本当に書きたいもの/橘玲『(日本人)』を読み始めた

Posted at 12/07/13

【本当に書きたいもの】

しばらく小説を書いていたのだが、どうもこの作品が自分が書きたい作品なのだろうかという問いが浮かび上がってきていた。今朝、自分が本当に書きたい作品はどんなものかということを自分の心に尋ねてみて、この作品はいま自分が本当に書きたい作品ではない、ということが分かったので中断することにした。

いま自分が書きたい作品というのは、多少妄想染みていると思われることを覚悟の上で書くのだが、万人が面白いと感じるファンタジーのある作品。それを私は今、一番書きたいと思っている。妄想というのは万人が面白いと感じるという部分で、そんなことはあり得ないという前提でいままで自分がものを考えていたところがあるので少なくとも今までの自分の考えていた価値観から見れば妄想だという意味だ。妄想でなく立派な目標だと思ってもらえる人もあるだろうとは思うが、それを目標にしようと思ったということは、私自身もそれを目指すことが妄想というよりは現実的な目標だと思うようになって来たということだ。

世界は今、何に希望を持てばよいのかがわからない状態だと言われている。しかし私はそのことについてそんなに悲観はしていなくて、人間というものは本来持っている能力はもっと広く大きなもので、まだ見つかっていない、ないしは十分に発揮されていない能力がたくさんあると思っている。

人は生きるために必要な能力をたくさん持って生まれてきているのだけど、それが十分に発揮されているとはいえない。それをもっと存分に発揮するためにはどうしたらいいか、というようなことを考えて書いていた内容があるのだけど、そこにこの話がつながるかな、と思う。人間の未来にはまだまだ期待ができると私は思うし、それは私が、人間はまだ自分たちができることの万分の一も実現していないと思えるからだ。

それは例えば一部の天才といわれている人たちやある力、ある道を究める試みを続けている人たちの持つ力というものに感じられる期待だ。そういう人たちはカリスマとも呼ばれるが、私の語感ではカリスマというよりは本物という言葉の方が近い。つまり私が感じる本物とは、まだ多くの人が気づいていない、人間の新しい可能性を追求している人たちのことだ、といえる。そういう人たちは、われわれが普段認識しているよりたくさんいる、と私は思う。

私は自分自身を救うためにそういう人たちの書く本をいろいろと読んできた面があるのだけど、それは自分だけでなく人間の可能性を切り開く営為ではないかと感じ、だからこそひかれてきたのだと思った。

そういう人が現出する世界というのは、ある意味現実離れしている。だからそこにファンタジーがあるとも言える。逆にいえばそういうファンタジーを書くことで、今ではまだオルタナティブでしかないそういう可能性のあり方を表現できればいいなと思う。

それをやることで、自分がやってきたことのすべてが未来への可能性、人間の夢と希望の対象というテーマに注ぎ込んでいくことができればと思う。

私が自分だけが面白いと感じてきたようなことでも、案外最近では市民権を得ているものも多く、また学会などの主流ではなくても本としてはオーソドックスなものよりもはるかに売れているというようなものも多い。

私も青年らしい気負いのようなもので人と変わったものを読もうとか、より高級なものを思考しようとするところがあるのだけど、特に吸収すべきものはより多くの人に共感を呼ぶもののあたりにあるのではないかと思った。

実際、自分が見て面白いと思うアニメはジブリであり、エヴァンゲリオンであり、まど☆マギなわけで、やはり広く受け入れられている作品であることが多い。だからこそ先日のような『千と千尋まつり』(検索経由で私のブログが一日6000アクセスを超えた)が起こったりするわけだが。

だから本当のところは、私の感性と一般受けするところはそんなに離れていないのではないかと思う。そのあたりを足がかりにして、書きたい作品でありなおかつ読まれる作品を作っていければと思う。


【橘玲『(日本人)』を読み始めた】

そんなことを考えながら書店に出かけ、ふらっとあたりを一周。頭の中で考えているだけだと自分の考えた構図の中から抜け出せることができなくなるから、世の中で受けているものというようなものを見に行くためにはそういう書店を回ったりするのはよいリサーチだと思う。

そういう能力を開く可能性の一つに、よく言われる日本人の特徴のようなものがあるなと思った。日本人特殊論みたいなものがあるけど、それはアメリカ人を基準にすれば変わっている、見たいなことに過ぎないと思うし、日本人の特性とされているようなことももっと本当はインターナショナリティがあるだろうと思う。


(日本人)
橘玲
幻冬舎

というのは橘玲『(日本人)』(幻冬舎、2012)を立ち読みしながら思ったことだ。結局この本を買って、読んでいる。久しぶりの本格的な評論だ。

まだ60ページまでしか進んでいなくて、この部分は「日本特殊論」がどのように形成されたかという話が進んでいる。日本論の嚆矢である「菊と刀」は日本占領の目的行われた研究だということは知られているが、それはつまり支配者であるアメリカの優位性と占領される日本の劣位性を確認する、オリエンタリズムの産物であるということを述べ、それが逆に日本人の自己イメージとなり、優越的な意味でも劣等的な意味でも日本特殊論を形成して行った経緯が書かれている。そのあたりのことは特に目新しいわけではないのだが、日本人の特性とされた性質がどのように生かして行くべきかということを述べるために必要な論証なのかなと思い、読んでいる。

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