素描1・新しい対/素描2・作品の力

Posted at 13/10/05

【素描1・新しい対】

今日は書こうと思ったことがあったのだが、忙しくてしっかり考える余裕がなかった。伝統と近代とオルタナティブの混沌を整理する、ということなのだけど、人が生きることや自分のやっていることについて、考えるべきことはいくつかあると思った。

finalventさんの提起した問題はすごく自分でも考えないといけないと思うことがあって、一つはきのう書いた「日本の学問は合理的でない」ということなのだけど、もう一つは著書というよりツイッターでやり取りした時に出てきた「性的な成熟」ということの意味。これはつまり、「個として生きること」とともに、人間の生には「対として生きること」があるというテーゼなのだと私は解釈した。finalventさんの著書を読んでいるとそのあたりはなるほどと思うし、まあ世の中、助け助けられという対関係の話は当然ながらよく聞く。ここは自分に還元すると乏しい例しかないので何とも言えない。夫婦関係というと近代以前の伝統社会の出来事みたいな感じがする部分と、伝統社会の大家族制から抜け出した近代性の象徴みたいな感じのする部分(finalventさんの例はこのイメージ)があるが、それだけでなく新しい対をつくるということの中に新しい関係をつくる、つまり伝統も近代も乗り越えるオルタナティブを生み出す可能性は秘めているとも思う。

古い殻から抜け出して新しい家庭を築こうとして結局古い家庭の焼き直しでしかなかった絶望、みたいなことを繰り返し見てきた気がするが、しかしなんだかんだと言っている間に伝統的な家庭みたいなものはもはや郷愁の彼方みたいな感じになりつつある。ただ、それが新しい関係というよりはただ家庭というものが崩壊してしまっただけであるとか、お互いにしまりのないゆるい関係になっただけだというような解釈もあるし、確かにそういう例も多いような気がする。近代的個人がきちんと成立しているとは言えない日本において近代的な夫婦関係もまたきちんとは成り立ちにくいだろう。

しかし人間と人間の関係なのだから、創造的に生きようとする人間同士であれば創造的な対関係をつくることは不可能ではないのだろうとは思う。それがうまくいくかはまあなかなか何とも言えない部分もある。私自身は、伝統と近代とオルタナティブの混沌を整理する中で、何か見えてくるものがあるのではないかと思っているのだけれど。


【素描2・作品の力】

もう一つ書こうと思っていたのは、「作品の力」という問題。「作品の力」とはなんだろうか。

たとえば、「感銘を与える力」。たとえば、「現実の時空を歪ませる力」。それは日常の時空から、悪場所に引きずり込む力、と言えばいいか。「オルタナティブを提示すること」。「生きなかった人生を生きること」。「生きなかった視覚、聴覚、味覚、などなどを生きること」。

「作品」は多くの人に向けられたものでありながら、自分だけに語りかけるもののように思われる。誰にでも優しいのに、自分だけに優しいと感じさせる人のように。しかし「作品」は、群れにいる九十九匹の羊のためのものではなく、群れからはぐれた一匹の羊のためのもので、あるいは九十九匹の羊の中に眠っている「一匹性」を呼び起こすものでもある。

つまり、「普通の人」を「普通でない人」にする契機になり得、そういう意味でも「動かす力」を持っている。

伝統性にしろ近代性にしろ、その大きな流れの中から自分を動かそうとする力を与える力を持っている。

それは具体的にどんな力なのか。自分が好きな作品、感動した作品を書きだしてみて、いくつかのグループに分けられることに気付いた。

一つ目は、作品と自分の切れ目が分からなくなるほどのめり込み、そういう形で激しく自分と対峙させられる作品群。自分と向き合わされる系、とでも言えばいいか。最近の例で言えば『進撃の巨人』『ぼくらのへんたい』『ピアノの森』。ずっと好きなもので言えば『西遊妖猿伝』などの主に90年代くらいまでの諸星大二郎作品、『絶対安全剃刀』などの80年代の高野文子作品など。小説で言えば三島由紀夫、随筆で言えば白洲正子。こうした作品群は、読むと自分と向き合わざるを得ない何かを感じる。もちろん私にとって、ということだが。

こうした作品群の特徴は、自分が本当の自分ではないという苛立ちがあり、今の自分でない自分になろうという茨の道みたいなものが描かれていると言っていいのではないかと思う。

二つ目は、『風の谷のナウシカ』とか『海月姫』、小説で言えば『嵐が丘』とか『星の王子さま』とかだろうか。これらは、とても面白いのだが、ある意味自分とは無縁の世界に遊ぶ面白さ、憧れのゆたかさみたいなものだと思う。

もう一つはその二つが未分化のまま結びついたもので、一番典型的なのが『ナルニア国物語』シリーズなのだが、明らかに自分と縁のない世界でありながら、憧れるだけでなく自分の生き方まで重ねてこの世界に触れていた。キリスト教的な絶対的な正しさが存在する世界というのは、私の中に憧れとしてはあるのだなと思う。

それに近いのが『ランドリオール』だ。ファンタジーの世界の中で、理想の「王」になるための試行錯誤の旅路を進むというストーリーは、人間のあり方みたいなものを考えさせられながら、それでも憧れでもある。『ナウシカ』は凄いとは思いつつも自分とは違う(自分の現実とも、自分の理想とも)なあと思うところが多く、つまりは別世界の話という感じがするのだけど、ランドリは自分にとってはそれにとどまらないところがある。

現実世界で十分適応して生きているのならば、それが伝統世界であれ近代世界であれ、特にオルタナティブな生き方を目指す必要はないだろう。しかし、どんな人間でもやはりどこかでこれでいいんだろうかと思う時が来る可能性はある。もちろん、オルタナティブと現実世界が対立する状況になった時、最後まで現実社会の側に立つことになる人もあるとは思うけれども。

自分は自分でないという苛立ちがなければ、今の自分でない自分を求める力は生まれないし、今の世界でない世界を求めようとは思わないだろう。

「作品の力」というのは、だから、「自分は自分でない」という苛立ちを確かめる力であり、「今の世界でない世界」を示唆する何かを見せてくれる力、ということになるだろう。

第4番目のグループとしては、そういうものだろうか。『カラマーゾフの兄弟』や『風の谷のナウシカ』のある部分はそういうものを見せてくれる。

別の言い方をすれば、第1のグループは「この世は地獄だ」ということを明らかにしてくれる作品、ということになろうか。あるいは自分の中に地獄があると。もちろんその中に美しさもある。「この世界は残酷だ。そして、とても美しい」そして作品によっては、その先の何かも見せてくれる。

第2のグループは、諸天というか、地獄めぐりを終えて上っていく道の彼方に見えるきらめきみたいな感じだ。第3のグループは、その旅路を一緒に上っていく案内者のような存在だろうか。第4は多分、目指すべき何かの片鱗が描かれているのだが、まだそれがはっきり見えているわけではない。

作品をつくるということも、読むということも、精神の世界の旅をすることだ。

不十分な素描だが、今日はここまで。

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by Luke Peterson

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