麻生発言とナチスの亡霊

Posted at 13/08/03

【麻生発言とナチスの亡霊】

麻生太郎というのは魅力的な政治家だ。その発言はアイロニーや皮肉、逆説的な言い回し、悪い冗談、寸鉄人をさすような表現に満ちている。もちろんこの日本の政治家だから、分かりやすく表現することも多いが、どうもそういう表現を続けているとついパラドクシカルな表現をしたくなってしまうらしい。日本語ばかりしゃべってると自分の中のバランス感覚が働くのか、英語の表現がひょいと飛び出したりもする。気さくで口数の多い政治家だから、「余計なこと」もずいぶん言う。周りははらはらするだろうが、しかしそういうところが官僚的な安全な答弁や信念や哲学に裏付けられた中身のない薄っぺらな言葉しかもたない一般の政治ジャーナリストや政治家たちにない魅力だと感じている人は多いに違いない。

麻生さんの「ナチス発言」が物議を醸している。吟醸酒を醸すならいいが、物議を醸すのは良し悪しだ。彼の、というか自民党の政治家がやりがちな失言披露による「炎上マーケティング」なのかもしれないが、それを失言として取り上げる人がいるからこそこういう事態が招来されるのだろう。

発言の内容はこれ。見事に余計なことを言っている。しかし言いたいことの文脈はもういい終えて、軽口の部分に入っていることはちゃんと読めばわかる。だいたい、普通の日本人にナチスに共感し、その手法を学べなどと考えている人がいるわけない、という文脈を、ほとんどの日本人は共有している。「その手口に学べばどうかね」という表現が冗談になるのは、「そんなことありえない」ということが分かっているからこそなのだ。

しかし、残念ながら世界においては、ナチスを肯定する人たちが少なからず存在する。だから日本に対してろくな知識のない、あるいは1940年代前半にナチス・ドイツの同盟国であったという生半可な中途半端な知識だけがある人にとって、すわ日本にナチスシンパの政治家が、と仰天する向きがあっても不思議ではない。しかし、そんなことは全くの誤解であることは国語読解力のある普通の日本人には分かりきったことなのだから、むしろその誤解を解く方向でニュースを伝えるようにするのが正しい報道というものだろう。

しかし、日本のマスコミはそういう政治家のニュアンスに富んだ発言を好まない。官僚的な答弁をするな、とか言葉が薄い、と批判はしても、麻生さんのようなウィットにとんだ、時に危ないと思われるような発言を「魅力ある発言」と取り上げるのでなく、「失言」であると揚げ足を取って自らの部数を増やす商売に利用できる「報道的資源」としてとらえることを最優先する。そしてその尻馬に乗った野党政治家たちはその発言の真意を捕えようと努力することなく、「敵失」と見て騒ぎ立てるための「政治的資源」としてのみとらえる。

そして日本たたきの題材を虎視眈々と狙っている(残念ながら、日本たたきをすることは一定の商売になる。シーシェパードや中韓の反日団体だけでなく、日本製品との競争に晒されている多くのメーカー関係者、日本の後進性を説くことで日本市場への介入を図ろうとする勢力、あるいは人種差別的な意識から日本の存在を快く思わない人たちなど)海外の猟犬のようなジャーナリストや政治家たちに格好の題材を提供することになる。そしてそれを彼らが取り上げると、日本のマスコミや政治家たちが「海外でもこうだ!」とそれを錦の御旗にして騒ぎ立てる、という悪弊を今回も繰り返している。

こうした事態に、麻生さんサイドも発言の趣旨を再度説明し、そうした意図がなかったことをきちんと説明しているのだが、(こちら)それでもなお一度エサを与えられたらしゃぶりつくすまでは黙っている気のない野党政治家やマスコミたちは騒ぎ立て続けている。

こうした発言があったとき、まず、その真意が何だったのかを確認すること、つまり麻生さんが何を言おうとしていたのかをきちんと確認することからしか、言葉を唯一の材料とした政治の方法である民主主義というものは成り立たないはずだ。ツイッターでいろいろな人の発言を読んでると、麻生さんの真意をきちんと汲み取っている人は立場の左右に関わらずいるし、きちんと汲み取れない人も左右に関わらずいるようだ。

だいたい、麻生さんの発言の趣旨の再度の説明などというのは、「今の冗談はこういう意味でした」という説明であって、本来全く不要なものなのだが、冗談が冗談として通じていないという事態になっているし、でも本当はかなり多くの人が単なる冗談だと分かっていることを敢えて火をつけて回る人にとっては恣意的な文脈の読み変えを行い、日本の国際的立場を危なくしてでも、自分たちの誤読を言い張ろうとするのだから、まさに木を見て森を見ていないという状態になっているのだ。

「冗談が通じないぐらい悲しいことはないが、困った事にしばしば責任も生じる。」というツイートがまさに本質をついている。

しかし、麻生発言を批判する側も、文脈から行ってナチスを肯定している発言のはずがない、という主張に説得力を感じるのか、今日あたりになってとにかくナチスを引き合いに出すような発言をすること自体が「国際感覚」を欠いていて、日本の「国益」を損ねる、というツイートが現れ始めた。

私も従来、そういう主張にけっこう耳を傾ける方だったのだが、今回の事態の進展を読みながら、それ自体に何か卑屈なものがあることに気がついてきた。

まず、「国際感覚」とは何だろう。「国際社会」もそうだが、要するに「欧米スタンダード」のことであることは言を待たない。この言葉を朝日新聞などは中韓との関係などにも用いようとするがそこに違和感を感じるのはもともとこの言葉が欧米スタンダード以外のなにものも指していないことに彼ら自身が理解しているのに敢えてその言葉の枠組みを広げようと無理をしているからだ。

「国際感覚」とはつまり、「欧米人の感覚」以外の何物でもない。そして、欧米人の感覚は、われわれの感覚とは違う。だから、われわれは「国際感覚」というものに対し、深く共感を覚える部分もあればそれほどでもない部分もあるのは当然だ。もともとがわれわれ自身の感覚ではないのだから。日本人が欧米感覚そのものをもたなければならないという主張は、日本人は「植民地の上級現地人」でなければならないという主張とそうは違わない。

つまり、「彼らがナチスというものをわれわれよりものすごく強く嫌っている以上、われわれはその嫌悪感に思いを致し、ブラックなジョークとしても使うことは厳禁であり、その禁に触れた麻生などという高が日本人の政治家は身の程を知って二度とそんな発言が出来ないように追い落とされるべきだ」と言っているのだ。

しかし、その発言は、なぜ彼らがそれほどナチスを嫌い、恐れるのか、そのこと自体を考えていないし、少なくとも問題にしていない。一定の知識人の発言がそうなのだからまさか全然考えていないとは思いたくないが、彼らがナチスを恐れるのは、彼らが絶対的に素晴らしいと思っている西欧近代文明こそが、ナチスを生みだした親だからなのだ。

ナチスを生みだしたのは、当時世界で最も民主的とされたワイマール憲法をもつワイマール・ドイツなのだ。それは歴史的事実なのだから否定しようがない。麻生さんの発言自体がこの辺は不明確、あるいは不正確で、ワイマール憲法自体はナチス時代にも廃止はされていないのだ。だから、ナチス時代の憲法は何かという世界史の問題の解答はワイマール憲法でなければならない。

そのことは、欧米人にとって、深い心の傷になっているようだ。ナチスは基本的に庶民的な政党で、エリートからは毛嫌いされていた。そのスタイルが彼らの実行部隊である突撃隊(SA)に反映されている。とにかく暴力的で本音でぶつかる感じで、その指導者だったレームはヒトラーとオレお前的な物言いをする関係だったようだ。ナチスが政権を取ったのは、基本的に総選挙の結果だったことを忘れてはならない。もちろん共産党の排除や非合法化など一定の工作がなされてのことであることは間違いないが、こうした政治的暴力が全くない国は当時はほとんどない。アメリカでは1960年代になっても多くの政治指導者が暗殺されたことは忘れるべきではないし、ナチスが進出しつつあった1925年はKKKの全盛期で構成員は全米で600万人を超え、黒人に対する暴力が日常茶飯事のように行われていた時代だった。ドイツの方が明らかにアメリカより「進んだ面」を多く持っていた国だったのだ。

ナチスは現在も大量破壊兵器とされる原子爆弾、生物兵器、化学兵器を次々と開発したが、その開発は結局多くのケースでアメリカの方が先んじた。しかしナチスドイツの持つ「進んだ科学技術」によりつくられた化学兵器によってユダヤ人のホロコーストが行われたことは言うまでもない。そしてナチスが作れなかった原子力兵器は結局、アメリカによりわれわれ日本人に対して使われたことも。

欧米世界の中でも政治的にも哲学的にも文学的に科学的にも最も進んでいたと言っていいドイツでナチスのような忌まわしい存在が生まれ、世界に多大な災禍をもたらしたことを、欧米人はわれわれが想像する以上に当惑している。これは日本人や中国人やアフリカ人やイスラム教徒のような(彼らにとって)遅れた輩によって引き起こされた現象ではなく、まさに彼ら自身の中で起こった忌まわしい出来事なのだ。

彼らがナチスに関する「政治的正しさ」というものにヒステリックなのは、いまだに彼ら自身の中でそれが清算できていないからに他ならない。逆に日本人はナチスと言っても単なる歴史的現象としか基本的には思ってないから、のほほんとしている。遠い国の、何十年も前の出来事なのだ。

日本人はそういう意味で歴史感覚が鈍いところがあるが、それはある意味仕方がない。それは、われわれにとってもっとも痛切な痛みであるはずの、第二次世界大戦の惨禍を表立っては批判できない立場にあると教え込まれて育っているからだ。明らかに、「原子爆弾の投下」は「人類に対する犯罪」であるのに、日本でアメリカに対しそれを非難できる政治家はゼロだ。それは、アメリカが巧妙に「日本がアジアで悪いことをしたからそれを言う資格がない」というストーリーを与えて誘導したからで、日本人の牙を抜いて中国や韓国に政治的資源を与えるという彼らの都合にいまだに振り回されているからだ。その結果、われわれはわれわれが被った痛みに鈍感になってしまっている。従軍慰安婦の件で韓国人がいきり立つ以上の感情で、われわれはアメリカを非難してもいいはずなのに、その感覚が鈍磨している。そのことが、「他者の痛みへの鈍感さ」にもつながっている。

福島の原発事故がなかなか収束しないことで、日本人は何と「自分たち自身の痛みにさえ鈍感」なのか、と呆れさせられたが、自分の痛みのわからない人々に他者の痛みがわかるだろうか。

ただ、その分われわれはナチスという現象を客観的に、冷静に見られるところがあるし、あんなふうにならないようにしないといけないよな、というのは普通に歴史を学んだ者には共通理解としてあるだろう。ただ、その冷静さ自体を、彼らから見て理解できないということはあるだろうし、ましてやナチスと同盟国だった過去さえあるのだからナチスに対するシンパシーが今でも日本に!という亡霊のような誤解が生じやすいことはあるだろう。そんなものは枯れ尾花に過ぎないということはわれわれには自明なのだが、彼らは心底ナチスの亡霊を恐れているので、そんなことも納得はできないのだ。

「国際感覚」を振りまわす人たちは結局、「彼らは私たちを理解する義務はないが、私たちは彼らを理解する義務がある」と主張しているわけだ。それを卑屈と言わずして何と言うべきだろう。確かに、日本は開国以来、その宿命を義務付けられてきたし、日本人は健気に条約改正に取り組み、大国とのるかそるかの戦いを戦って勝ち残ってきた。しかし例えば中国は国民党時代、革命外交と称して既存の列強との条約を次々と無条件で破棄して行った。そして第一次世界大戦後力を失っていたイギリスをはじめとする列強は、そのやり方を大筋で受け入れていくことになる。それを見て多くの日本人は自分たちの(いわば卑屈な)努力は何だったのか、と思ったに違いない。それが中国に対する必要以上の敵意や蔑視につながった面はおそらくかなりある。われわれは手段として理解と合意を用いるべきだということと、われわれが卑屈な姿勢で彼らに迎合しなければいけないという植民地エリート思想とは混同してはならない。その卑屈さは、思わぬ形で他者にもわれわれ自身にも危害をもたらすからだ。

中国人は、結局自分たちが欧米人を理解する義務があるなどとは思っていない。結局パワーバランスがすべてだと思っているし、実際そうなのだ。日本人は結局「心でっかち」なので、そういう部分が理解しにくい。一生懸命やれば「至誠天に通ず」と思っている。天には通じるかもしれないが、欧米人にも中国人にも政治的には通じないだろう。

つまり、いまだに解決していない「ナチス」という問題は、われわれの問題ではなく、彼らの問題なのだ。もちろん、世界史の一部であるという意味ではわれわれの問題でもあるけれども、より多く彼らの問題であることは言を俟たない。ということは、彼らは自分たちがナチスという問題を解決できないことの恐れを麻生発言に投影しているだけのことで、もともと麻生発言自体が持っている問題ではないということは明らかだ。

ナチスという問題は、まず誰よりも、ナチスという問題を生みだした西欧近代文明を絶対的に肯定している欧米諸国が解決しなければいけない問題だということはこれで明らかになっただろう。それでは、私たち自身が解決しなければいけない問題は何だろうか。

それこそが、われわれ自身の問題、われわれが何であるかという問題、われわれが何を目指すべきかという問題、つまり我々のアイデンティティの問題であり、それがあらわされるべきなのが「憲法」であることは言うまでもない。靖国問題も、それから派生している問題なのだ。

その「憲法」の問題、われわれのアイデンティティの問題は、どのようにして解決していくべきだろうか。

一人一人のアイデンティティの問題は、どのようにして解決すべきかというと、「一人でじっくりと確信に至るまでよく考える」以外の方法はないだろう。もちろんいろいろな経験を積んだり、自分がいかにあるべきかを考えながら、さまざまな行動をしながら考えていくしかない。親からとやかく言われたり、先生や友達とわいのわいのして、「いぇーい、これが俺のアイデンティティーだぜー!」と決めるものではないだろう。

日本のアイデンティティである憲法の問題も、当然そのようにして考え、静かに冷静に議論して行くべき内容だろう。麻生発言をよく読めばわかるが、そういう当たり前のことを言っているだけだ。いろいろな意見が出るのは当然だけど、口角泡を飛ばして頭に血を上らせて決めていくべきことではない。アメリカ独立宣言やフランス人権宣言も大日本帝国憲法も、誰かが草案を作りそれの可否を逐条的に討議しながら決めて行ったものだ。日本国憲法も原案がGHQから出されたとはいえ、(というかそれが決定的にダメな点だが)帝国議会で議論しながら逐条的に審議されて、静かな議論の中で決められて行ったものだ。

なぜか民主主義というと昂揚してシュプレヒコールして「ナンセンス!」とか叫びながらやらなければいけないというイメージをもってる人が団塊世代を中心にまだ多くいて、憲法制定などという自らのアイデンティティを定めて行くような微妙なニュアンスに富んだ作業が実際どう言うふうにあるべきものか考えてもいない人が多いように思われる。朝生の議論で憲法を決めることが出来るのか、考えてみたらいい。少なくともあんな議論で決められた憲法は私は嫌だ。

今回の騒動で、一番迷惑を被ったのは勢いで改憲を進めようとしていた一派だろう。私も議論の進行や自民党の憲法案を見ていて、今の憲法も問題が多いことは確かだが、こんな程度の低い議論で新しい憲法に改正されたらちょっとかなわないなと思ってはいた。ツイッターの議論を呼んでいると、もともと池田派=宏池会の流れをくむ保守本流=軽武装経済重視派=ハト派である麻生さんが、岸派=タカ派の流れの改憲勢力を牽制しようとしてこんなことになった、という見方があって、それだと麻生さんが自分にナチスのイメージを被るという自己犠牲を覚悟して憲法改正を阻止したというストーリーが生まれて可笑しいのだが、少なくとも「勢い改憲」に釘を刺そうとしていたことはニュアンスとして感じられる。

麻生太郎というのは魅力のある政治家だ。最初に書いたように彼は「失言」が多い。彼のスタイルを見ていると、チャーチルを思い出す。チャーチルもスタイリッシュでなおかつ失言の多い政治家だった。そしてチャーチルはナチスとの対決を自らの生涯の政治的テーマに選び、世論がまだナチスの危険を認識していなかった頃から警鐘を発し続けた。そしてナチスドイツとの全面的戦争という非常事態が起こったとき、彼以外にイギリスを率いる適任者はいなかった。

麻生さんがチャーチルほど力量がある政治家かというと、それは正直よくわからない。チャーチルくらい体格がよかったらそんな雰囲気も出たかもしれない。チャーチルは回顧録でノーベル文学賞を取ったが、麻生さんは揮毫で力のある字を書くそうだが、回顧録はどんなものだろうか。今回の騒動について、いずれ書いてもらえると面白いとは思うのだが。

考えてみれば、麻生さんの祖父である吉田茂元首相もまた、失言の多い政治家だった。失言というか、ポンと飛び出す発言が妙に心に引っかかるというか。バカヤロー解散とか外套演説とか曲学阿世の徒とか枚挙にいとまがない。ワンマンと言われ、保守反動と言われながら、戦後の日本の方向性を定めた。それがどう評価されるべきかは難しいが、国際関係の構造が変化しつつある現在、その方向性自体を見直していく必要があることもまた事実だろう。

その作業もまた、冷静に、静かにやるべきだ。

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