とらわれない

Posted at 11/12/22

今日は冬至。ということに朝寝床の中で気がついたが、そこで思い浮かべたのは不敗太陽神の復活。古代ミトラ教の教義だが、クリスマスの起源になったという説もある。ナルニア(『ライオンと魔女』)でもクリスマスはやがて春が来る前触れとして描かれている。一番日が短くなった今日から、日の長さが回復して行く、『易経』で言えば復の卦、『一陽来復』の日である。逆にいえばどん底の日。そしてどん底まで落ちたらあとは上るしかない、そういう日だ。とにかく今年は散々なことが多かった大凶の年。その凶を福に変える、今日が第一日目と決めたい。災い転じて福となす、である。

昨日操法を受けて体の柔らかさ、からだの感覚の自然さがだいぶ回復したのはいいのだが、すうすうになっていろいろなものが入ってきて、しかも体のこだわりのようなものも取れているから力の入れ方に力みがなく、自然に丹田が膨らんで気を貯められるようになっているのだけど、意識的に作った体の軸のようなものも消えていて、何となく頼りない。いろいろなものの気配を感じ、いろいろな感覚が入って来るのはいいことなのだけど、それを溜めないで、とらわれないで自然に出して行くことが大事だ。

そうだな、とらわれないことが大事だな、となんだか目が醒めるような感じがした。とらわれないで、本当にやりたいことをやること。それが自由ということだ。とらわれない、という感覚がはじめて理解できた気がした。それは、「やりたいこと」があるから必要になる感覚なのだ。「とらわれないこと」が先にあるわけではない。「やりたいこと」をやるためには、「とらわれない」ことが大事なのだ。そのことに、33年ほど気がつかなかった。

わたしの「とらわれ」は、形式性だ。形式にどうしてもとらわれてしまう。形がちゃんとできてないと落ち着かない。わりと細かいことにもこだわってしまう。形にこだわって本質を見失うというか。お釈迦さまが毒矢の例えで言うように、毒矢が刺さったらそれを抜いて解毒することが第一で、誰が撃ったかとかなぜ当たったかなどは二の次なのだ。そう考えると自分がこだわっていることが滑稽なことはよくわかるのだが、それでもすぐに見失ってしまう。

だから敢えて形式性にこだわらないでものや文章を造形して行くことを心がけた方がいいのだろう。そのなかで発見があったり思いがけないものができたりするかもしれない。形にこだわるよりも、やりたいことによりそうことで、それが実現するかもしれない。

無意識のうちに、そういう状況でとか、そういう方法でというべき時に、そういう形で、と言ったり書いたりしているのは、やはりものごとを形でとらえているからなんだろうなと思う。物事の本質を形式性によって理解しようとしている、と言えばいいのだろうか。形式性によってものごとが支えられることはあるし、形式性が物事の導きの糸になることもあるが、形式性は最後まで形式性に過ぎず、実現したいものはその先にある。形式性は「月をさす指」だ。逆にいえば月を示すためには指を持ちいなくてもいい。その世界に往復して、よりその世界に近づける形式性を洗練して行くこと、が大事なのだろうか。

真理と現実は別のものだ。真理を語る人が常によい人だとは限らない。逆に、誰が口にしても真理は真理だ。真理に惚れるのはいいが、真理を語る人には警戒した方がいい。また逆に、惚れた人間が真理を語るとは限らない。でも好きなものは好き。

状況を生かしきること。何が起こっても、状況をうまく使ってやりたいことをやる。いままでやってきたことを生かして使う。将棋で言えば、駒のすべてをフルに作動させ、一枚一枚を活性化させること。『運を超えた本当の強さ』に書いてあるのはそういうことだ。強さとは何か。自分の持ってるものを最大限生かしきること。将棋なら、自分の持ってる駒と相手の持ってる駒は全く同じなのだから、それをどれだけ生かしきるかが強さなのだと考えれば納得がいく。勝ち負けは結果に過ぎない。目先の勝ちにこだわるより、最強の状態を目指すべきだ、というのは、今日自分は自分の持っている者、自分の周りの状況、そういうものをすべて生かしきれただろうか、ということで、つまりそれは終わりのない向上への「戦い」になるわけだ。

自分も周りもすべて生かしきることが目標ならば、具体的な「やりたいこと」も一つではないということになる。「やりたいこと」群みたいなものを持って、全体的に実現して行く、ということになるだろう。その中で、人の生き方、人生を支える言葉、物語を描きたいというのは、悪い目標ではないだろう。それだけにとらわれる必要はないけれど。そんなことを考えていた。

ひらけ駒!(4) (モーニング KC)
南Q太
講談社

7時ごろ目が覚めて、8時までそんなことを断片的にメモして、自宅から自室に灯油を運び、車で職場に出ようとしたら、電話がかかってきて昨日すごく難問に感じていたことがあっさり解決した。でかけて資源ごみを処理し、帰ってきて朝食。2週間かかって300円のパンをようやく食べきった。自室に戻ってメモをまとめてモーニングページに書く。なんだか楽しくなってきて、10時前に車で出かける。銀行に行ってこまごましたことを片付け、市役所に行って届け出をして、新しくできたサークルKで缶コーヒーを買って、本屋に行こうとしたら橋を渡る道がものすごく渋滞していたのでコースを変えて国道で別の本屋へ行った。南Q太『ひらけ駒!』の4巻はあったが小路啓之『ごっこ』の2巻が見つからない。最初に行こうとした本屋に行ってみるがそれにしても車が多い。12月も押し詰まってきたということか。そこで探したがやはり『ごっこ』は1巻はあるけど2巻がない。仕方ないので綿半に行くが、ものすごく混雑していることがだいたい察せられたので少し離れた駐車場に止めて店内へ。母が帰宅するときに備えて玄関の踏み台と、事務に使う長3型の封筒を100枚。まずそれで会計を済ませて昼食の買い物。かご4つくらい満杯の買い物をして行く人がたくさんいる。アメ横並み。

ごっこ 2 (ジャンプコミックスデラックス)
小路啓之
集英社

そんなこんなをしていたらもう12時。本当に時間がかかるなこういう用事は。郵便局へ行ってお金を振り込んで事務用の切手を50枚ほど買い、自宅に戻って昼食を済ませた。それから自室に戻って一休み。少し眠ったが朝のパンがないなと思い、久しぶりに湖南のこころ屋にパンを買いに行こうと思いつく。ナビが示したコース通りに行ってみたがこれはよけいな信号に引っ掛かりすぎるな。ナビは信号の長さまでは考慮に入れてないようで、平気で小さな道から幹線に出るというルートを何度も取る。逆はいいが小から大に出るのはどうしたって待ち時間が長くなるのになと思う。カーナビを作る人にはその辺のところは考えてもらいたいものだが。

こころ屋でパンを買ってスライスしてもらい、帰りはさざなみロードを湖を見ながら帰って職場に出た。

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