村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:「未決のひきだし」に向き合うということ

Posted at 13/04/14

【村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:「未決のひきだし」に向き合うということ】

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上春樹
文藝春秋

起床7時半。寝たのが2時半過ぎだったから、睡眠時間は5時間弱だ。それなりには寝たが、村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013)によって引き起こされた興奮を引きずっていたので、眠りの質はどうだろうか。しかし気分的には、悪い目覚めではない。

以下、『多崎つくる』の感想を書くのだが、書評ではなく紹介記事でもないので、読んでもストーリーはわからないが出てくるキャラクターや事件についての内容は当然ながらいわゆる『ネタバレ』になるので、これから読もうという人はご注意いただきたい。小説というものは自分の経験から言ってもあまり先入観を持たないで読んだ方が普通は面白い。この小説も多分そうではないかと思う。

私がまず最初に感じたのは「過適応」の問題だった。状況に適応しすぎるということ。適応しすぎて自分の存在が不全になってしまうということ。そしてその状況が失われることを恐れて不安になり、不安定になってしまうこと。アカ・アオ・シロ・クロとつくるでつくる5人の楽園状態への過適応。そしてその崩壊とともに始まるそれぞれの人生。これはそういう意味では「楽園追放」の物語として始まる。

私はこのような友情の楽園状態を経験したことがないから「楽園」への過適応ということはないのだけれど、生きるために「ある生きるのに困難な状況」に過適応してしまったという経験はあり、いわばそういうストックホルム症候群的な病を、おそらくは現在も生きている。この過適応というのは便利な側面もあり、たとえば朝起きたら一番に英語の通信教材をやる、と決めたら必ずできるので、ものすごく速く教材をやり終えることが出来た。通信添削なども必ず期日までに出していたし、まあそういう意味では受験とか学習というものはある種の過適応的な素質みたいなものがあった方がうまくいくという側面があるとはいえる。しかしそれは気を付けないと自我を損なうものであって、いわゆる燃え尽き症候群とか言うのもそういうものの一種なのだろう。まあこのあたりの私自身の問題はまたどこかで書こうと思うけれども、過適応によって維持された楽園が崩壊した=楽園から追放された時に、主人公つくるは衝撃のあまり生きるか死ぬかの状態になり、彼の表現によれば一度死ぬ、ということになる。

精神的に生きるか死ぬかの状況、みたいなものはもちろん私も経験したことがあるのだけど、でもその時に「一度死んだ」という感じは持ったことがなかった。しかし、このままではだめだ、と思ったことは確かで、それから私はいつもなるべく目標を持って生きるようになった。目標を持って生きていないと自分がどこに行ってしまうかわからない感じになった。まあだからそういうのはある意味での過適応的な特性と表裏ではあるのだが、「とにかく生きる」ということが最大の目標にできたのは、たぶんよかったのだと思う。

まあこの小説の話に戻すと、楽園への過適応状態の中でのある種の不全感と、楽園状態の崩壊の予感への不安からの自我の崩壊、楽園追放後のそれぞれの人生の中で、それぞれの抱える問題からの楽園への距離感と、自分なりの楽園との向き合い方。まあ私はそういうものを、むしろ逆に「生きるのが辛い状況」からの距離感の問題として変換して読んでいたわけなのだけど。

いずれにしても、主人公つくるにとって楽園状態とそれからの追放という問題は、「未決と書かれた引き出し」に放り込まれたまま何十年もおかれたものという意味で、自分にとっての「生きるのが辛い状況」というものと重なってきていて、そういうものへの自分がどう改めて踏み込むか、という問題として読んでいた部分が大きい。

この小説のテーマは楽園追放と、その神話的意味の探索、その過程で明らかになっていくものと失われていくもの、というふうに私は読んだわけだ。

とにかく上手いと思うのは、一つ一つの作中人物が抱えている問題が明らかになるときの、「自分の問題として考えてしまう」度の高さ、「そういうことってあるんだよなあ」と思ってしまう感じが、今まで読んだどの小説よりも強い、ということだった。村上の小説、というか小説というもの全般を読んでいて不満に感じたことの多くは、「そういうことって…あるか?」と思うことがあまりに多くて、しらけてしまうということだったのだが、この小説は読んでいて「そういうことってあるんだよなあ」「わかるわかる」度がすごく高いのだ。それも、「今まで誰も言ってないし、読んだこともないけど、そうだよね」と思わせる度合い、説得力というものがとにかく高い。

いや、ありがちな事件、ありがちな問題、あるいは今まで村上が取り上げてきた引っ掛かりのようなものの羅列にすぎない、と思う人もいるのではないかと思うのだけど、その叙述が今までになく上手く、本当にそうだよなあと思う。それは個々の描写が、今までになく丁寧であるということにもあるのではないかと思う。ある意味、村上色が透明になっている部分もあり、「村上風リアリズム」というか、村上風ではあるけれどもリアリティがあり、寓話的なエピソードから現実に下りていくところ、そしてそれが神話的な次元に高まり、また現実に下降していく、その遷移がなんというか愛おしく感じられる、ところがある。

最初の楽園の、いわば寓話的な記述は、アッパーミドル感が強すぎてちょっとどうなのかと思ったのだけど、たぶんそれは彼がそういう世界を設定しないとここで取り上げた問題がうまく書けないと感じているということもあるだろうし、逆に言えばここで取り上げられている問題を中心に主人公が悩めるということは、そういう階級であることを必要とする、という現代という時代でもある、ということもある気がする。戦前の文学が描き出した一高生の憂鬱みたいなテーマは、プロレタリア文学のような人物を主人公にしては描き出せないという認識が多分彼の中にはあって、それは多分正解なのだけど、そこにも反感を持つ人はもちろんいるだろう。東浩紀のような「孤独なおたくの男の子の内面」に降りて行こうというような「人民の味方」感はない。そこにはおそらく、六本指という奇形の扱い方、女性という存在についてのある意味ステロタイプと言えなくもない認識とかから見ても、「人民の敵」とみなされる可能性は常にある「プチブルの文学」であるのかもしれない。

しかし、山岸涼子の『テレプシコーラ』がアッパーミドルの家庭でなければ成り立たない話であるのと同様には、『多崎つくる』もそうでないと成り立たない話なんだろうという気はしなくはない。登場人物の中で自分の能力の不足に悩んでいる存在は、楽園の崩壊への不安に自分の精神を崩壊させ、作品中で供犠の役割(いわば『ノルウェイの森』の直子的存在)を演じているシロ=ユズしかいない。あとの人々は、自分ではその形は歪んでいると思い、そういう意味で中途半端な感は抱きながらも、自己実現している。

いや、もう一人自己実現したとは言えないのが灰田という存在だろう。彼はそうは断定されていないけれども明らかに同性愛者で、つくるにそれを求めて、ただ一度だけその思いを、おそらくは彼としては決然として、しかしつくるにとっては曖昧に現した。そしてつくるはノンケの男がゲイに感じる恐怖心、「自分がゲイの傾向がある」ことを強く否定したい感情に突き動かされ、「平静を保つ」。このあたりの感覚はよくわかるし、多くの人は純粋なゲイではなく、多少なりともバイセクシュアルな傾向を持っていてもそれを認めたがらないが、しかしそれを抑圧しているだけだというところがあるのは、『ぼくらのへんたい』が高い評価を得ていて、私自身も強く魅かれるものがある、ということからもよくわかる。そのあたりのところが、単なる「少数者に転落することの怖さ」からきているのか、自分自身が自分と信じていたものが分からなくなることの怖さからきているのかはまた微妙なところがあるだろう。

人はないものを得ることは難しくても、自分の中の自分にとって――それが良識的なものであれ、そうでないものであれ――好ましくない部分は「克服すべきもの」「否定すべきもの」であるととらえやすい。あるいは端的に切り捨て可能なものとして「ないこと」にしてしまう傾向はある。しかし本当は「ないこと」を得ることはそんなに簡単なことではないのだろう。この灰田とのプラトニックなホモセクシュアルな関係が、物語の一つのバックカラー、背景色をなしているように思える。人は本当はかなりの部分、どちらにもなりうるのだろう。しかし最初からその思いを否定されてしまった側の悲しみ、真性のホモセクシュアルの側にとっての悲しみがそこに描かれ、自分が傷つけられる側でしかないと思っていたつくるが、無意識の虐待者にすらなっているという反転もまたそこには表れていて、まあこのあたりが実に「そういうことってあるんだよなあ」と思わされてしまう。

灰田の語った緑川の話が、このストーリーの一番神話的な部分だろう。神話的というのは、『ねじまき鳥』で言えばノモンハン、『1Q84』で言えば猫の町、『カフカ』で言えばナカタさんということになるのだが、このことについては後で考えてみる。

過去をほじくり返して、自分の本当のありかを知る、という試みはいいのかどうかは難しい。人は歪んでしまえば歪んだまま生きていける。歪みは直すのは多分正しいことなのだが、人の生として一番その人らしく生きられる、主体にとってはそうであることはあっても、そのために失わざるを得ないものは多い。体の歪みを直すことによってさえ失われるものがあるということは整体に通っていて感じることがある。

私の中にも、過去の大きな負債というか、未解決のままにしてきたもの、作中の表現で言えば「未決の引き出し」に突っ込んだままにしていることが膨大にあって、それは「引き出しに入れる」ということによってバランスを取りながら生きてきた、「とにかく生きる」と決めて生きてきて、「生きてこられたことの証」でもあるのだが、引き出しに押し込められたものが「何とか解決してくれ」と亡霊のように自分にささやき続けている、ということもまたある。

私はそのたびに、それをやることで得るものと失うものを考え、そのバランスを取りながら、その声の求めに応じて動いてみたり、再び引き出しに仕舞ったりしている。そしてそれがやりきれなくて、「ちゃぶ台をひっくり返してしまう」ことを私は危惧している。

「ちゃぶ台をひっくり返す」こと自体を危惧しているわけではない。私は正直言って、何度もちゃぶ台をひっくり返してきた。その多くは過適応を是正するため、息苦しくなってきた自分の環境を一度壊すため、そうしないと生きていくこと自体が出来なくなってしまうと思った時だ。

おそらくは、過去の解決していない問題というのは、今すぐ解決しないと生きていくことはできないというほどの危機感で持って自分には迫ってきていないということなのだろう。しかし、それを解決しないと前に進めないという危機感を持つことはよくあるわけで、しかしそれでちゃぶ台をひっくり返したことは一度もなかった。私にとっては、とにかく生きていくことがまず大事で、瘡蓋を剥がすことで死ぬ危険があるのなら、やはりそのままにしてきたということなのだ。たとえそれがどんなに苦しいことであっても。

しかし、人は誰しもできれば晴れ晴れと生きていきたいから、解決できる範囲では解決したいと思うし、しかしその範囲でなんとかしようとすることが、その範囲を超えて自分の存在を脅かしてしまうこともよくあることだ。

沙羅の求めにつくるは自分の過去を取り戻そうとし、そして確かにつくるは自分の生の色彩を取り戻していくのだが、しかしだからこそ沙羅の存在が今までになく大きくなり、つくる自身が存在できるか否か、生き続けて行けるのか否かの許認権を握るまでになってしまう。そしてその沙羅がつくると生きるのかどうか、つまりつくるがこれからも生きられるのかどうかが次の日に示されるという未決の夜で、物語は終わる。自分の生を取り戻すということは、自分の生が終わるということなのかもしれない。

多分、緑川の語る神話の本質は、そういうことなのだ。人は触れたくない、と思っていた「未決の引き出し」に誠実に向き合うことで、その人本来の色彩や輝きを取り戻す。それさえあれば他のものすべてを詰まらないと感じ、それだけで満足してしまうような感覚を得るだろう。しかしその感覚を渡されたものは、遠からず死ななければならない。人が人の生の輝きを得るということは、人が死すべき存在であるということと引き換えにしか得られないのだ。

ファウストが、「とまれ、世界は美しい」と言ったらメフィストフェレスに魂を奪われる、という話のように。そういえば緑川はその話を、悪魔と絡めて語っていた。

灰田にとっては作への思いを現すことがその、自らの色彩を取り戻すことであり、つくるがその思いに答えないということが生の終わりであって、ある意味それは「最初から分かっていた」ことなのだろう。灰田のくだりがラストで何も触れられていないのは単にそれが伏線として未回収なのではなく、それが神話次元の話であって、ある意味現実と関わりのない話であるからだろう。

私は今、これからも物を書いていく、物語を書いていくにあたって、その「未決の引き出し」をどうやって開けていくか、という問題と直面していて、この小説はそれを考える上でのヒントや示唆に満ちている、と思った。そういう意味でこの小説は私にとって「必要な小説」であり、これを「今読め」と示されたことはシンクロニシティ以外の何ものでもない。

しかし考えてみると、私個人に限らず今の日本は、「未決の引き出し」を開けるかどうかを迫られている状況なのかもしれない。その引き出しの中には鬼が出るか蛇が出るか、それとも「希望」というものが残っていたりするのか、それすらわからない。

この小説が理解され、読まれていくとしたら、それはそういう部分でなのかもしれないと思う。村上春樹の過去の作品と比較してみたり、様々な哲学や心理学を引き合いに出して描かれた論考やレビューをいくつか読んだが、私は結局、この小説を「自分の問題」としてとらえることしか結局は興味が持てなかったし、これからもきっとそうだろうと思う。

そう、私という人間の問題と言えば問題なところは、昔からどんな話を読んでも聞いても自分の問題としてとらえてしまうところ、自他の境界があいまいになってしまうところだった。しかし、今まで私は村上の作品を、自分の問題としてとらえる、つまり共感することは一度もできなかった。この小説は初めて、最初から最後まで「自分の問題」として読むことが出来た。自分にとっては村上春樹読書史上画期的な事件なのだ。

だから正直言って、この話が私以外の人にとって面白いのかどうか、本当はよくわからない。この話はあまりに「個人的に面白い」のだ。だから私にとって問題と感じていることを同じように問題と感じている人なら、面白いだろうと思う。

描写においてもやはりすごいなと思うところはいくつかあって、若い女性の輝くばかりの魅力が、あっという間に失われていくそのあたりの描写とか、背中に何かスイッチのようなものがあるというような感覚とか、なんかそういうものはすごいと思うのだけど、それってみんなが面白いのかどうかよくわからない。単純に、ノモンハンとか四国の森の描写よりも今回のフィンランドの平原の描写の方が描けていると思うのだが、そのあたりも。

まあとにかくそういう問題認識とか面白さのとらえ方という面においては私は少数者であるという自覚があるから、ハテ本当は一体どれくらいの人が村上春樹を面白いと思うのだろうかと思うのだが、しかし思った何十倍も売れているところを見ると、私の問題意識と似たものをも持った人は実はたくさんいるのではないか、私は思ったよりも少数派ではなく、実は結構多数派なのではないかという幻想を持ってしまったりもするのだった。

もちろんそれが幻想だという認識は村上春樹新作発表という熱風が通り過ぎればすぐ、また戻ってきたりはするのだが、それに勇気づけられることもまた、私にとってものを書くことの原動力にもなっている、ということに、いつも希望は持つのだった。

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