深く長い息をすること/自分の作品について考える/村上春樹『サラダ好きのライオン』/山

Posted at 12/10/04

【深く長い息をすること】

昨日からどうも疲れているなあと思っていたのだけど、朝起きた時に呼吸が浅くなっていることに気がついて、それからなるべく深く長い息をするように心がけている。布団の中でそれをやっているうちにだんだん頭が緩んできて、軽くもうひと寝入りし、起きたら7時を過ぎていた。

このところいろいろなことをずいぶん深く考えている時間が長く、そういうことを考えたりしているうちにあおられてくるところもあったのだなと思う。昨日は午前中、ずっと小説のプロットを書いていたので、そういうときにはずいぶん深く自分の中に入って行くのだけど、身体の状態としてはかなりの緊張状態にある。もともとの発想のようなものはフリーな身体の中から生まれてくる感じがするのだけど。それを育てるということは身体全体が緊張することのようだ。もっと呼吸のリズムにあったようなものの書き方ができると書く内容も変わって来るのかもしれないが、フィクションを書くということは別の世界を作るということだから、この世界での現実の身体性がそれを支えているわけで、身体自体がフリーになるということは難しいかもしれないと思う。まあバランスを取りながらやっていくことが大事だろう、長続きさせるためには。


【自分の作品について考える】

短編小説集『往還』をいろいろな方に買っていただいたり、お世話になった方々に読んでいただいたりしたのだけど、それぞれ感想をいただいて、面白いなあと思っている。自分の小説の特性みたいなものがそこに見えてくる感じがする。

今日疲れを取りながら気分転換をしようと思って自然系スーパー(?)でレーズンを買い、それをかじりながら缶コーヒーを飲んで、書店に行って小説などを立ち読みしたが、自分が読みたいと思う小説はほとんどなかった。いわゆる日本の小説というもので自分が面白いと思う、関心を引くものはあまりないのだけど、そこに小説が好きな人が求めているものと私が求めているもののギャップがあるのだろうと思う。ふらっと文庫のコーナーで開いたものは1冊目が「過去のトラウマが…」みたいなもので、すぐ閉じた。2冊目が小林信彦のオヨヨものだったがちょっと私のいま読みたいものとは違った。小学校高学年のころはそれなりに読んではいたが。まず、世間で起こる様々な軋轢みたいなものを主題にしたものを読む気はまずない。だいたいそんなものがめんどくさいからアートの世界に身を引いているわけだし、まあそう言ったものもマンガならある程度読めるのだが小説では無理だ。それは多分、小説だと文字だけだから想像があまりに広がり過ぎてそんなものに頭と心が占められてしまうのがいやだからだろう。マンガなら絵があるから限定された世界でのことと割り切れるわけで、つまりはイマジネーションを刺激しすぎないところがいいということになるのかもしれない。

イメージが、視覚的な世界に導かれると、何というか心が打撃を受けないのだろうな。文字だとイメージがどこに導かれるか分からず、すごく警戒心が起こったりする。読みたくないことが書いてないということを判断するまでの時間、まるで賞味期限を見たり匂いをかいだり少し味見してみたりして腐ってないか食べ物を判断する時間のようなものが必要で、そのあたりが面倒だということもある。ファンタジーの場合は完全に日常的なリアルとは隔絶した話だという前提があるからわりあい読みやすいのだが、『ブレイブストーリー』のように現実の日常世界とのかかわりが深すぎる作品はすごく読むのが大変だった。

マンガはビジュアルだが、文字は作者の思想だから、ということもあるだろう。フィクションでなければ作者の言うことを客観的に受け取れるのだが、フィクションは一応その世界に入らなければ内容を受け取れないわけで、否応なしに作者の思想世界に、つまり心の内側に入っていかざるを得ず、ということは逆に作者の思想を私の心の内側に招き入れなければならず、それがすごく嫌なのだと思う。やはり自分の心の内側に入れるのは、本当に心を許した人だけにしたい。そういう人ですら入ってほしくないときは入ってほしくないのだから、ましてや何だこいつ、と思うような人には近づいてももらいたくないのは仕方のないことだ。

文学を好む人というのはそういうことがわりと自由にできる人なんだろうなと思う。どろどろとした世界に付き合っても大丈夫な人。いわゆる名作文学というのはある意味そういうところが浄化された、洗練されたものがあって、だからこそ誰にでも読めるものになり、評価されるものになっているのだと思うけど、本当の文学好きというのはそういう名作志向ではなく、もっと地を這うようなえげつないものを好むようなところがあるような気がする。

しかしまあ、そういう私でも読める種類の小説というものはいくつかあって、現代の日本のものでいえば村上春樹の、それもなるべく新しいもの、ということはある。『ねじまき鳥クロニクル』以降のものならまず抵抗なく読める。それはなぜかというと、彼のその時期の小説というのは私が上に書いたような意味での日常的なリアリティがないのだ。そしてそれらの輪郭の曖昧な事件や登場人物たちが、さらに輪郭の曖昧な世界に巻き込まれて行く。何も前提がない、というか世界の前提そのものが不確かなものなんじゃないかというアンバランスな世界の中で展開するさまざまな物事の進行が、私自身の現実と現実でないものの境目を揺さぶって、見えない世界を見せてくれるような感じがするところがその面白さなのだと思う。

私の作品もある意味そういうところがあるので、そうか考えてみたら村上春樹が好きな人なら私の作品を好んでくれる可能性があるのかもしれないな、と思った。あるいは映画が好きな人とか。映画といってもヨーロッパ映画とかだけど。ああ、一瞬ビジョンが浮かんだけど、『往還』が映画になったらすごいだろうな。というか自分が見たい。早く全6篇を完成させて、いろいろな人に読んでもらえるようにしようと思う。


【村上春樹『サラダ好きのライオン』】

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3
村上春樹・大橋歩
マガジンハウス

それはともかく、書店ではそういうわけで結局村上春樹のエッセイ『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』(マガジンハウス、2012)を買った。挿画は大橋歩。「an・an」に連載されていたエッセイをまとめたもの。面白いと思ったのは、そういう連載をはじめる前はトピックを50くらい用意してからはじめるので話の材料に不自由することはまずない、という話。これはけっこうへええっと思ったけど、でもなんだかいかにも村上らしい。内容は文学に関すること、アメリカで起こった事件なんかが多くて、まあそのあたりも村上に求められているある種のファッショナブルさを適当に上手く出している如才なさみたいなものも感じるが、まあそれは表面的なもので、やはりたましいの曖昧さみたいなものがその根底で表現されていて、そこがやっぱり面白いと思う。村上の小説にしろエッセイにしろ、そういうところが四つに組む気になるところだなと改めて思う。


【山】

今日は午前中阿弥陀時の山に出かけて、山の写真を撮りまくり、携帯百景に投稿してツイッターもその画像で埋め尽くしてしまった。山はいいなあ。たましいが山を呼んでいるというときは、やはりあるなあと思う。

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by Luke Peterson

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