ティム・ボウラー『川の少年』/『十五少年漂流記』と『進撃の巨人』/「少年」をこじらせ続けて数十年:『ランドリオール』『ぼくらのへんたい』『来世であいましょう』

Posted at 13/06/12

【ティム・ボウラー『川の少年』】

川の少年 (ハリネズミの本箱)
ティム・ボウラー
早川書房

昨日、帰郷の特急の車中で、ティム・ボウラー『川の少年』"River Boy"を読み始めた。読み始めてすぐ、それが正しい選択だったことが分かった。この少年向けの小説は、田舎に向けて家族で車を走らせるところから始まる小説だということがわかったからだ。

主人公のジェスは、泳ぎが好きで、得意な15歳の少女だ。頑固者で、有名な絵描きであるおじいちゃんと、お父さんとお母さんと4人で生活している。おじいちゃんは身体が弱っていて、楽しみの一つであるジェスが泳いでいるところをプールに見に来たとき、胸をかきむしってプールの中に倒れ込んでしまったのだ。

それなのにおじいちゃんはすぐに病院を飛び出し、家に帰ってきてしまった。つぎの日からの夏の休暇に、おじいちゃんの故郷へ旅立つことになっていたからだ。60年間、一度も帰ったことのないおじいちゃんの故郷。そこにどうしても行かなければいけないとおじいちゃんは考えていた。そこで絵を描かなければならないと。描きはじめられた絵には、一面に川の水面が描かれていて、そして無題でしか絵を描かないおじいちゃんには今までなかったことに、題名がつけられていた。「川の少年」と――

泳ぎが好きな少女。読んでいて、私はその人のことを思い出した。イルカのように泳ぐのが得意だった。平泳ぎも背泳ぎもクロールも、バタフライでさえも難なくコースを泳ぎ切った。ジェスは、自分のペースにのめり込み、夢中で泳ぐ。ストロークにあわせて、寺宝のように規則的なリズムで息づかいを刻む。泡が唇を小さな魚のようにくすぐる。その人も、泳いでいるときに、そういうことを感じ、考えていたのだろうか。いや、そうではないだろう。あの人はただ泳いでいた。そう、ただ泳ぎ続ける人だった。

ひとつのことに熱中し、何時間でもやり続けられる。それは少年の特徴だ。しかし、ただ好きなだけで純粋にのめり込むだけにはなれないというのが15歳という年齢だ。すでに、忘れてしまいたいことも心に刻まれ、見たくないことも見てしまっている。傷つくことも知っている。ただ好きなだけでなく、のめり込むためにのめり込む、そういう熱中があることも知っている。

繊細な少年の、少女の心。この先の展開は、まだ描かないけれども、ここに広がる世界が自分にとても親しかった、あるいは今でも親しいものであることが私にはわかった。そして多くの人にとっても、思いだしてもいい、あるいは思い出すことができる何かがあると思う。現在86/246ページ。


【『十五少年漂流記』と『進撃の巨人』】

子供のころ好きだったものと、どう向き合うのか。私は、自分が好きなものは誰でも好きなんだろうと思ってしまうところがあり、それだけならいいのだが誰でも好きなんだからありふれているし、そのことについて特に語ったりするようなことでもない、と思うことが多かった。しかし今考えてみると必ずしもそんなことはなくて、自分の周りにいる人だって必ずしも自分の好きなものが好きなわけでもない、ということはよくあった。それに、私がものすごく熱心にそのことについて語るから、周りもそれが面白い気がしてしまう、ということもあったんじゃないかという気がする。そんなふうにして、自分の中では「誰でも絶対面白いもの」であったものがたくさんあったのだが、そのひとつがジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』だった。

二年間の休暇 (福音館古典童話シリーズ (1))
ジュール・ヴェルヌ
福音館書店

高校生になった頃、その正式の題名が『二年間の休暇』であることを知ったり、また漂流物としては『ロビンソン漂流記』や『スイスのロビンソン』なども好きだったが、『十五少年漂流記』は別格だった。少年たち一人一人の個性、国籍による違い、訓練のされ方、困難への向き合い方、意見の相違が起こったときの対処。そのたびにドキドキハラハラしながら、もどかしいようにページをめくっていったのを思い出す。一人で自然の中に放り出されたら何をしなければいけないかとか、何が必要かとか、そんなことばかり考えていた。

実際、それを読んだ当時住んでいたのは山と平野の境目のような新開地のような場所だったので、山に入り込んでしまって出て来られなくなったらどうしよう、というのは無縁な空想ではなかったのだ。もちろん、好き好んで山奥に入っていかなければそんなことは起こらないのだが、わりと好き好んで入っていったりしていたから、山の中は遊び場だったし、木登りなんかもごく自然な当たり前のことだった。穴を掘ったり、崖を崩したり、落ち葉を拾ったり、木の実を集めたりするのもやろうと思えばいつでもできることだった。

穴というか、木の枝に隠れておそらくは地面がないのにあるように見えていたところで足を踏み外して左腕を折ったのもそんな時だった。整骨医に運ばれてギプスをはめたけれども、考えてみれば怪我の多い子どもだった。あんなふうに山の中にいるのがいつでもできる当たり前のことだったというのは、今考えてみるといかに貴重なことだったかと思う。

TVアニメ「進撃の巨人」オリジナルサウンドトラック
ポニーキャニオン

『十五少年漂流記』を思い出したのは、『進撃の巨人』について考えていたからだ。『進撃の巨人』は巨人と戦う人類の話なわけだが、もっと掘り下げていくと、本当は少年たちというものを巡る話なのだ。登場人物の一人一人が、すごく個性を持って描き分けられている。性格描写もそうだが、今日改めて読み直していて気がついたのは、一人一人の目の描き方が全然異なっているということだ。主人公エレンにはほとんど黒目がない。ヒロインのミカサは目のほとんどが黒目に見えるくらい、大きな黒目をしている。アニメでは、その表情の変化がもっと細かく描かれていて、エレンが死んだと聞いたときから瞳の光が全く消え、エレンに「戦え!」と言われたことを思い出して、何としてでも生きる、と決意した時から瞳の光が復活するとか、その描写が非常に細かい。たくさんの人物の描き分けの中で、ほとんど目を見ればそれが誰だかわかるというキャラクターが何人もいることに気がついて、これは実は大変なマンガだ(そんなことは改めて言うまでもないのだけどまた更に)と改めて思った。

それぞれの個性をぶつけ合いながら、自分というものに気づき、世界というものを見つけ出して行く群像劇。巨人という共通の敵あり、突如として判明する仲間の中の敵あり、息をもつかせぬスリリングな展開。

少年は、一人でも行動するが、仲間でも行動する。その両方の側面が、『進撃の巨人』にはよく描かれている。


【「少年」をこじらせ続けて数十年:『ランドリオール』『ぼくらのへんたい』『来世であいましょう』】


私が今、毎週買っている雑誌は『モーニング』と『週刊漫画タイムズ』だが、毎月買っている月刊誌は9日発売の『別冊少年マガジン』(『進撃の巨人』、『悪の華』など)、19日発売の『コミックリュウ』(『ぼくらのへんたい』、『木造迷宮』、『思い出エマノン』、『陰陽師』など)、28日発売の『コミックゼロサム』(『ランドリオール』など)の3冊がある。

Landreaall 19 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
おがきちか
一迅社

そのひとつ、目当てで買ってる作品が『ランドリオール』なのだが、この作品も主人公DXを中心に仲間たちが描き分けられ、世界の謎に挑みながら、新しい世界をつくっていこうとする、その前段階のようなストーリーだ。少年という存在の隠れテーマは仲間、友情なわけだが、それが上手く表現されている。自分の運命をいかにやすやすと乗り越えていくか、みたいなテーマがあって、運命や宿命とかと、少年がいかに戦っていくかと。自分が心から強く魅かれる作品というのは、結局少年がテーマになっている作品なのだということが考えていてどんどん分かってきた。

ぼくらのへんたい 3 (リュウコミックス)
ふみふみこ
徳間書店

もうひとつ、『ぼくらのへんたい』もまた同じだ。ここにある女装する中学生男子三人の関係が、恋愛というべきなのか友情というべきなのか、にわかには判断しがたいところはあるけれども、その友情と愛、それぞれの持つ過去と現在、その運命との向き合い、戦い。「男であることへの違和感は、自分にとってはすごく大事なこと」というまりかのことば、男への性愛に目覚めさせられた少年の日と思いだしたパロウ、姉への思いから抜け出せないユイ。その三人の間に成立したのは、たぶん単に一対一の愛ではなく、生きることへの困難さへの共感のようなものだっただろう。

その三人とは微妙に立ち位置が違うともちが、学生服で現れた時のりりしさ。1年の時はセーラー服で学校に来ていた少年が、身長が伸びてしまって着られなくなり、「もういいかな」と思って学生服になったのが、ぞくぞくするほど魅力的に見えた。

来世であいましょう 2 (バーズコミックス)
小路啓之
幻冬舎コミックス

この三作に比べるとまた微妙にこじれた作品で、もう連載は終了してしまっているのが、『コミックバーズ』に連載されていた小路啓之『来世であいましょう』だ。主人公ナウと、ある目的を持って彼に近づいたものの本当に好きになってしまったかぴあ、それとやはり女装少年でナウのことをいじめているのだけど本当は好きだというツンデレ少年のキノ。こうして書いてみるとなんてひどいこじれ方だと思うが、まあ少年というのはこじれやすいものだし、だいたい私などはそういう意味でいえばもう何十年も少年をこじらせている気はする。少年こじれやすく、学成り難し。なのだが、それはともかく、このこじれた世界の中で結局愛が貫かれて行き、最後にはキノが殺してしまったナウの身体を剥製にして愛し続けると宣言したのに対して、かぴあはヒトカケラだってあなたには渡さない、と宣言する。実はものすごく壮大なカタストロフが訪れるのだが、少年のこじれだけでこれだけの世界が作れるのは本当にすごいと思った。

つらつら思いだして見ると好きな作品には好きになるだけの理由があるわけなのだけど、それは、世界には少年として出しか感じられないものが、確実にあるからなんだなとこれらの作品を読んでいると思う。

たぶんこんなことは、本当に少年をこじらせ続けている私にしか、書けないものなんじゃないかなという気がしてきた。

『少年』と『音楽』がもし私の一生のテーマであるとするならば、たぶんそれはそんなに悪い一生ではないんじゃないかなと思った。

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by Luke Peterson

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