを変える力」を知ったことは大きかった。

私たちの世代は上の世代から新人類とかしらけ世代と言われた世代で、世の中どうせ変わらない、という雰囲気が強い時代だった。それは一回り上の団塊の世代=68年世代の学生運動などの挫折体験の反動ではないかと思う。ただ、私は「学問が、アートが世の中を変え得る」ことをどこかで信じていたし、それは多分、『ゼロ』を書いた堀江貴文さんが「テクノロジーが世の中を変える力がある」ことを信じている、と言っているのと同じような希望がそこにあったのだと思う。

ゼロ
堀江貴文
ダイヤモンド社

さて考えてみると、私が堀江さんがテクノロジーに対して持っているのと同じ強さの希望を学問やアートに対して持っているかというと、既に心もとなくはある。テクノロジーが世の中を物理的に変えてきたことを目撃した今となっては、そちらにベットした方が正解だったのかなとも思う。

ただ、自分自身の救いという点においては、これ以上落ちていかないで済む心のよりどころとなり、こうあるべきと身を持する最低線を保とうとする意志において力になりうるのは、テクノロジーではないのではないかと思う。

教養や文化というもの、たしなみや自恃の心構えというのは、ある場面では自らを縛る枠となり、それをうまく制御することも必要となることもある(というか本来は自分を自由にするものなのだが私などもそうだけど抑制的に考えすぎてしまいがち)けれども、すべてを失っても泰然としていられる心構えのようなものは、他の手段では持ち得ないだろう。

それが出来れば、そこから再び這いあがって行くこともできるし、後進にその期待をかけて教育に力を入れることもできる。ただ落ちていくだけではない、と思えるのは、教養の持つ一番の力ではないかと思う。

そう考えてみると、いま身につけるべきは、テクノロジーを理解する力であり、コミュニケーションを取る力、語学力のようなものもあるけれども、上手く言っている時には役に立つそうした力だけではなく、上手くいかないときにも力になる、教養というものも身につけておくことが、何が起こるか分からない人生においては重要なことだろうと思う。

そしてそれは何かを失ってしまった時だけでなく、すべてを成し遂げて世の中の遠くまでが自分の領域に見えるようになってきたときにも、役に立つだろう。少なくとも、あらゆる教養を理解するための素養みたいなものは、見につけておいてどんな状況でもマイナスになることはないに違いない。

***

二流でいこう ~一流の盲点、三流の弱点~
ナガオカケンメイ
集英社クリエイティブ

ナガオカケンメイ『二流でいこう』(集英社、2013)を読んでいる。仕事の仕方とか、そのデザインの仕方とか、いろいろ勉強になることがある。この本についてはまたいずれ。

TEDトーク 世界最高のプレゼン術
ジェレミー・ドノバン
新潮社

それから今日、東京駅の丸善によったときに、気になってたけど買ってなかった『TEDトーク 世界最高のプレゼン術』(新潮社、2013)を買った。アメリカのひとつの精髄のようなものの気がする。これもこれから。

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