身体の調子と体力の関係/読書記録/「世のため人のため」という言葉と「権力」の関係/旅人としての私/ジブリの教科書/ホメロス『イリアス』/ラマナ・マハルシ:「それは私ではない」

Posted at 13/05/13

【身体の調子と体力の関係】

ブログを更新しないまま6日間経過。インターネットに日記を書き始めたのは1999年か2000年のことだったが、中断するとかやめるとか宣言して書かなかった時期をのぞけば、これだけ書かなかったのは初めてではないかと思う。日記・ブログを書く、取り組む姿勢はその時、その時期で変化してはいるのだが、今は先日も書いたようにむしろ自分の中にためていくときだというイメージがあってブログはあまり書いていない。しかしモーニングページはつけているし、日によればかなり長く書く。だから内的な言語はないわけではないのだけど、表に出して表現したいというのとは少し違う状況にあると言えばいいのか。沈黙は金とか言わぬが花という言葉があるが、言葉にしないことで熟成していくものもある、ということを、そういう言葉は言っているのかもしれないとも思った。

毎日出歩いて、実際に歩く時間が多くなっている。身体的な調子も、体力的にはだいぶ向上してきた感がある。ただ体の中にある引っ掛かりのようなものはむしろ増えていて、体力と体調というのは必ずしも一致しないものだなと思う。しかし体力がなければ満足に病むこともできず、病むことによってからだの力が回復するということもある(というのは野口整体の考え方)ので、まあそれはそれでいいんだろうと思っている。

数日前は諏訪大社の上社前宮に行き、昨日は午前中に書店を回って午後は鎌倉へ出、稲村ケ崎で海を見てきた。湘南の海は、海らしい海だ。房総や敦賀沖の日本海、伊勢湾、あるいは新潟の能生などの海を見て、あとはエメラルドの地中海と深い藍色のビスケー湾の海を海と言えば思い出すのだけど、湘南の海はまるで海の見本みたいな海で、波が打ち寄せては返していくのを見ると、人の持っている煩悩のようなものが、一つ一つ音を立てて消えていくような感じがした。また新たに沖の方から新しい煩悩が押し寄せては来るのだが、それは人が生きていることそのものであるのだろう。

北鎌倉の円応寺で閻魔大王をはじめとする十王の坐像を見たが、『鬼灯の冷徹』で地獄に対する予備知識がたくさんできたのでなかなか楽しめた。実は前の晩、自分が今の年で高校生になっていて、なぜか小沢一郎が先生でホームルームでびしっとしかりつけてみんなビビったりしているのだが、なぜか私が先生にたてついて小沢一郎に文句をつけている、みたいな変な夢を見たのだけど、閻魔大王をはじめとする十王がその小沢一郎の顔をなんだか思い起こさせて、なんか不思議な感じがした。それにしても、『鬼灯の冷徹』を読んでいるせいかもしれないけど、閻魔大王がどうも愛嬌があるように見えて仕方がなかった。

【読書記録】

最近読んだ本をメモ。個人会計の帳簿を見ると前回の更新以来買っているのは漫画雑誌が4冊、漫画の単行本が2冊、文庫本2冊、単行本2冊、それにスタジオジブリの広報誌『熱風』の5月号が来たので都合11冊。またこの期間に読み終えた本が安田登『異界を旅する能』と桜井章一・香山リカ『どうしたら桜井さんのように「素」で生きられますか?』の2冊あるので、13冊を並行しながら読んだということか。マンガはその都度読み終えているので並行しているということはないのだけど。

マンガ雑誌はモーニング、週刊漫画タイムスの週刊誌、月2回発行のビックコミック、月刊の別冊少年マガジン。『別マガ』は中身がどんどん入れ替わっているのだけど、とにかく『進撃の巨人』と『悪の華』を読み続けている。そういえば昨日はアニメ『進撃の巨人』の第6話だったが、ミカサの回想。丁寧に描いている。

獣の奏者(7) (シリウスKC)
武本糸絵
講談社

マンガの単行本は上橋菜穂子・武本糸絵『獣の奏者』の7巻とアサミ・マート『木造迷宮』9巻。『獣の奏者』はだいぶブランクがあったので久しぶりに読んだ感じだが、初めてマンガを読んだ時の感じ、小説で読破した時の感じが帰ってきた。キャラクターを絵にすることによって、新たな解釈が生まれ、新たなイメージが広がっていくが、このマンガではエリンのイメージが原作から一番独立している印象がある。原作のエリンは読んでいて時に「この人はこういう場面でこういう考え方をするだろうか」と思うところが時々あったのだけど、この絵の人がこう考えるならわかる、というような新たな解釈を与えられるような感じがあって面白いなと思う。このマンガがこんなに続くとは思わなかった、というのが『木造迷宮』なのだが、最初は単なるメイドさんものを日本に置き換えた女中さんものだと思っていたのだが、何気ない日常を書きながら回想場面なども織り込まれ、また話の広がりに深みが出てきて、売れない作家と住み込みの女中、という二人の主人公を取り巻く世界にリアリティと広がりが出てきたなと思う。コミックリュウを読むときの目当ての一つ。

木造迷宮 9 (リュウコミックス)
アサミ・マート
徳間書店


【「世のため人のため」という言葉と「権力」の関係】

『どうしたら桜井さんのように「素」で生きられますか』は、他の桜井の本と一線を画す面白さがあった。ほかの桜井の本は概して男性が聞き手で、そういう意味で男だったらそれはわかるよな、みたいな聞き方と、桜井の方もみなまで言わないという感じがあったのだけど、この本は聞き手が女性であり精神科医であるということもあって(精神科医で言えば名越康文が聞き手の本もあるのだが)女性に対してその辺のところを気を遣ったり分かりやすくしたりでも言うべきことはズバッと言っているところもあって、そのあたりにある種のスリリングさがあったりした。

どうしたら桜井さんのように「素」で生きられますか? (講談社プラスアルファ新書)
桜井章一・香山リカ
講談社

私が一番感銘を受けたのが、桜井が「自分はなぜ雀荘のオヤジをやっているのか」について考えたときに、「俺は世のため人のためになりたくないから、雀荘のオヤジになったんだ」というくだりだった。これは目から鱗というか、私自身、いかに「世のため人のためにならなければならない」という考え方に縛られているか、ということに気付かされたのだ。「世のため人のため」と言えば聞こえはいいけれども、それはよく考えてみれば上から目線というか、つまりはいわば「権力者」のスタンスなのだ。世のため人のためにやっている、ということで正当化してひどいことがどんどん垂れ流されている、という実態が満ち溢れている現在、「世のため人のため」という言説自体を疑わなければならないというところがある、ということだ。

私自身、「世のため人のため」ということを考えると自分が何をやりたいのかよくわからなくなるところがあって、それで随分迷い、混迷してきた面があるのだけど、むしろそこを外して、自分のやりたいことに打ち込んでいるうちにそれが結果的に世の中にいい影響を及ぼしている、という生き方の方がいい、というか自分はむしろそういうふうに割り切るべきなんじゃないかと思った。最初から「世のため人のため」で最後まで権力者の道を歩ききる、という安倍首相のような生き方もあるだろうが、中途半端にそれをやるよりはむしろ結果的に世の中をより豊かにするような生き方を選んだ方がいい人は、実はもっとたくさんいるのではないかと思ったのだった。まあ、先ずは自分自身のことなのだが。


【旅人としての私】

異界を旅する能 ワキという存在 (ちくま文庫)
安田登
筑摩書房

『異界を旅する能』。これは「諸国一見の僧」としての能のワキのあり方を通して能を見、人の生き方を見るという本だが、私が読んで思ったのは、私が子どもの頃なりたかったもの、憧れていたのは「旅人」なんだなということだった。憧れていたというか、今でも本質的にはそういうところがあるんだなと思うが、ひとところにじっとして考えているよりも、歩き回って外界に触れ、そこでいろいろなものを見出して自分の中を新たにしていく、歩き回っていないときも自分の心の中を訪れながら様々な怪異に出会ったりお話に出会ったりする、そういう生き方を基本的に今までして来たし、これからもするんだろうなと思ったのだった。いろいろなことを考えながら自分という人間を理解し、把握しようとしてきたのだけど、だいぶいろいろわかってきたなあと思う。やはりそういうことが分からないと、ものを書くときもスタンスがあいまいになって、迫力とかパンチに欠けるということが出ていたんじゃないかと思う。書くものにそういう理解が反映するように、書いていきたいと思う。


【ジブリの教科書/ホメロス『イリアス』】

『熱風』の特集は「グローバル企業とタックスヘイヴン」というスタジオジブリの広報誌がなんでまた、みたいな特集なのだが、まあ考えてみると宮崎駿も高畑勲もそういう人だし、そういう資本主義の病理みたいなものに対する批判もまた彼らの作品にはあるわけだから、児童向けアニメスタジオの広報誌としては異例だと思うが、まあらしいと言えばらしい特集だなと思った。

ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ (文春ジブリ文庫)
文藝春秋

文庫本で買ったのは『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』(文春ジブリ文庫、2013)とホメロス『イリアス』上(岩波文庫、1992)。ナウシカは、立花隆という意外な人がナビゲート役をやっているのが面白い。記事は制作前の高畑と宮崎の対談から始まって80年代のインタビューや90年代の記事、つい最近のものまで含めてナウシカをめぐる歴史みたいになっている面もあって面白かった。『イリアス』はまだ読み始めたばかりだが、なぜ今までちゃんと読もうとしなかったのかと思う。まだアガメムノーンとアキレウスの口論の場面だが、大変面白い。今から3000年も前にできた話だとは思えないものがある。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)
ホメロス
岩波書店


【ラマナ・マハルシ:「それは私ではない」】

『ナウシカ』を読んでいたらカリオストロの城のクラリスというキャラクターの話になり、どういう人なんだろうと思ってネットで検索をかけたらこちらのブログに行き当たり、ここでラマナ・マハルシという人の名前を知った。これはビートルズが傾倒したマハリシと同じ人なのだろうかと思って調べてみると、全然違う人だということが分かったのだが、いろいろ読んでいるうちに、この人の言っていることは私が今求めている自我とは何かとか本当の自分とは何かとかそういうことについて述べている人だということが分かった。特に、「私は誰か?」という問いに対し、「七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、…それは私ではない。…」と「私」と思われているものを次々に否定していき、「すべて否定した後にただ一つ残る覚醒――それが私である。」 と述べていて、すごく納得を感じた。思考する私まで否定しているところで、デカルトよりも深くまで下りて行っているということが分かったし、それでこの人の本を読みたいと思い、本を探しに行ったのだ。

ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡
ナチュラルスピリット

あちこち探して、とりあえず二冊、『ラマナ・マハルシの伝記 賢者の軌跡』と『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』を買った。現代のインドの聖者(1950年に亡くなっているが)の本を読むのは初めてなのだが、両方とも少しずつ読んでいて、面白いなと思っているところだ。

あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ナチュラルスピリット

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