誕生日に本をもらう/何をどう書くべきかを考えながら

Posted at 13/08/14

【誕生日に本をもらう】

LIFE WITH THE BEATLES
辰巳出版

誕生日に何冊か本をもらった。ビートルズの写真集『With the Beatles』(LIFE)、丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』(真人堂、2013)、『世界の民族衣装』(ナショナルジオグラフィック、2013)。それぞれ読み応えのあるもの。ビートルズの写真集は1960年代半ばの、日本に来たり、シェアスタジアムでのコンサートなど、一番売れていて、一番多作であった時期のもの。こんなふうに被写体になりながら、あんなふうに音楽を作り続けていたのかと思うと凄いと思う。『世界の民族衣装』は1900年代から30年代、つまりほぼ100年前の写真で、カラーもあるがほとんどは着色写真だと思われる。ほんの百年前に世界はこれだけ多様だったのだということが分かるのが面白い。

100年前の写真で見る 世界の民族衣装
日経ナショナルジオグラフィック社

中国は清の時代で、ということはモンゴル人がエリートの時代なので、立派な門構えの門がついたゲル(パオ)の前で満洲式の正装をした、でも明らかにモンゴル人の顔が並んでいたりして、いまでは絶対存在しえない(今のモンゴル人は満洲服でなくモンゴル服を正装にするだろう、当然)写真があったりして実に興味深かった。どこも華やかで美しい写真が並んでいたが、東ヨーロッパのセルビアやマケドニアの写真がひときわ貧しさを感じさせ、こういうところから第一次世界大戦が起こったのだなということが納得できる感じがした。いずれにしても、自分ではなかなか買わないような本をもらうということは、改めて発見することがあって面白い。

新装版 まだ見ぬ書き手へ ( )
丸山健二
出版共同流通

丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』は基本的にスケールのでかい小説家希望者に対するアジテーションの本なのだが、この人自体の偏屈爺ぶりというのが凄くて読んでて盛り上がる。そういえば自分も芝居をやっていた頃はこんなふうに「自分が凄いことをやっている」という自覚を持っていたし、あるいは高校時代まで自分が属した集団でも似たような感覚を持ったことがあった。まあそれらは今では幻だったと思う部分が多いのだけど、でも嘘でもそういう感覚というか、少なくとも気概を持つことは創作者としては大事だと思う。ちまちました、世の中にあってもなくてもいいようなものを少しだけ加えるような変な謙虚さは作品をつくるときには無用なもののわけで、少なくとも私にとってはこのアジは有用だと思った。


【何をどう書くべきかを考えながら】

昨日はそういうものを読みながら自分を掘り起こした感じがあったのだが、今日は今までやろうとしていたこととその掘り起こした自分の折り合いというか、何をやればいいのか何を書けばいいのかという感じが整理がつかない感じがあって、朝から自分の書くべきものについてモーニングページを書いたりそんな気持ちを抱えながらツイッターを読んでたらつい強い言葉を書きいれたりとかしていた。

六韜 (中公文庫)
伝・太公望呂尚
中央公論新社
三略 (中公文庫BIBLIO S)
中央公論新社

午後、日本橋に出かけて、丸善の地下でモーニングページ用の原稿ノートを二冊と、今考えていることをまとめる用にA5の無地のノートを1冊買って、本やマンガを物色した。買ったのはなぜか中公文庫の『六韜』と『三略』。両方とも中国の兵法の本だが、精神文化という思想的なことを考えていても私が考えだすとどうもそういう方法論的なプラグマティックな方にリアリティを感じてしまう傾向があるんだなあと思う。私は好き嫌いで行動するタイプではないし、勝ち負けで行動するタイプでもなく、また意義が分かったら行動するというタイプというよりは、やり方が分かったら行動するというタイプだから、自分の行動に直結しやすいところにリアリティを感じるということなんだろうと思う。

自分の行動原理を考えると、人を守ったりすることにもわりと冷淡というかまあ自分で守る気のある人は助けるけど守ってもらいたいタイプの人は放置する方だし、自分でなんとかしようとする人にはアドバイスするけど指導されるのを待ってる人はほっとく方だなと思う。援助はあくまで援助であって起動するのは自分でしろということなのだが、金をもらう場合は起動の援助もしなくはないが、本来はあまりしない方がいいとは思っている。好き嫌いで行動する人にはその危うさを指摘したりもするし、理屈だけで行動する人にもその陥穽について言うだけは言う。結局物事の成否はいかにその物事の成り行きをきちんと見守って、必要なところに手を入れほっておくべきところはなるべくほっておくということだと思うのだが、まあなかなか思うようにいかないことは多い。

そういう人間が精神文化を考えるということにどういう意味があるのかと思うのだけど、やはり問題提起をきちんとし、提起された問題についていくべき方向性を自分なりに言明して、できればそういう方向に世論が流れるように導こうとはするのだが、それもまたそう簡単なことではない。当たり前だけど。

世界が本質から流れ出ているということよりは、細部に宿っている神を呼び出して本質と現状を結びつけつつ流れを変えて行くということの方が、自分には合ってるのだろうなと思う。だから精神文化を考えると言っても、本質論を述べるというよりは、沈んでいきがちな世界の本質を現状の中から拾い上げて、少しでもその本質をあらわにするとともに、その重要性を認識してもらえるような方向に持っていく、そういうプラグマティックな試みの方が私には合ってるのかもしれないなと思う。

実際、現代の世の中の推移の中で、一番犠牲になってるのは精神とか文化とか教養とかそういう種類のものであると思うし、それは本来人間が生きる上でそんなないがしろにされていいはずのものではないことだけは私にも理解できるのだから、そういうものを少しでも世の流れの中に戻していくことが、とりあえずは私の取り組むべきことなのかもしれないなと思う。

おそらくは、靖国問題とか従軍慰安婦問題とか普通は政治マターでしか語られないことの中にも、そういう精神性とか文化とか教養とかの本質で語るべきことがあるはずだと思ってそういうことをいかに露わにしていくかが自分にとっての問題なんだろうなと思う。

その中から描くべきフィクションも生まれてくるのだろう。

スティーブ・ジョブズ(1) (KCデラックス)
ヤマザキマリ
講談社

もう一冊買ったのがヤマザキマリ『スティーブ・ジョブス』第1巻(講談社、2013)。これはアイザックソンのジョブズの伝記を漫画化したもので、とても面白かった。作者のヤマザキがあとがきでジョブズには絶対惚れない、と断言してるのが可笑しかったが、描写は例によって飄々としたヤマザキの筆致で描かれていて、まあコミカライズとしてはうまくいっていると思う。第1巻はインドで放浪し始めたあたりまで進んでいる。

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