秋が深まる/自信なき問いは心の暗闇に鬼を宿す/楽しいところに人は集まる、響くものがあれば続く/生命の宇宙化/楽しいことを考えよう

Posted at 13/10/18

【秋が深まる】

台風とそのあとの数日で、秋がぐんと深くなった。枕草子に「野分のまたの日」という段があるが、台風のあとは情趣が深くなる、ということだけど、当所では最低気温が6度、7度という日が続き、柿も色づき、一部色を染めた葉も現れ始めている。初秋に咲き誇ったコスモスもほぼ花を終わらせ、昨日は隣家に山茶花が咲いていた。花の移ろいとともに秋が深まって行く。


【自信なき問いは心の暗闇に鬼を宿す】

一昨日書いたことでここのところの自分についてのことの文章に何となく一段落した感じがあった。何というか突き詰めるところまで突き詰めた感じがあったからか、自分の中にあれかこれかみたいな選択肢をつきつける動きが起こり、また自分のやっていることが突然意味のないことに感じられて立ちすくんだりもして、昨日はブログを書けなかった。

久しぶりに生きているのが嫌になる感じが蘇ったりもしたのだが、それだけ自分の中の感情の動きのようなものに無理なく反応する感じが戻ってきたということもあるのだろう。

意識の進化と神秘主義
セオドア・ローザク
紀伊國屋書店

自分のやっていることがお釈迦さまの手のひらの中でいい気になって飛び回っている孫悟空のようなものじゃないかというイメージに愕然とした。というのは松岡正剛『千夜千冊』でセオドア・ローザク『意識の進化と神秘主義』の書評を読んだからだ。ここでは1968年革命の時代に現れたさまざまなムーブメントについてただただ書かれていて、その膨大な並列性の中に、自分がオルタナティブ=第3の道だと思うことの多くが書かれていたことに、何かショックを受けたのだ。(古典ないし伝統・土着文化世界が第1の道、近代(西欧)教養が第2の道)

私は、その時代に対して、あるいはその時代に出てきたことに対しても、強く批判を持っている部分があり、むしろその時代から離れたい、否定したいという面もあったので、否定しようとしたのに結局自分もその道を、みたいな「親を否定しようとして親と同じ道を歩む子ども」がそれに気づいたときの呆然自失感、みたいな感覚が猛然と湧き起こってきたのだ。

そういう感覚は今朝まで残っていて、何と言うか何にどう取り組んでいいか分からないうちに、自分の持っているネガティブな感情みたいなものに次々に気がついてしまって、収拾がつかない感じになってしまっていた。

それに歯止めがかかったのは、武術家光岡英稔さんの「何かに疑問を持つことは悪いことではない。ただし、何事においても自信を持って疑問に向かって行くことと、必ず自らの行動が其所にあること!自信なき問いを立ててしまうと心の暗闇に鬼を宿すこととなる。自らの疑問は自らの行動にてトコトン突き詰めながら解いていくしかない。問行一致、一動不惑。」というツイートを読んだことだ。疑問を持つのはいいが、自信を持って立ち向かわなければならない。「自信なき問いを立ててしまうと心の暗闇に鬼を宿すこととなる」というのは本当に恐ろしいが、至言だと思う。

確かに私は、かりそめに問いを立て過ぎるなと思った。問いをもてあそぶというか、知的遊戯の対象のように自分に問いを立てて、心の暗闇に要らぬ鬼を招き寄せてしまうのだなと思った。問いは、行動によって解いていく、答えていくしかない。私の立てた問いは私のやろうとしていることが68年のオルタナティブの群れの土砂の中に埋まっているのではないかということだ。こうして考えてみると、「そうではない」と思う。だから、それを自分に明らかにして行かなければならない。だから、自分のやろうとしていること、作ろうとしている作品の作品世界と自分の持っている作家世界を明らかにし、68年の世界が実際にどういうものだったのかを確かめていかなければならない。とりあえず『意識の進化と神秘主義』は注文した。敵を知り、己を知り、地の利を知り、天の時を知れば百戦危うからず。自信を持って問いに向かっていかなければならない。


【楽しいところに人は集まる、響くものがあれば続く】

茶柱倶楽部 1 (芳文社コミックス)
青木幸子
芳文社

もうひとつ、自分の救いになったのは、今朝読んだ週刊漫画タイムズに掲載されていた青木幸子『茶柱倶楽部』の中の言葉だ。佐賀平野の熱気球大会を見学した主人公・鈴はその運営に感服し、「催しや風景が、楽しければ人は自然に集まり、響くものがあれば続く。茶柱倶楽部もそうありたい」という。「茶柱倶楽部」は彼女の運営する移動式日本茶喫茶室であるとともに、彼女が実現を目指す日本全国のお茶の産地が一堂に会したお茶のイベントのことも指すのだろう。

この言葉にははっと胸をつかれた。楽しいところに人は集まる。響くものがあれば続く。人を集めたければ、そこを楽しい場所にすればいい。そして集まってきた人がそれに共感してくれれば、その場は続いて行く。それは何でも一緒だと思った。ブログでも、サイトでも、作品でも、職場でも、イベントでも、生活の場でも。

まず自分が楽しくなければ、その楽しさの響きの発信源にはなれない。ということはつまり、人を楽しませること以前に、まず自分が楽しいことをしなければならないということだ。自分がいやすい場所を作り、自分が好きなものを置く。それが誰にも広がらなかったとしても、自分のいやすい場所としてそれは残る。しかしそれが本当に楽しい場所であり、それが回りに伝えられれば、必ずそこには人が集まって来るだろう。それで起こった人の流れの中で、ものもお金も動いて行き、皆が楽しくなれる。楽しさが全ての源なのだ。

このブログも、そういう場所に出来ればいい、と思う。


【生命の宇宙化】

そういうことを考えていたら、少し考えが進んだ。68年の革命は、あまりにも種々雑多で、こういうものだったと言えないものではあった。しかしその雑食性(カオス性・生命性)はとにかくその参加者たちにとってこの上なく楽しいものであったに違いない。薬物やテロなどマイナスの副産物も生んでいるが、アートもロックも思想も生活習慣も、あの時代を経たからこそ今の形になっているわけで、そういうものは静かに響き、いまという時代の見えない地層になっているのだ。

松岡正剛は「おそらくかれらはあまりに並列処理に流れすぎて、「編集のフォーマット」を欠いたままになっていたのではなかったか」という。編集する、ということはつまりそこに秩序を見出すということで、生命性に対する宇宙性、コスモロジーを生みだすということでもある。あの時代全体を覆うコスモロジーはないだろう。しかし確かにあの時代の動きの一つがコンピュータのパーソナル化と言った動きにつながり、スティーブ・ジョブズが現れたことは了解しておいていいことだろう。彼なりに純化されたあの時代のカオスが、マックブックエアーでありiPhoneなのだと思う。

そういう意味でいえば、「編集とは生命の宇宙化だ」ということが出来るだろう。カオスをコスモス化すること。コスモス化するとは、その意味でいえば作品化することだ。iPhoneがジョブズの作品だ、という意味でいえばということだ。

私は68年革命、世代でいえば団塊の世代に巻き込まれてはいなかったし、その世界に中毒するのもイヤだ、と思っていた。しかし明らかにその楽しさ、その生命性には魅かれる部分があったのだろう。そこの矛盾が問題なのだけど、だからこそ「そのなかにあるもの、あったもの」だけでなく、古典的なものや正統教養的なものに魅かれていくところがあったのだろう。

ビートルズの中で、そのムーブメントに完全に巻き込まれ、あるいは自らがムーブメントをつくりだしたジョン・レノンやジョージ・ハリスンでなく、ハッピーでポップな自分のやりたい音楽を作り続けたポール・マッカートニーが好きだったのも、そういうことだった。

68年革命で一番魅かれたのはその生命性、つまり「自由」であったのだけど、それに縛られてしまう人もまた多かったから、その68年革命自体からも自由でありたかったし、影響は受けてもそれを自分のものとして取り込んで自分の道を行くポールが一番かっこよく見えたのだ。


【楽しいことを考えよう】

私は宇宙ということばに、システム性を強く見過ぎていたのだなと思う。システムだって作品のひとつなのだ、と考えればもっと自由に考えられる。もっといえば、自分のやりたいことをやり、作りたいものを作ることは、そこにひとつの宇宙性を作っているということなのだ。

だから例えば、「自分の選んだものを見せること」(キュレーション行為)「自分の趣味を見せること」「自分が楽しくなるものを見せること」「そこに集まりたくなるものを作ること」はすべて、すでに作品行為であり、宇宙性の創造なのだ。だから、自分が楽しくならないものにはこだわらないことが大事で、自分がどんどん楽しくなるようにものも場も作って行けばいいということになる。それが突き抜けた楽しさを持っていれば、人は必ず楽しくなるだろう。それが「もてなす」という行為であり、逆に言えば客の側はその趣向をどこまで楽しめたかが勝負になる。その一瞬一瞬の油断ならない戦いが一期一会であり、茶道とは本来そういうものなのだと思う。

自分はすぐやりたいことが分からなくなるのだが、それはどうもたとえば楽しませるということになると自分が楽しいと思うものよりもすぐ相手が楽しむだろうと予想できるものを出して来て楽しませてしまう、というところがあるからだと思う。それはつまり、自分の中で首尾一貫性がないということだ。それは例えばあるコンセプトを実現させるということでもいいのだが、そのコンセプトの実現そのものが楽しいかどうかはやってみないと分からないこともある。ただ、何をやろうとしていたのかがはっきりしていれば、その次にどうすればいいかは考えやすいだろう。何をやろうとしていたのかが分からないと、次もどうしていいのか分からなくなる。

ただ、明確なコンセプトがなくても自分が楽しいということで一貫させればそこにひとつの新しい秩序が生まれる。実行してからそこに新しいコンセプトが生まれるということだってある。

このように考えていくと、アーチストという人種は、まず何を見せられるかということから考えるんだろうなと思った。見せられるものをがんがん見せていく。あたりまえだけど。私はこの文章にしてもそうだが考えていることや思ったことを結構そのまま、その考えた道筋を見せることが大事だと思っているから、もともとはアーチストじゃないんだろうと思う。思考の跡そのものを見せるのは、一種の哲学者だろうか。下らないことばかり考えている哲学者ではあるが。

見せられるものを見せる、つまり今まで作ってきたもののストックを見せるのも嫌いではないけれども、それだけではつらくなるところがある。今考えていることをリアルタイムで見せることが芸になるならば、たぶんそれが自分にとっては一番いいんだろうと思う。

そうなると、そこに人を集めるためには、楽しいことを考えるようにすればいい、ということになる。まず、楽しいことを考えよう。

***

昨日買った本・雑誌は『モーニング』のみ。今日買ったのは『週刊漫画タイムズ』と大河原遁『王様の仕立て屋』5巻、菊池和子『いのちの体操』(宝島社新書、2013)。メモ。

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