初めて一人で電車に乗ったとき/日常性に隠された「本当のこと」を掘り起こす

Posted at 12/02/23

【初めて一人で電車に乗ったとき】

初めて一人で電車に乗ったのはいつだっただろう。はっきりは覚えてないけど、おそらく小学1年生の時だったと思う。当時私は、府中駅の近くにあった英語教室に通っていて、学校が終わったあと東府中の駅まで歩き、10円の小人切符を買って電車でひと駅区間を通っていた。おそらく最初は母に連れられて行ったはずだが、次からは多分一人で通ったのだと思う。学校が終わったあと電車に乗れるのがうれしかった。東府中の踏切を渡り、改札を入ってから構内踏切を渡って下り線の普通電車か急行電車に乗る。競馬場線の電車に乗ってはいけない。多分競馬場線の電車は緑色で、京王線の電車は白だった。その当時構内踏切があったのか、もう地下道になっていたのか、記憶は定かではないけど、私は電車に一人で乗っていた。

「初めて一人で電車に乗ったときのこと」なんていうことを考えたのは、宮崎駿と養老猛の対談『虫眼とアニ眼』で『千と千尋の神隠し』の一場面、千尋が銭婆にハクを許してもらうために電車に乗って海を渡って行く場面について触れていて、この映画を見た方は覚えていると思うが、電車の中の乗客たちがみなまるで影のように存在感の薄い人たちで、何かそれが不思議なリアリティがあったのだけど、そのことについて宮崎がこう述べていることからだった。

「千のまわりに普通の乗客がいるとして、その乗客たちに目鼻をつけて普通に色を塗ったら、感情移入しなきゃいけない部分に感情移入しないで、ただそこに電車の窓と同じように人を置いておくということになるでしょ。それは嫌なんですよね。あの子にとっては全部影にしか見えなかっただろうと思うんです。自分がはじめて何かに乗ったとか、何かどきどきしているときにまわりがどうだったかっていうのは覚えていないですよ。覚えていない世界をつくるにはどうしたらいいかって考えた。要するにその世界では人間は影なんです。」

この本を読んだとき、私は既にこの映画は見ていたこともあって、やたら感動したらしく、この部分に傍線を引いて「すごい!すごい!」と書き込みをしてあった。昨日読み返したときはぼうっとしていたらしく、なんだかあまり印象に残らず、なんというか4年生のころ弟と妹を連れて飯田線で長旅をしたときのことを思い出し、その時は周りの人たちとけっこうなじんで近くの席に座った人といろいろ話をしたりお菓子をもらったりしたので、自分は違ったなあというようなことを考えていた。しかし、本当に「初めて」一人で電車に乗ったとき、と言ったら一年生の時の東府中・府中間だったなと思って、その時まわりにどんな人が乗っていたかとか、全然見えてないよなと思って、確かにその記憶を描くならまわりの大人たちがああいう影のような存在なのが自然だなあと思ったのだった。

そういうふうに考えて、そういうふうに表現する。それも、すごく自然に。確かに「すごい!」なと思ったのだった。何かそういう場面を表現するときに、他のことが思いつかなくなるくらいに、多分もう刷り込まれてしまっている。


【日常性に隠された「本当のこと」を掘り起こす】

自分は小説を書く上で何をやりたいのだろう、ということを考えていた。物語を考えるのは楽しいし、キャラクターを立てるのも好きだ。なかなかいい物語、いいキャラクターを思いつくのは難しいけど。ただ、今まで物語を成立させられた(つまり最後まで書く気になった)ケースを考えてみると、どれも物語ができる前からあるイメージ、ある場面、ある言葉があってその場面を成り立たせるために物語をつくり、キャラクターを立てる、という感じになっている。『本の木の森』はくるみの木に本がなっているというイメージが先にあったし、『ガール』は「うるさいなあ。誰のコップで飲みたいと思っても勝手でしょう」というセリフを思い付き、それが物語のすべてを生みだした。『大聖堂のある街で』はちょうど公開したばかりの、カスミとユキが接近する場面が先に徹底描写され、そこに中途になっていた他の物語から持ってきたキャラクターを当てはめ、また別の物語から持ってきた舞台設定を当てはめるなどして作り上げた。そういう「物語の種子」になるものが見つかったら、それに水をやって育てると花が咲く、という感じだ。それを育てるのは楽しいし、その中で出来て来る物語がどうしてこのように展開するのかとか、書いてしまったあとで気がつくことなのだけど、そこに「自分が気がつかなかった自分」がいるんだなあと電子書籍での公開の作業をしながら思った。

「物語の種子」というのはおそらく、そういう「自分が気がつかなかった自分」「自分に見えない自分」のことで、物語を展開させていく過程でいろいろなことを思い付き、ある方向に展開させているときにもまた、自分が気がつかなかった自分がフル回転していて、それが活躍すればするほど書いていて面白いし、おそらくは読んでいても興味が引かれるものが書けるのだと思う。

書いてしまったときはほとんど自分にとっては異物に近いものになっているのだけど、でも手触りは妙に懐かしかったりして、なんだか自分みたいなんだけど自分ではない、そういうものがそこに生まれた、という感じなのだ。その違和感みたいなものに耐えて人に読んでもらうのだけど、やはり違和感がなければ達成感もなく、自分の知っていることからあまり離れないで書いた話は自分で読んでいても充実度が低い。何となく世の中の話のパターンを踏んだものとか、たとえば諸星大二郎や近藤ようこなどの好きな作家の書きそうな話みたいなものを意識して書いたものなどは、まあそれ自体がマイナーコピーにすぎないということを抜きにしても、やっぱり自分が描かなくてはならないものを書いたという感じがあまり得られない。

しかしそういうものが出来上がり、先に描いたように電子書籍での公開の作業を繰り返して、書式を変えて読み直したり、1ページ1ページをページとして断片的に読んだりする、つまり読者として好きに読むという読み方をしてみると、書いたときに意識したものとは全然違うものが見えてきて、これは本当に鏡で映した自分と写真で見る自分との大きな違いとか、自分で思っている自分の声と録音された自分の声との違いくらいの大きな違いがあるということが分かってきた。そして出来上がったときに感じた違和感というのが、考えているうちに自分が気がつかないうちに描いていた部分が自分には見えてなかったけど自分が持っていたものなのではないか、つまりその違和感とは自分に見えない本当の自分」に対する違和感みたいなものなのではないかと思えてきたのだ。

そう考えてみると、ああ、自分というのは本当はこういう部分をもっているんだなとか、たとえば自分のセクシュアリティのあり方というのがこういうものなんだなとか、人が生きるということを自分はこういうことだと思っているんだなということが改めて見えて来たんじゃないかなと思うし、自分の特殊性のように意識していた部分が実はけっこう人間的普遍に連なるところもあるんじゃないかなという感じもしてきたりして、そういうところがすごく面白いんじゃないかという気がしてきた。

考えてみると、私は演劇をやっていたとき、特に役者として特に基礎練習(エチュード)をしていた時に、自分の感情の動きとか思考の動き、もちろん肉体の動きとか肉体が感じる空間の特性とか、空気の張りつめ方と弛緩の仕方、その空気をどう操るか、動くことによって引き連れていく「意味」たち、そしてその「意味」を破壊していく楽しさ面白さ、自分がそこ(舞台)に「ある」こと自体の面白さといったものを感じ、そういうものを感じている自分というものの興味深さ、といったものが面白くて芝居をやっていたんだなということを思い出した。

多分ものを書いているときも、本当はそういうものを求めて書いているのだけど、なかなか掘り進んで行かないというところがある。まあこういう勝手なことを書いているうちに発見することはたくさんあるが、でもなんというかあんまり深いところの発見ではないようだ。

物語が書けたときに露わになる発見というのは、何かもっととんでもないもので、何というか目を疑うというか、本当は俺ってこんななの?みたいな感じがすることが多い。まあしかしそんなものの方がやはり面白いわけで、日常性の被膜に隠れた本当のことが明らかになることに対する快感はやはり断然物語の方がある。

しかし逆に言えば、日常性のレベルとは違うところで思考し、普段考えていないことを描写しなければいけないことが多いから、そういう意味では書きたいことに描写能力が追い付いていない部分はある。今考えてみれば、芝居をやっているときもどうも動きが不自然な場面とかでは実際にそういうところに行って観察したり、それこそ女性の役をやるときには歌舞伎の女形の芝居を何度か見てどういう風な心構えでやったらいいかを考えたりしていた。私は芸談を読むのが好きで、この演技にはこういう工夫をした、というような話はよく読んでいた。

考えてみると芝居が肉体=身体でしか表現できないように、小説=物語は言葉でしか表現できないわけで、その制約にすべてを賭けるようなところがあるわけだ。今考えてみると私はどこか総合芸術的に他の要素まで含めて、書かれていない部分まで含めて表現しているつもりになっているところがあった気がする。言葉で書かれていないものは表現されてはいないのだ。(行間、というものは言葉で表現されているものであって、今言っている言葉で書かれていないものというものとは違う。)肉体的な表現、視覚的な表現についても言葉の組み立てがどうも外殻から見ているというか、的確なデッサンになってないという問題もある。正確な線を引けるようにしていかなければと思う。

もう一つ思ったのは、言葉には言葉でしか表現できないものがあって、その特徴をもっとうまく使うことが必要だということ。一番うまく使えていないのは、「論理」ではないかと思った。まあ感覚的な物語を描くときにあまり論理的なものをもちこむとその線の強さに他のものが負けてしまうから工夫が必要なのだけど、うまくシャープに使えるときれいな線、太い線、強い線として使うことができる。私は何と言うか論理を忌避しているところがあって、まあ日常生活で論理的な物言いをしまくりであることの反動ではあると思うのだけど、根本的に論理は人間を幸せにしないと思っているところがあって、特に小説の中ではあまり使いたくないと思っているところがあるのだけど、構造をはっきりさせたり「なるほど」と思わせたりすることが必要な時には、論理はわりと有効に使えることだと思うし、まあ使わないにしても使えた方がいいだろうと思う。実際マンガなどでは論理でぽんぽん構造を組み立てていくことは多いし、直接的な表現でなくても背景説明などは論理が通ってないと理解しにくい。この辺は嫌がらずに考えていかなければならないところだなと思う。

ものを書きたいとは昔から漠然と思っていて、でももっと社会と人間を知らないといけないなあということも思っていた。多分それは、アートだけでは自分に必要なもののすべては用意されないなという感じがあったからだと思う。結局自分にとってのアートというものは自分の知らない何かを見つけること、特に自分の知らない美を見つけることだとするならば、社会と人間を知ることの根本にアートがあることになるなと思う。そういう意味では多分、科学でも哲学でも何でも、根本でアートに共通するものがあるわけで、方法論は違っても行きつくところは同じ、みたいな部分があるなと思った。

そういう意味で言えば歴史というのはもっと装飾的なものかもしれないし、だからこそ歴史に魅かれたのかもしれないのだけど、装飾性だけでは自分にとって根底まで探るには力不足だったと思うし、もっと違う方法論が必要だと思っているのだと思った。

どれだけ社会と人間を知れたのかは別にして、社会と人間を見る根本的なところにアート的な視点が持てれば幸せだなと思う。

日常性を掘り起こし、日常的な皮膜を離れて本当のものを見つけていくということに対して、昔は全然怖さを感じなかったけど、今はある種のこわさを感じるようになってきた。まあ昔がこわいもの知らずだっただけなのだけど、きちんとした方法論をもたずに日常を離れてしまうと、カルト化して行くこわさみたいなものがある。でも、昔それを感じなかったというのは多分、アートとか芝居とか芸術とかそういうものを信じていたからだと思う。アートでありさえすれば大丈夫、芝居でありさえすれば大丈夫、みたいな感じ。今でもだから、そう考えてみれば、そう思えば全然平気だなとは思う。だから逆に、反原発運動に走ってしまうようなことは私はしないし、それは違うと思っている。アンガージュマンにはそういう意味では否定的で、ラジカルなことをやるなら自分の守備範囲の中でやるべきだと思う。突き詰めることは大事なのだけど、突き詰める方向は考えなければいけない。

そして自分がアートというものを信じていた、あるいは信じている理由は二つあって、一つはアートを誰かへのメッセージであるという視点からつくれば、誰かに伝えようとしていることそれ自体に暖かさが生じるということだ。芝居は観客に見せるものだから、何かを伝えようとしてつくっているし、伝わらなければ意味がないと思う。言葉を変えていえばそれは温度のようなものだろうか。人から人への引力が温度を生む、というイメージ。掘り下げていけばいくほど修羅の世界に行ってしまう感じはあるが、しかしそこに自分がいるということ、伝えたい相手がいるということを意識した時に何か結論が出てしまう。それは温度と言っていいんだろうと思う。

もう一つは美は見つけることができる、ということを書こうと思ったのだけど、つまりいずれにしても、見つけようと思うから見つかるのであって、そこは意志の問題なんだなと思った。人生の悲しみを見つけようと思えばいくらでも見つかるが、人生の喜びを見つけようと思えばまたそれもいくらでも見つかる。そういう意味で人は見ようとしているものを見るから、美を見ようとしてみれば世の中は美にあふれている。自分の関心の持てるものの中にも美は気がつかないところにあるわけで、それを見つけることができるのがアートだとしたら、それを信じないわけにはいかないと思う。

つまりまあ、人間にしろ社会にしろ自然にしろ、真とか善とかいう観点からより美という観点からものを見る方が自分が好きだということなんだろうな。実際の(金を稼いでいる)仕事を進める上ではいかに「良い」ように進めるかということばかり考えていたりすることと関係するのかもしれないけど。

生きる、つくる、売る、という循環を、たぶんどんな仕事でもやっていて、その輪の中で一つ一つのことを高めていくことが大事なんだと思う。今日書いたことは生きることからつくることへの流れの中のことなのだけど、つくることから売ることへの流れのことも、売ることから生きることへ戻る流れのことも、まだまだ良くして行くことが必要だなと思う。

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