自分が最も影響を与えてもらうべき本

Posted at 12/03/17

パブ―でエッセイコンテストが企画され、『私に影響を与えた一冊』というお題が上がっていたので、さてどんなものがあるかと考えてみた。自分の考え方や感じ方、行動の仕方に影響を与える本というのは、若いうちに出会った本が多いことは確かだ。たとえば、20歳のころに読んだ呉智英『読書家の新技術』。どんな本を読んだらいいのか、どんな読み方をしたらいいのか、いろいろなことを教えてもらった。この本を読んだ後、自分の読書傾向がある程度決まった気がする。もちろん紹介されても読んでない本も多いが、読んだ本が自分の教養の傾向をつくっていったように思う。

 そのほか、影響を与えられたというとどうもマンガが多い。たとえば大学に入ったばかりのころに読んだ高野文子『絶対安全剃刀』。一時この本が私のバイブルのようなものだった。何度も読み返して、その世界観を何度もなぞった。決して大きく広がっていくわけではないのだけど、自分の身の回りをこういうしんとした目で見る見方は、自分にとってすごく大事なことだったと思う。その方向で読んで大事にしていたのが山田章博『百花庭園の悲劇』と伊東重夫『チョコレートスフィンクス考』の二冊。自分の身の回りをこんなふうに見られて、こんなふうに描けたらいいなとずっと思っていた。近藤ようこ『仮想恋愛』もそういう方向だろう。淡々と続いて行く日常へのそこはかとない苛立ち。自分の生というのはこんなものだろうか、いやもう少し変化があるはずだと思いながら、変わるの関わらないのか分からない境目を未来に向かって歩き続ける。それは希望なのかあきらめなのか。自分には想像もできないような人生を送る人がいる。そういう人に憧れはするけど、そういう人のように自分は生きられるのか無理なのか、問い返し問い返し。日常と非日常、表と裏の微妙な入れ替わり。でも気付いたら表に戻っていて。80年代の自分には、世界はそんなふうに見えていた。

自分にとってもう一つ忘れることができないのが諸星大二郎の世界だ。最初に少年ジャンプで『夢見る機械』を読んでから、ずっと諸星の作品を探し続けていた。自分の知っている世界の裏に、自分の想像もつかない世界がある。自分の知っている歴史の裏に、自分の想像もつかない幻想がある。特にSFものより中国ものの方に私は魅かれるものがあった。

しかし80年代のそういう作家性の濃いマンガの全盛時代が過ぎ去り、90年代になると新しく出てきた作家にはあまりのめり込めないものがあり、80年代の作家群の新作を読む程度で新しい風があまり感じられなくなってきた。仕事やそのほかのことが忙しくて新しい本を開拓する余裕がなかったこともあり、90年代はいろいろな意味で空白になっている。90年代後半によく読んでいたのは小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』であり、こうした自らの姿勢を全面的に叩きつけるやり方はすごく新鮮だった。しかし自分の中で彼がオーソライズされたのは呉智英が彼を高く買っていたからで、そういう意味では80年代の延長線上にあったともいえる。

もっと子どものころに読んだ本ではないか、ということを考えてみて、まずは幼稚園のころに読み聞かせられた本の中にあったエドガー・アラン・ポーの『赤死病の仮面』。こわい話シリーズの中にあった。子どものころ、小学校に入るか入らないかのころに読んだものの中で印象に残っているのは、童話も神話もお話しもどうやら怖いものが多かったようだ。童話では小川未明『赤い蝋燭と人魚』。ギリシャ神話でも自分の織物の腕を鼻にかけて蜘蛛に変えられたアラクネの話が印象に残っている。その一方で『ごんぎつね』なども好きだったし、自分ではどうにもならない生きることの不条理さを描いたものに引きこまれてしまう傾向があったようだ。

ただこれらの作品はみな、自分の持っている性質がそうした不条理な事態を招くという一つの糸がある。逆にいえば逆境に入ってしまうのは、自分にどこかいけないところがあるからだ、という思考にはまりやすかった。何か悪いことがあるとそれは、自分の何かが招いているのではないかと恐れおののいてしまう傾向があったなあと思う。いや、今でもそういう部分はかなりある気がする。

だから逆によいことをもたらすことができるのは自分によいところがあるからだ、という方向のものにもひかれた。自分の性質、ということについて、考えてみれば本当に子どものころからずっと一貫して強い関心を持っているのだなと思う。占いなどでも性格や性質を断定するものが多くそれに引かれるけれども、自分の運命は自分の性質と強く結び付けられている、という人間観は今でも抜けていない気がする。

だから変な話なのだが、うまく行っているときには自分の性質がとてもよい、優秀で善良な気がしてくるし、うまく行かないときは自分がすごく愚かで不器用で狭量でよくない性質の持ち主であるような気がしてくる。だからうまく行っているときは不必要に舞い上がってしまい、うまく行かないときにはどん底まで落ち込んでしまうことになるのだなと思う。

名越康文の本に「自分の感情・感覚を自分と同じものだとは考えず切り離して見る」ことの大切さが説かれていたが、自分の「性質」もまた自分とは同じものだとは考えずに切り離して見ることが大切なのではないかと思った。少なくとも悪いことが起こったときに自分が悪い人間だからだと思ったり、よいことが起こったときに良い人間だからだと思ってしまうのはあまり意味がないなあと思う。こういう考えから完全に自由になるのは多分けっこう大変だとは思うけれども。しかしそうすれば自分の問題のあるところも、自分の美点も、わりと素直に認識できるのではないか。

話がだいぶずれた。そういう意味で、自分の持っている性質の良さがよい運命を導く、というテーマで好きだったのが『みどりのゆび』と『ナルニア国ものがたり』のシリーズだ。これらは小学校低学年から高学年にかけて読み、特にナルニアは中学生になっても最も愛読したシリーズだった。

まあこれらの本はそういう意味で自分の人間形成に強い影響を与えているということが書いていて分かったが、たぶん「自分に影響を与えた一冊」というお題はそういうことを求めているわけではないだろう。

40歳近くなった私が出会った、今に至る読書傾向の一つの展開点になったのが90年代の末に出会った白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』だった。神田の古本屋の店頭で手にとって、すぐに買って一気に読んだ。それから何十冊となく白洲の本は読んだけれども、人やもの、ことに対する小気味よい評価の仕方がとても魅力的で、そのペース、そのリズムを味わいたくていろいろな本を読んだのだなと思う。もちろん書かれている世界、あまり取り上げられない伝承の人物や驚くような味わいのある物たち、今の常識では考えられないような不思議な含蓄のある生き方をした人たちを描き出す、その内容ももちろん魅力的ではあるのだけど、それらの魅力もまた白洲の筆で書かれるからこそ近しく感じられたのだろうと思う。特に西行と明恵はもう白洲の目を通して描かれた人物像だけが正しいと思えてしまっている。

その後もいろいろな本を読んできたが、一つの本で一つの充足した世界をつくっている、そうした本にはなかなか出合えない。何か欠けたものがある、欠落したものがあるというのが現代の事物の一つの特徴であるのだとしたら、白洲のように読んでいるこちらを満ち足りさせてくれる、そういう文章は現代的ではないのかもしれない。

しかしそうした欠落を抱えた多くの作品に魅かれながらも、ある意味これ以上ない完全無欠な世界を描き出す白洲正子の作品の魅力は、改めて意識せざるを得ないなと思った。白洲が取り上げる人々は恵まれた人生を送っているとは限らない人たちだが、人生を揺るぎなく生きている人たちであって、それが醸し出すその人ならではの人間性の魅力は、決して飽きるということのないものを伝えてくれる。それはある意味神々の世界なのだけど、私のような人間もまた、そうした神々の世界で生きることもできるのではないかと思わせてくれるような、そうした元気と勇気を与えてくれる、そういう魅力をもっていると思う。

そう考えてみると、今の自分が最も影響を与えてもらうべきなのは、白洲正子の本なのではないかと思ったのだった。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday