伊東乾『日本にノーベル賞が来る理由』:世界をよくするために日本が期待されていること

Posted at 12/02/20

【伊東乾『日本にノーベル賞が来る理由』:世界をよくするために日本が期待されていること】

日本にノーベル賞が来る理由 (朝日新書)
伊東乾
朝日新聞出版

書きたいことがいくつかあるのだけど、少し自分の容量を超えてきているので、これについてはあまり書けない、というか時期が来たらまた書くかもしれないけど、伊東乾『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新書、2008)が面白かった。数日前に読了したのだけど、どうも書くタイミングがなかったというか、テーマとして大きいことなのでさっとは書けないということもあって書くのが遅くなってしまった。

これは言わば「ノーベル賞」という角度から20世紀後半の世界史を再編した本だといってもいい。ノーベル賞というのは科学や学問の分野の一つの頂点といっていいわけだけど、その授賞の傾向にはある種の思想があり、戦略があり、企画がある、ということで、つまりその「授与者側」が世界をどのようにしていきたいか、という意思が反映されているということを言っているわけだ。

日本人受賞者だけとっても、1949年の湯川秀樹の受賞は1945年の原爆投下と切り離せないという。マンハッタン計画に参加した科学者はそのあと10年受賞してないし、国家の軍事戦略に近すぎる科学者たちも受賞はしないだろうといわれている。また、ホーキングのように壮大ではあるが検証不可能な理論科学者もほぼ受賞は難しいだろうといわれているようだ。ノーベル賞の受賞には「平和」と「非対称性の解消」という隠れテーマがあると同時に、検証可能であること、人類の福祉に資するものであることが選ばれている、というわけだ。それは読んでいてなるほどそうだなあと思った。

だから、ノーベル賞受賞を「増やす」ためには、闇雲に研究費を上げるだけではだめだし、ロビー活動をすればいいというものではないという。日本という国が科学や文化の面で世界に貢献していると認められるようにもっとなっていけば、自然に受賞は増えるということを言っているわけだ。まあこれもその通りだなと思う。

20世紀の受賞者は9人、21世紀の10年間ですでに9人の受賞者が出ているということは、それだけ日本に対する期待が高まっているということでもあるという。それも多分そうだと思うし、「国際貢献」をするというなら外国に軍隊を送ったりすることよりも、日本の研究機関をもっと世界にオープンにするということと、大学における研究をもっと積極的に知財化し、世界に使いやすいものにしていくということだ、という主張はまったくその通りだと思う。

日本では研究者は研究をすればよくて、それを知財化する、つまり研究者が経済活動に関わることはどちらかというと嫌われている傾向がある。しかし、この本を読んで本当にそうだなと思ったのだが、発見を製薬や工業化に結び付けて特許を取得して公開し、幅広く多くの人からお金をとる形で使えるようにして、それで世界の発展に寄与するという姿勢が必要なのだと思う。基礎研究をしただけで使えるようにするところまでは日本の今の態勢ではもっていけないために、その研究からヒントを得た外国の研究機関や企業がそれを生かす形で知財化に成功し、人類の福祉の増進や進歩に貢献したときに、もともとの発見者・開発者・研究者を発掘したら日本人だった、という形でノーベル賞を受けるケースがほとんどなのだという。

つまり日本ではそういうことが研究者としてするべき仕事でないと考えられているために、工業化や直接的な人類への貢献だけでなく、その研究の評価もきちんとなされていないということが問題なのだというわけだ。日本で科学者がその研究を評価されるためには、アメリカやイギリスの一流の科学雑誌に掲載されなければならないわけで、評価を丸投げしているわけだ。日本人は日本人の業績もまともに公平に平等に評価できないのが現状なんだといわれて本当にその通りだなと思った。これはまったくアートの業界でも同じで、内輪だけの秩序を重視して本当に評価すべきことが評価できないために、海外で評価されて逆輸入せざるを得ない、という形になってしまっていて、それは本来あまり望ましくないというか、日本人が怠慢なんだといわれても仕方ないのだ、といわれて目から鱗だった。アートの業界のことは多少は理解していたが、結局科学や研究の業界の構造的な問題も同じことだったんだなと言うことが分かった。

日本くらいの国であれば、当然そういう学界の権威ある雑誌の運営ぐらいはやらなければならないと思うし、そういうことで世界での存在感を増していくという方向性の方がアメリカの腰巾着になって自衛隊を派遣するよりよっぽどいいのではないかと思う。ノーベル賞のホストであることでスウェーデンやノルウェーは大きな存在感を世界に示しているわけで、第1次世界大戦も第2次世界大戦も中立を貫けたということはその存在を抜きにしては語れないのだと言うこともその通りだと思った。

まあ要するにこの本を読んでいて全然反対するところがなくてこれだけスルーっと行ってしまう本も珍しいなと思うくらいだったのだが、まあ出も本当はいくつか引っかかっていた。これはしかし現実として凄く本質的でデリケートな問題に関わることなのだけど。

これはノーベル賞を授与する側、つまり世界の頂点に立ってみると、エベレストの頂上に立ってみると下界がよく見える、というような話なのだ。あるいは天国からは現世も地獄も見えるが、現世や地獄からは天国は見えない、というようなたとえにも似ている。経済的にもいわゆるグローバルな視点というのはそういう高いところから世界を見てああだこうだということなわけで、日本人でもそういう人がいないわけではないにしても、そういう人の声はあまり聞こえてこない。結局、そういう「上からの声」で決定されたことに右往左往する人たちが日本の中心だ、という感じになっていて、特にマスコミ関係者はそういうふうに報道するのが「いいこと」みたいな感じになっている。世界を考えて発言し、行動することは「上から目線」と見られ、排除されやすいのだ。もしくは排除されないまでも、強い反発の対象になる。だから逆に、そういう視点を持っていても適当にそういうことを言う周りに合わせている評論家も多いように思う。

そして日本の場合、そういうグローバルな視点を持てる科学者や官僚たちは、本当に「下々のこと」が分かってない場合が多いのだ。いやそれは本当に社会の底辺が、ということではなく、ものを売ったり買ったりする現場を知らない、ということなのだ。それはつまり、そういうことが卑しいこととされてきた日本の過去と現在があるからだ。

この著者の言うことはほとんど正しいと思うのだけど、やはりこの人はやっぱりそういうふうにみられても仕方ないなと思うようなことを言っていないわけではない。まあ著者本人に対しては厳しすぎる気もするが、「下々」のルサンチマンというのはそういうものだ。日本が死刑制度を廃止したらそういうメッセージを世界に送った日本はノーベル賞受賞者が増えるだろう、といわれて、そうかもしれないけどそういう問題か?とは思う。で、これは言われてみてちょっとなるほどと思ったのだけど、そういうことを知ってだから日本の国際的地位を向上させるために死刑制度を廃止しろ、という論者もいるんだろうなと思ったのだ。

つまり現実問題として治安の維持の上では死刑制度はあったほうがいいというのが日本人の大部分の意見なのだけど、国際的に「進んだ国」と評価され、もっと期待される国になるために死刑制度を廃止しよう、という意見もあるのだなということだ。まあそこはバランスの問題なのだけど、理想論から言ったら死刑制度、つまり国家が個人を殺す制度などないほうがいいと私も思うけれども、それはつまり理想論で言えば死刑が必要な犯罪など起こらないということを前提としてもいい訳で、法三則ではないが全体的な人間性が向上すれば確かに死刑制度は不要だろう。まあ今のところは絵に描いた餅に過ぎないが、まあその絵を描いてみることは意味がないことではないなと思った。理想は理想としてあったほうが、分かりやすくなる面もある。

あとはこの著者が東大の同級生でオウム事件で実行犯になった友人のことを書いた『さよなら、サイレント・ネイビー』というノンフィクション本のアマゾンの書評を読んでいると、まあ酷いこと口汚いことのオンパレードでちょっと気持ち悪くなってしまう。いまほかの検索をしてもブログの記事もあれあれと思うくらい非難の対象になっていて、なんと言うかつまりは「苛立ちの対象」としてどうでもいいことが書き連ねられているという感じなのだ。非難する人たちの著者に対する位置づけは要するに「無自覚なエリート」に対するルサンチマンとか反発というものがほとんどだなあと言う気がする。内容は読む気にならないけど、その動機だけが馬鹿に鮮明に見えてしまって気持ちが悪い。

まあ本当にそういうのはアカデミズムの世界においてもアートの世界においても同じで悪い意味の横並び意識、平等意識みたいなものが目ざとくそういう無邪気なエリート意識に最も敏感に反応している、という感じで、何かばかげてるなあと思う。そういうふうに人のことを気にするのがある意味日本人の強みでもあり、いやなところでもあって、「出る杭は打たれる」というのはまさにそういうことなのだけど、「出すぎた杭」それも相当高く出すぎてしまわないとなかなか諦めないところが日本人にはある。著者くらいの人ではまだ叩きごろというか、実際この人の発言や書いていることにはやっぱり無防備だなあと思うところがけっこうあるので格好のバッシングの対象になってしまっているんだなあと思った。まあそれであんまりへこたれてない感じはいいんだけど、でもまあストレスはストレスだろうなと思う。

まあそういうのって私もけっこう無防備なところはあるから、私自身もいろいろ叩かれたり怒られたりして「何でこの人怒ってるの?」とか「事実を言って何で反発を食らうのか」ということが不思議だったり面倒くさいなあと思うことは多かったし、まあけっこう深刻なことになったこともないこともなかったし、多分このブログなんかでも見えないところでけっこう反発を食らっているのかもしれないのだけど、まあある意味考えたことや思ったことを言うのは義務だよなあと思っているところもあるので、適当に(適切に、ではない。そんなに器用じゃないし)配慮しつつ書きたいことを書いている。

ただまあ、日本人がこれから生き残って行ったり、またさらによい国にして行きたいと思うならば、そういうグローバルな視点というものを持った人がもっと増えていかないといけないと思う。そういう意味で日本はエリートを叩きすぎている。エリートってもともとそんなに悪い意味じゃなかったはずなのに、なんだか日本語の文脈では最悪なことになってしまっているしね。それはその言葉のために凄く残念だと私は思う。

私自身、まあそういうふうに非難されることもある一方で、学者やら官僚やらそういう人たちの発言に反発を感じる面もあるので、その辺はアンビバレントであり、引き裂かれている部分もある。世の中をよくすることを考える上で、底辺を何とか引っ張り上げたりそこを支えたりする人たちはまあみんなほとんど無条件でえらいと褒め称えているけれども(それすら売名行為だとかなんだとか言って足を引っ張ろうとする人がいるのは驚く、まあ中には確かにちょっと変かも、と思う人もいないことはないけど)、まあ私なども自分に出来ないことをやっている人たちのことは普通は素直に凄いなと思う。実際、そういうことも自分は凄く不得意だということが分かっているのに、そういうことをしなければという呪いがかかっている感じがいままですっとあって、つい最近ようやく呪いが解けたという感じになったのは数日前に書いたとおりだ。やったことは成果が上げられなかったことが多かったけど、努力したこと自体には意味があったという形で。

しかし正直言って、世の中の底辺を持ち上げるだけでは世の中全体が向上することはなかなか難しいと思う。つまり、底辺を持ち上げるだけでなく、頂点を引っ張り上げることもまた必要だし、場合によってはそのほうがはるかに効率がいいということもある、というのがおそらくは著者の言っていることなのだ。日本がより世界に貢献できることというのは先にあげたようにいろいろあって、その中でノーベル賞の受賞者や栄誉を受ける人が増え、そういう仕事が評価され、知られるようになって才能のある若者がその道を目指すことでやはり学問は活性化するし、またそこから出てくる成果が経済を回し、世の中を潤わせていくことになるだろう。少しニュアンスは違うが鄧小平の言うように「金持ちになれるものから先に金持ちになれ」というような感じだ。そういう努力する人が増えれば、やはり社会の雰囲気もよくなるだろう。この時代の閉塞感というのは、努力しても先が見えないというところにあるわけだし、日本人ほど努力が得意な民族も珍しいのだから、先が見えれば日本は凄く明るくなるんじゃないかとは思う。もちろんだからといって底辺を持ち上げる、支える努力が不必要になるようにはなかなかならないし、同じような理由で死刑制度もなかなか廃止は出来ないだろうと思うけれども。

まあそういうわけで、あんまり無駄に反発を食らう形でなくもう少し幅の広いそうに対しても説得力のあるような形でグローバルな視点とかそういう方向での理想を語れる人が出てくるといいなと思う。

それともう一つ重要なことは、「ノーベル賞授与者側」の理想とか目指すものとか考えていることというのも、絶対に普遍的に正しいとは限らないということ。まあけっこう正しいとは思うけど、それも一つの思想なのだということを押さえておいたほうがいいと思う。もちろんその思想を採用してその理想に燃えてその実現に邁進することは多分悪いことではないと思うけど、それもまたひとつの思想なのだという視点が欠けてしまうと、息苦しくなってしまうところが出てくると思う。多分こういうことの理想に対するニュアンスというのは、統一されるべきではない、少なくとも現状では、とは思うんだな。そういうのがないと、軍事同盟的にはアメリカを支持せざるを得ないということとアメリカが倫理的に正しいことをしているということをごっちゃにしてしまうような混乱が生まれてしまう。やはりそこにはごまかしがあるわけで、ごまかしだということにすら気づいてない人が増えててそれもまた困ったことだという感じなのだけど、そういう意味では本当の意味でグローバルな視点で見られる人がもっと出てこないとなんだか困ったことだなあとは思う。マスコミもバランスの取れた視点よりも極端な視点を好む傾向があるし、日本にいまもっと欲しいのは自動安定化装置、ビルトインスタビライザーみたいな存在で、まだかろうじて天皇や皇室という存在はあるのだけど、まだもっと分厚くしていったほうがいいんだろうと思うし、たとえばネイチャーのような雑誌とかノーベル賞のような、国際的に権威を認められ、その選択を息を呑んで世界が見つめるような存在を日本が持つことは、国際的な地位向上というだけでなくそうした安定化という意味でも、意味のあることだと思うのだった。

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