ベラスケスの謎と小人の誇り/シュペルリ:肉体美を見せるバレエ芸術/バカな怠けものと『メッテルニヒの回想録』

Posted at 13/08/28

【ベラスケスの謎と小人の誇り】

ベラスケスの十字の謎
カンシーノ
徳間書店

エリアセル・カンシーノ『ベラスケスの十字の謎』(徳間書店、2006)読了。子供向けファンタジーではあるが、大人が読んでも十分面白い。この話はもともと著者のカンシーノがプラド美術館にあるベラスケスの大作『ラス・メニーナス』を見て奇妙な感覚にとらえられたことから構想され、書かれたのだという。言うまでもなくこの作品はスペイン絵画史上もっとも有名な一枚だが、あらゆる面で型やぶりな作品でもある。依頼主である国王夫妻が部屋の奥の鏡に映って描かれるなど、考えてみればあり得ない構成で、作中でもそれを王に納得させるのにベラスケスはずいぶん苦労したらしい。作中でベラスケスは「永遠を描いた絵を描く」ために謎の人物と取引をする。まあそこに「画家が良い絵を描くために悪魔と取引をする」という、たとえば芥川龍之介の『地獄変』と同じようなパターンが現れているのだが、そのために死後魂を奪われるというファウスト的状況になったとき、それを救うのが本編の主人公・ニコラシーリョであるという構成になっている。

作者は、この絵の前に立つと「絵を見ているのではなく、逆に絵の中の人たちにじろじろ見られているような居心地の悪さを感じ、自分もまた、ベラスケスのキャンバスに描かれている人物になったような気が」した、と描いている。確かにこの作品の全体が、その「気分」を描くことに成功していると思う。

原題は"El misterio Verazquez"であって「ベラスケスの謎」とか「ベラスケスの神秘」とでも訳すべきなのだが、なかなか適当な役が見つからない。『ベラスケスの十字の謎』という題ももう少し何とかならなかったかと思うが、現代からまるっきり離れない限りピタッと来る題名は難しいだろうなと思う。

この本を読んで面白かったのは、17世紀スペインの宮廷社会の一端が描かれていることも大きかった。しばらく離れていたのでちゃんと認識して読み始めたわけではないのだが、この時代のスペインは「黄金の世紀」と呼ばれる美術の全盛時代で、スペインバロックの巨匠たちが綺羅星のごとく現れ、プラド美術館はそういう意味で宝庫になっている。私はこの時代が特に好きで、スルバランやリベーラ、特にムリーリョの絵を大学4年の頃は集中して見ていた。それももともと、スペインに旅行してプラド美術館で実物を見たことが大きいのだが。

ベラスケスのこの絵は有名であることは知っていたし、マルガリータ王女や国王フェリペ4世の肖像などもいいとは思ったし、偉大な画家だとは思ったけれども特にこの画家、と集中して見たいという意識はあまりなかった。エルグレコの幻想性、リバーラ・スルバランの静物の形而上的なまでの精神性・宗教性、ゴヤの華やかさ、そしてムリーリョによって完成された処女性を少女性として表現した聖母像の意義の方に――なぜ一神教のカトリックで聖母信仰というものが起こったのかとか――関心が行っていて、言わばある意味芸術至上主義的なベラスケスの良さというものが当時はあまりよくわかっていなかったのだろうと思う。

宮廷にあって、宮廷政治にまみれながら、(彼の死は本作でも触れられているが国王の娘とフランス王ルイ14世の婚儀に力を尽くしたことによる過労死であった)宮廷とその周辺の人々を描き、最後には貴族として最高の名誉であるサンチヤゴ騎士団の一員として死んだ。画家としては異例の厚遇だったわけで、17世紀というヨーロッパの全般的危機の時代、斜陽のスペイン帝国にあって、やはり信仰だけでなく芸術家としての意識があったとしか思えない作品を多く残している。

しかしその視線は非常に興味深い。当時のスペイン宮廷では小人であるとか奇妙な身体的特徴を持ったものが多く出入りしていた。主人公のニコラシーリョもイタリアの小貴族の家庭に生まれながら身長が伸びないことが分かってスペイン宮廷に連れて行かれ、そこで持ち前の才能を発揮して国王の執事にまでなり、多額の資産を残すという異例の出世を遂げた人物だ。そこでは「小人」たちは愛玩、玩弄、道化、と言った見世物的要素を期待されながら、力と誇りさえあればそこから出世さえして行くという不思議なスペイン的世界が広がっている。このことについて掘り下げて言うほど準備はしてないのだけど、スルバランの描く素焼きの皿が神々しいまでの精神性を持っていたり、『わが父パードレ・マエストロ』に描かれた枢機卿の隠し子が「女枢機卿」という綽名の有名な売春婦になっていて枢機卿の死に臨んで娘と和解したりすることと共通する、スペイン的な人間観・事物観・世界観・宗教観のようなものを感じる。

日本では「草木国土悉皆成仏」という言葉があるように森羅万象に仏性が宿る、という世界観があるが、その背景にあるのはアニミズムだと感じられるのだけど、スペインの場合はもっと徹底した「神の前の平等」的な世界観があるような気がする。奴隷は商人にひどい扱いを受けたりするのだけど、でも国王も奴隷も神の前では平等だ、みたいな感じがある。ものすごい封建社会ではあるのに、不思議な風通しの良さがあって、スペインは一つの哲学だ、と言いたくなるようなものを感じる。

ベラスケスは、宮廷につかえたり出入りしたりしているこうした「不具者」を描いた肖像画をいくつも描いているのだが、その視線は透徹していて、同情もなく侮蔑もなく、威厳を持ったものは威厳を持ったように描き、かわいいものは可愛く、利発なものは利発に描いている。何というかその対象へのせまり方は、フェリーニの視線のようなものを感じる。もちろん、フェリーニの視線の方がずっと皮肉なのだが、フェリーニが突飛なものをどんどん画面に取り込んでいくのと同じような感覚がベラスケスの絵を見ているとすることがあって、まあ神棚に祭らないで彼の絵を見ていると、たぶんそんな世界のとらえ方が彼にはあったのだろうなと思わせる。

しかしこの作品で一番好きな場面は、ニコラシーリョがはじめて国王の前に呼ばれた時のことだ。貴族と悶着を起こしたことが国王にばれ、その理由を詰問されて「愚弄を避けようとしただけだ」と答えたら、国王に「なりに似合わず、ずいぶん矜持が高いものよのう」と言われ、黙っていたら王が歩み寄ってきて顔を上に向かせ、「余のもとで仕えたければ、その誇りを大事にせい」と言われる、という場面だ。

これが創作なのか、ニコラシーリョが残した文書に書かれていることなのかは知らないが、この一言でフェリペ4世という今まで凡庸としか思っていなかった君主のイメージが全く変わった。その「誇り」こそが現代を生きる人々にも必要なものなのだと思う。


【シュペルリ:肉体美を見せるバレエ芸術】

なかなか時間がなくて全部が見られていないのだが、シュペルリ振付のチューリヒバレエ団、バッハの無伴奏チェロ組曲の踊りのことをよく考えている。この作品を、私はとても好きなのだが、10歳ほど年長であるベジャールの作品と頭の中で良く対比している。

ベジャールの作品は「ボレロ」であれ「春の祭典」であれ、バレエを完全に解体している。解体しつつ、やはりバレエダンサーでなければできない動きを追求しているという点で、バレエでないバレエであり、やはりモダンダンスとは違う。ベジャールという人自身がゲイであるということと関係するのだろうけど、バレエという芸術にとって根本的に重要である身体の持つ男性性と女性性というものを分かりにくくしようというか抽象的にしようとする姿勢があって、何というかやはりベジャールは本当の天才なんだという感をシュペルリの映像を見ながら深くしている。

シュペルリの動きはベジャールほどバレエを解体しておらず、バレエでよく使われる動きを意識して使って組み立てているように思う。しかしそれが通常のバレエ的な使われ方ではなく、何というか肉体の量感みたいなものがすごく感じさせるつくりになっていて驚いた。

ベジャールは、私の感じでは見せているのは肉体ではなく技術であり振付であるという感じが強いのだが、シュペルリは肉体そのものを見せることにかなり重点を置いていると思うし、そこが私には非常に面白く、好きだなと思った。

しかし例えば暗黒舞踏的な肉体の原点を見せるというのとも違って、バレエ的な「鍛えられた肉体」を見せるというものだと思う。そこにある種の可笑しさがあって、この可笑しさが何に由来するのだろうと思ったが、つまりはボディビルのパフォーマンスを見るのと同じ可笑しさなのだと思った。

私は正直言ってボディビルというものがどこがいいのかは全然わからなくて、何というか滑稽なマッチョというふうにしか見えないのだけど、そう思ってしまうのはボディビルディングというものの文化的背景が全然理解しておらず、また共感もしていないからだと思う。シュペルリの肉体を見せるパフォーマンスというものは、やはりそれがバレエというものの持つ圧倒的な力、美への執念の歴史みたいなものが背景にあるから面白いのだと思うし、可笑しみは感じるが滑稽にはならないのだろうと思う。

そして、バレエというものは細くて鍛えられた肉体でなくても、技術さえ身につければ万人が表現可能な芸術なんだという感を覚えた。モスクワ芸術座だったか、太り過ぎたために首になったなったプリマドンナがいたが、そういうものを率先して生かすようなパフォーマンスは可能だと思う。さすがにオデットをやるのはどうかと思うが、バレエというものの可能性を広げる契機になりえたと思うのだけど、まあ本人やバレエ団もそんな革新的な意図は持ってないのかもしれないと思うとまあ残念ではある。

月刊 少年シリウス 2013年 10月号 [雑誌]
講談社

ここ数日買ったもの。昨日買ったのが『月刊シリウス』。『進撃の巨人』外伝が目当てならちょっと物足りないだろう。12ページしかないプロローグのみだった。連載されている『獣の奏者』を読めたのはまあ良かったが。

Comic ZERO-SUM (コミック ゼロサム) 2013年 10月号
一迅社

今日買ったのが『コミックゼロサム』。「ランドリオール」はクレッサール編続く。六甲への思い。HIKAKIN『僕の仕事はYouTube』。目についたので買ってしまった。内容は面白い。HIKAKINという人はときどきYouTubeで見ていたなということを思い出した。こっちの作品は、まあ好き好きなんだろうなと思う。

僕の仕事は YouTube
HIKAKIN
主婦と生活社

【バカな怠けものと『メッテルニヒの回想録』】

メッテルニヒの回想録
恒文社

ふと目について、数十年前に買ったのだけど読んでなかった『メッテルニヒの回想録』をぱらぱらと読みだしたらすごくおもしろそうだった。『ベラスケス』を読んで昔の勘が戻ってきたのかもしれない。バリバリの保守主義者、19世紀前半のヨーロッパの主役だったメッテルニヒの残した回顧録が、面白くないはずがないのだが、少し読みながら思ったのは、「保守主義者は観察を重視し、革新主義者は行動を重視する」ということ。革新主義者は行動によって世界を変えて行くしかないが、保守主義者は軽挙妄動しない。世界の動きをじっと見ていて、本当に必要なところで必要な手を打つ。なぜそれが出来るかというと、保守主義者の本当の強みは歴史的な「蓄積」にあるからだ。

ということで私自身のことを考えると、怠け者でバカではあるが、観察は怠らないところがあるから、まあつまり私がメッテルニヒとか伝統社会を描いたものとかを面白いと思うのは、そういうことなんだろうなと思ったのだった。

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by Luke Peterson

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