天才ってこういう人のことか/同じ悲しみを共有することで癒されること

Posted at 12/03/14

【天才ってこういう人のことか】

昨日帰郷。帰りがけに東京駅の丸善で名越康文が紹介していた植島啓司の本を三冊買う。『聖地の想像力』(集英社新書、2000)、『偶然のチカラ』(集英社新書、2007)、『「頭がよい」って何だろう』(集英社新書、2003)。どの本も不思議な磁場があって、読んでいるうちに不思議な気持ちになってくる。この人ものすごく頭がいいかどこか変かどっちかだ。で、たぶんどっちもなんだろう。天才ってこういう人のことかなあと思う。

聖地の想像力 ―なぜ人は聖地をめざすのか (集英社新書)
植島啓司
集英社

『聖地の想像力』、まだ少ししか読んでないが、その場所が聖地になる条件は地質学的境界線上にあって特徴的な石組がなされているところだ、というテーゼがへえっと思った。聖地には特徴的な石の構造があり、たとえば石切り場などが聖地になっている例が多く、それらの石は正しく用いられれば霊的な能力を発揮する、と考えられているのだ。「大地も水も金属もすべて重要な聖地のメルクマールではあるが、それらがいかに石に従属するものかを知ればおそらくびっくりすることだろう」と植島はいう。イエスが処刑されたゴルゴダの丘はかつては巨大な石切り場であり、現在は聖墳墓教会が立っている。エルサレムの象徴である岩のドームも内部には巨大な一枚岩が置かれているだけで、明らかに石を切りだしたあとがそのまま残されているのだというし、メッカにはもちろん巨大な黒石が信仰の対象として置かれている。出雲大社の中央の柱の真ん中にはさまざまなものが埋め込まれるがそのうちの一つがこの世に存在しないものであるという。つまり隕石だというわけだ。

この本の口絵に出て来るフランスのル・ピュイの巨大な石の上の小さな礼拝堂とか、口絵写真を見るだけで何だこれはと唖然としてしまう。パルテノン神殿も指摘されてそうだと思ったが巨大な石のかたまりの上に立てられているし、ここまでには出て来ないがもちろんエアーズロックもアボリジニの聖地である。言われてみればなるほどと思うが地球自体が石から出来ているわけで、石こそがすべての根源という主張は根拠がないわけではないわけだ。水とか大気も石から出てきてつくられた、というのもいわれてみればそうだ。地球自体が細かい宇宙区間の石が寄り集まって一つの惑星になり、そこに含まれていたものが温度が高くなって蒸発して大気になったり、水になったりした、というわけだ。万物の根源は石なのだ、なるほど。これは石や石の持つ聖性に興味がある人にはかなり面白い本なのではないかと思った。

『「頭がよい」って何だろう』は出て来るパズルがむちゃくちゃ難しい。答えを見るなと書いてあるのでまだ見てないが、見ないでとけるだろうか。『偶然のチカラ』に出て来るモンティ・ホール問題というのも最初はわけがわからなかったが、分かってしまえば簡単なことだった。こんなことばかり考えている植島という人は一体どういう人なんだろうと思う。

モンティ・ホール問題というのは簡単にいうとこういうものだ。A、B、Cの三つのもののうちあたりが一つあり、あなたはそれを一つ選ぶ。それから、どこにあたりが入っているかを知っている司会者がひとつ外れているものを開けるわけだ。たとえばあなたがAを選んだら司会者が外れていると分かっているCを開ける。そして、残ったAとBのうち、選んだのはAだけれども、「変えてもいいですよ」というわけだ。このとき、最初の選択通りAのままにした方がいいのか、Bに変えた方がいいのか、というのがモンティ・ホール問題だ。

答えを先にいうと、AのままにしておくよりもBに変えた方が二倍の確率で当たる、というのが正解なのだが、私はその理由が全然わからなかった。この本を読んでもあまりよくわからないのだが、ネットでWikipediaや教えて!gooで調べてようやくその理由が納得した、というものなので、考える気がある人は考えてみると面白いと思う。

これは常識的に考えるとAでもBでも確率は同じになる気がするのだけど、実はそうはならない。だからその理由が分からないとだんだん不安になってくる。自分の感覚や常識や知識がすべて否定されている気がしてくるからだ。逆に理由が分かってみると何だか深遠な気がして来て、世の中には自分の見当がつかないものがあるんだなあとなんだか畏敬の念を持ったりする。不思議だが本当だ。


【同じ悲しみを共有することで癒されること】

今日は今日でいろいろな人と深い話ができたのはよかった。松本で整体の教室の活元の会に出かけたのだが、今日はお世話になった先生が亡くなって最初の活元の会ということで、先生を偲ぶ会のような形になっていて、野口晴哉先生の写真と対をなす形で先生の写真が飾られ、奥様が歩んできた道やなくなったときの状況を話されて、そのあと活元の会になった。そのときかけられた音楽が多分モーツァルトが中心だったと思うが明るいけど悲しい感じの曲が多く、だんだん本当に明るい曲に変わっていく、という構成になっていて、心にしみるものがあった。終わったあとで上田の指導室の先生が少し話をされ、そのあと車座になってお茶とお菓子でこもごも話をする、という感じになった。偲ぶ会とか改めてそういうものはするなという遺言だったということで、普段の活元会をそういう形にしたということだった。本当に参加できてよかったと思う。同じ思いの人たちが集まって一つのことができて、思いを共有できるというのはよかったなあと思う。

帰ってきて同じ道場に通っている叔母のところに電話して報告しようとしたら留守だったので留守電に入れるだけ入れて自室で休んでいたら電話がかかってきて、叔母も本当にショックだったらしく、私の話を本当にしみとおるように聴いてくれて、なんだか話しているうちにこちらもつい言葉につまったり涙が出そうになったりした。本当に同じ思いを共有できるって本当にありがたい、癒されることだなと思った。

父の本が上がってきて、なかなか良い出来で立派な本になってよかったのだけど、そのことについていろいろ考える必要があることがあって母や周りの人に相談したりしていたのだけど、今日印刷屋さんが請求書をもってきて、その時にそのことについて相談したりして、いろいろアドバイスをもらってそれも有り難かった。印刷屋さん自身が自分で本をつくったりしていることもあり、そういう人の話はとてもよくわかるなあと思った。

これはイリュージョンなのだけど、活元運動をしている間に肩甲骨から翼が生えて来るようなイメージがあった。このまま羽ばたいていけたらいいなという。肩がすごく緊張が取れない状態があって、ふと読んだmana『空 天翔ける神秘の弥栄』という本に社会意識が人を脅しているという話があって、ああ脅されてるんだなあと思ったのだけど、こういう関係性の中でそういうものが解消して自由になれてよかったなあと思う。


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