迷い始めたときには出口を作っておく必要がある

Posted at 12/06/26

【迷い始めたときには出口を作っておく必要がある】

日が長くなり、雨が降らない日は、早朝が気持ち良い。

今朝は起きたら4時半で、そんなときはもう少し寝たいと思うことも多いのだけど、昨夜は10時に休んだのですっきりと起きた。早朝の気持ち良い時間がゆっくり使えることは嬉しい。普段は夜の遅い仕事なので朝は6時前に起きるのは大変なのだが、前の日に仕事がない時は早めに休んだ方が気持ち良い時間が長くなっていい。

迷うことと、実行することと、どちらが楽しいだろうか。どちらが自由だろうか。迷うこと、つまり選択の余地があることは大事なことで、選択できずに何もかも強制されていたらそれは自由ではない。しかし選択できずにいつまでも同じところでぐるぐる回っていても、それも自由ではない。

そういう場合は「選択できない」だけ、あるいは「選択しないことを選択したと正当化しようとしている」だけで、本当は不安の感情や恐れの感情に囚われている。人から強制されて不自由なのではなく、自らを拘束して自由でなくなっている。

私たちはいろいろな根拠に基づいて自分の選択を決定しているが、その根拠の中核になるものは自分のしたいという気持ち、そちらの方に向かって近づきたい、そちらへ向かって前へ進みたいという気持ちだ。より遠くの目標に向かって照準が定まっていたら、目の前に障壁があってもそれを突破する決断ができるけれども、より遠い目標がはっきりしていないと、目の前の困難を想像するだけで気持ちが続かなくなる。気持ちは気まぐれであるから、常にそれを行きすぎないように冷静に判断したり、あるいは怖気づいたり萎えたりする気持ちを奮い立たせたり後退しそうになった気持ちを押しとどめたり踏みとどまったりさせるための仕掛けを用意しておく必要がある。

まったく最初の判断を誤っていた場合はそうした仕掛けが後退戦・撤退戦をものすごく困難にする場合もあるので常に状況の全体像をしっかり理解しておくべきなのだが、これは実際問題としては難しく、痛い目にあって学ぶしかないという面もある。

それはともかく、実際問題として考える楽しみ、迷う楽しみというものもあるが、いつまでもそこにいるのはあまり健康的ではない。

だから迷い始めたときに、どこかで出口を作っておく必要がある。

一つは、迷う楽しみもあるが、選択の余地がないことをとにかく実行することの方が往々にして楽しい、ということを思い出すことだ。迷っているとき私たちは往々にして実行する楽しみを忘れている。

迷うということは、自分という主体にこだわっているということだ。判断材料を得ようと必死になっていても、どれも相対的な材料しか入ってこない。主体の判断を絶対化しようとして相対的な材料がいくら入ってきても決定打にはならない。

調子よく物事が判断できるときは、主体が健康で強い時だ。自分の中に確固たるものがあれば、世の中に絶対というものはなくても、自分の中には絶対というものがある。これは『宇宙兄弟』のセリフだが。世の中のすべてが相対的なものなら、しっかり見ていればそれに対する対処はきちんとこなせていく。

逆に言えば、物事が調子よく判断できないということは、主体が疲れているか弱っているときだ。そういう時は往々にして自分自身の状態に気が付いていない。だからうまくいかないと思ったら、まず自分自身に尋ねてみる。自分は疲れていないか?ショックを受けていないか?弱ってはいないだろうか?と。

たいていの場合は原因がある。場合によっては、癒しがたいショックを受けていることもある。そういう場合は、だれかに頼った方がよいかもしれない。よい友達やパートナーがいればあなたは幸せだ。いつまでも頼っているのはよくないが、ある期間自分のある部分を任せられる相手がいれば、復活はそう遠くはないだろう。私も何度かそうやって助けられたし、あるいは何度かは助けただろうこともある。

しかしそこまでいかなくても、自分ではあまり自覚していなくてもかなりショックを受けているということはある。またどうしたことか、ショックなことは重なる傾向がある。一度に片づけてしまえという天の配剤なのか、立ち直れなくしてしまえという悪魔の所業なのかはわからない。あるいはショックを受けているとその心の連鎖反応で起こりそうなことをどんどん呼び込むのかもしれない。よいことも連鎖反応を起こすことはよくあることなので、一番最後の考えが一番真実に近いのかもしれない。

いずれにしても、あまり深すぎるショックでない場合は、先ずショックを受けているということを自覚した方がよい場合が多い。心が強く大きくなってくるとショックを受けずに受け止められる範囲が大きくなっては来るが、傷跡は残るかもしれないし、その傷跡は人の悲しみを理解するためのセンサーとして役立つ場合もあるから、あまり気にしすぎない方がいい。自分が何でショックを受けているのか自覚してみると、自分が落ち込んでいる原因がわかるし、それを理解してみると、ショックを受けたから落ち込んだのだと自分を理解することが出来る。ある種の物理現象として自分の心を理解した方が自分の心が落ち着くという面はある。

それに気が付くと、悪あがきをしても仕方がない、と開き直ることもできるだろう。そうなれば、どうしようもなく疲れていれば眠ってもよい。しかし自我の働きを休めるためには、自分の心が必要としているものを心を開いて味わうのがよい。

「味わう」というのは何もしない受け身の行為のように思って、迷っているのと大差ない、と抵抗があるのだけれども、実際は味わうということは「考える」ことではなく「実行する」ことだ。ただひたすらに、目の前にあるものを受け入れ、味わうこと。それは、自分の中にあるものでないものを受け入れていくことで、その過程の中で自分の中にある味わっているときに共鳴し共振する何かを呼び覚ましていくことにつながる。

落ち込むということはつまり心が動かなくなるということだから、心の中で何かが共振し共鳴するということは、その状態から脱することに明確につながる。

何に共振し共鳴するかはその人によって違うけれども、何かお勧めは、と言われたら私は映画・演劇がよい、というだろう。

両者とも、その中で人間が動いている。両者とも、そこに風景がある。演劇には外の風景はないが生身の人間の風景がそこにある。映画には生身の人間はないが、実際の風景を切り取って何気ない風景に潜む存在の美しさのようなものを示してくれる力がある。

これもまたどういう映画がよいかは人によって違うだろうけど、私が勧めるならば1980年代以降のヨーロッパの芸術映画がよいと思う。中に人間がいて、風景がある。必ずしもそこに思想はないが、世界観はある。できれば今の自分を超えた、ないしはある程度隔絶した世界観があるものに触れるとよいと思う。人の世の見方が一つではないということを知るからだ。

私がヨーロッパ映画が好きなのは、ヨーロッパへ行ったときに、日本とは違う世界の見方をし、日本とは違う人生の見方をする人たちに触れて、とても自由になった気がした経験があることと無関係ではないだろう。日本的なものの見方というのはとても個人の自由意思を拘束する力が強い。その中で息苦しく感じている人には、ヨーロッパの個人の風が自分自身を解放してくれるところがあると思う。

ネットを見ていても落ち着かない、気分転換にならないのは、そこには全体的な状況、全体的な情報がないからだろう。文字によって表現される断片的なものはあるが、あくまで小画面から受け取れる断片にすぎない。だから何かを見ても読んでもそれに満足することはなく、次のリンクへ飛んでしまう。いつまでたってもフェイクの世界で彷徨うことになってしまう。

個人的なことで言えば、昨日はいくつかのことが重なって、とても精神的にショックを受け、疲れていたことにあとで気が付いた。直接よく知っていた親戚の小母さんが亡くなったことも、良いお通夜だったとはいえやはり心に応えたし、仕事の処置でどうもうまくないことをしたらしいことが分かったが全体がどうなっているかつかめないということでかなり不安になったりした。判明してみると大きなことではなかったのだが。そういう時に限って大きな故障が起こったりするもので、風呂の給湯器がついに壊れ、いろいろやり取りしたが結局交換してもらった。思ったより作業はスムースで、朝電話して見積もりに来て工事に来て、昼前には終わっていたので出費と言えばお金だけだしいつかはやらなければいけないと思いながら懸案にしていたのが一気に片付いたのだからよかったのだけど、迷いもやはりあったからだった。それから住民税や国保税が一気に上がったことを知ったということも大きい。これは収入の関係だからある程度覚悟はしていたのだけど、実際に請求書の額面を見て軽くショックを受けた。

狂気の愛 [DVD]
アンジェイ・ズラウスキ監督作品
東北新社

こういう時にはアーチストデートだと思い出かけてみたがどこへ行こうと考えても全然心が動かない。大手町の地下の階段をのぼりながら、自分がショックを受けて落ち込んでいるのだということにようやく気付き、こういう時昔はどうしていたかなあと考えていて、どんなに元気がない時でもすごく面白い映画を見たり演劇を見たりした後ではすごく元気が出たということを思い出したのだった。一番よく覚えているのは映画ではアンジェイ・ズラウスキの『狂気の愛』。このポーランドン監督が撮ったドストエフスキーの『白痴』を原作にしたフランス映画はまああまり一般的ではないけど、映画が始まったとたんにこれは絶対面白いと思ってワクワクし始め、シネヴィヴァン六本木の帰りのエレベーターの中でものすごく興奮していたことを思い出した。演劇では夢の遊眠社の『小指の想い出』だろうか。すごく好きというわけではなかったが、十字架に張り付けられた野田秀樹が叫ぶように歌う台詞はもう内容も覚えていないのにその風景だけが今でも心に残っている。興奮冷めやらず、下北沢の本多劇場から歩き続けて、たぶん代々木上原あたりまで歩いた気がする。

映画パンフレットレット「わが父 パードレ・ヌエストロ」監督/フランシスコ・レゲイロ 出演/フェルナンド・レイ
アットワンダー

そんなことを思い出して、昨日は夕食の買い物だけして家に帰り、みている途中だったスペイン映画の『わが父 パードレ・ヌエストロ』を見た。amazonで中古で買ったVHSで、14型のテレビデオで見るしかないのでかなり疲れるし画面も荒れているのだけど、スペインの田舎町の何げない風景が一つ一つ心にしみる。フェリーニ的な祝祭性も少し感じさせられるが、スペイン的な精神性もあり、この世の善悪を超越して彼岸の善悪の中で生きているような、善も悪も正気も狂気も健康も不具もすべて相対化されたような、不思議な映像空間が広がっていた。どうも体力がないのか一気にすべては見られないのだけど、ゆっくり少しずつ見ていこうと思う。

夜は10時に寝て、今朝は4時半に起きたが、ずいぶん明るい気持ちになっていた。


【おがきちかの新刊】

Landreaall 20巻 限定版 (ZERO-SUMコミックス)
おがきちか
一迅社

追加。昨日発売されたおがきちか『ランドリオール』20巻と『ハニコイ』を買ったことを買ったことをメモしておこう。『ハニコイ』は2002年刊、著者の単行本デビューである『ハニー・クレイ・マイハニー』の増補復刊。私は『ハニー・クレイ…』も持っているのだけど単行本初収録作もあるので買った。絵柄はさすがに変わっているが、まあどちらも味がある。それから今朝『ビックコミック』も買った。今日はもう26日。

ハニコイ―おがきちか短編集 (ヤングキングコミックス)
おがきちか
少年画報社

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