「本当の自分」とか

Posted at 11/11/01

【「本当の自分」とか】

昨日。朝から調子が悪くてうだうだする。午前中何とかブログを書いて昼前に昨日会う約束になっていた友人に電話。どうも今日は調子が悪くて、という話しをする。どんな風に調子が悪いの、というからなんだか体中がぞわぞわして、何か変なものがたくさんついたような感じでハロウィン的に気持ちが悪い、という話をしたらウケていた。まあ要するに精神的にも神経的にも肉体的にも疲れがたまっていたということなんだと思う。少し食べ過ぎてたなとも思い、朝はほとんど食べず、昼は郵便局へ国保料を払いに行き(昨日は月末だった)まいばすけっとへ日用品を買いに行ったついでに298円の弁当を買ってきて済ます。なるべく食べる量を減らしたいときにはこういう弁当はけっこう役に立つ気がする。

午後もとにかく休めることに専念。撮ったけど見ていなかった坂本龍一の『スコラ 音楽の学校』とかを見たり。『ボクらの時代』の大橋巨泉が出ていた回の録画とか。『オズの魔法使い』とかも撮ってあるのだけどまだ見る気にならない。HDも録画限界があるから見たのや見ないのは消していって、ようやく4時間ほどの隙間を空けた。このくらいはないと撮りたいものがあるときにパッと撮れないよなと思う。見る見ないに関わらずDVDに焼いたほうがいいのかなとも思うのだが。最近買った本も何冊もあるのだけどあまり読む気にならない。まあとにかく休めることが大事だなと思って休んでいた。

夕方、少し散歩しようと思って記帳しようと思っていた銀行の通帳を持って出かけ、ぼんやりと空の色など見ながら銀行の前まで来て通帳を見たらもう繰越済みの古い通帳で愕然とした。あわてて携帯で残高照会をしたらけっこう危ない金額になっていたのでまずいと思い、出直さなければいけないと思った。それで駅前の文教堂をのぞいて本を物色して、山岸涼子の全集?があったので買おうかなとおもって出直すからそのときに、ということにして歩いて家に戻る。ちゃんと出かける準備をして通帳を確かめてから出直す。このときすでに歩きすぎの感があったので、バスに乗った。夕方のバスは反対方向だからか割合空いていて、道もまだこんでなく、あっという間に駅前に着いた。郵便局へ行ってお金を下ろし、ついでに切手を買って、銀行へ行ったらけっこう行列になっていた。月末の月曜日だからだろうか。お金を入れて一安心。文教堂へ行って山岸涼子を見たら長編の第3巻だということに気づいて買うのをやめた。

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)
南直哉
新潮社

もう時間も時間なので夕食をどうしようかと思う。コンビニかスーパーで持ち帰りのカレーを買って家で食べるということも考えたが、全体的な体調もだいぶ回復してきていたしまあ贅沢もいいかと思って東西線で大手町に出る。丸善でゆっくりと2階、3階と本を物色。前の日に話したことが心に残っていて、若い子たちのコミュニケーション能力の問題とかを題材にしたようなことが何か書けるのだろうかとぼーっと思っていたのだが、南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』(新潮文庫、2011)を買うことにした。この本は以前から存在は知っていたが、題名に反発を覚えて買ってなかった。以前は自分の問題を解決しようとしてこういう本をけっこう買った時期があったが、そのときはなるほどと思っても後になるとまあそれはそれで分かるけどね、という次元になってしまうことが多く、この手の本にそんなに期待はしてなくなったのだけど、逆に創作の資料というかヒントのために買ってみようという気持ちになって手を出したのだった。

4階に上ってカフェでカレーライスを食べる。アペリティフにキールロワイヤル。私の思考回路ではどうも贅沢というとシャンパンということになっているらしい。シャンパンフルートに泡立つ紫色の様子を見ていると心が落ち着くところがある。ゆっくり飲んでいるうちにカレーが来たので食べ終わってからまたゆっくり飲んだ。カクテルの飲み方としては邪道だけど。『なぜこんなに』を少し読む。面白い。

カフェを出て4階を見て回る。まだ買わないでおこうと思った来年の手帳なのだけど、毎年買ってるマークスの手帳が在庫が少なくなりかけている感じがしたので買うことにした。来年はブラウンの地にピンクの文字のものに。ピンク男子、という言葉がどこかで呪文になっていた気がする。ブラウンの地のものはあまり買わないのだけど、ピンクにやられた感がある。

12DR-CV01-BR/2012マークス手帳【B6変型バーチカル】グラン・ド・パリ/ブラウン
マークス
マークス

うちに帰って『なぜこんなに生きにくいのか』を読み始める。思ったよりずっと面白い。著者は曹洞宗の僧侶で、福井の寺の住職をしながら(出身は長野県)恐山の院代(山主代理)を務めている。この恐山を訪れる多くのイタコやイタコを訪ねてくる信者の人たちの話がみなそれぞれある種の実存的存在として描かれていて、これはすごいなあと思う。イタコが寺院としての恐山とは関係はないがいることは拒絶はしないという存在なのだとか、というかまず恐山が寺院だという認識がなかったのだけど、そういう話がまず引き込まれてしまう。

この人はもともと実存主義の哲学か何かに傾倒していたのではないかと思うのだけど、その突き詰め方がなんというか、私にはわかりやすいというか納得できる、腑に落ちるところがある。教員免状をとる単位をとり損ねて通信課程で取った「現代倫理学の諸問題」で扱っていた実存主義の哲学を読んですごく腑に落ちたときから、こういう考え方にはなじみがあったからだろう。ツイッターでも書いたのだけど、今必要なのは「なぜ生きるのか」「今私が生きているというのはどういうことなのか」というようないわば「中二的」な問いに答えることなのではないかということを読んでいて思ったのだけど、この問いはまあだんだん雲散霧消してしまってそのうちそういう問い自体が心のどこかに引っかかってはいても問題にしなくなっていくのだけど、結局生きてるということの「わけ」が分からないと解決しない問題というのも多分あるわけだし、そういう意味では改めてそういうことを考えてみてもいいときというのはあるなというか、私自身がものを書いていく上でそういうのをおろそかにしてはいけないなと気を引き締めた。

まだ94/236ページなのだが、今までのところで一番納得できたというか積年のもやもやが解消したというところは81ページの記述。

「自分探し」で悩んでいる人の多くは、自己イメージと「本当の自分」は一致すべきものだと思っているようです。しかし、私は、ズレているのが当たり前で、そのズレこそが、自分の存在領域ではないかと思います。
「本当の自分」というのは、「課せられた自分」に対する違和感が生み出す幻想でしかありません。矛盾に満ちていますが、本当の自己と名づけて意味があるのは、唯一、このズレ、自己に対する違和感だと思います。それこそ、頼りにもあてにもならないものです。

この「課せられた自己」というのは単に今しなければならない何かというだけではなく、生きていること自体が自分の望んでしていることではない、つまり誰も望んで、自己責任で生まれてきたのでない以上、生きているということは「課せられた」ことなのだ、という意味を含んでいる。というかそれが主だろう。

私もずっと本当の自分、本来の自分というものについて考えているところがあった、というかとにかくそれに到達するためにはどうすればいいのかということをずっと考えてきた部分がすごくあるわけだが、「本当の自分」というものの実体が「違和感」である、と言われてすごく腑に落ちたところがある。まあ精神的免疫機構といってもいいのだけど、これはいやだ、これは変だ、と感じる本能的な自己保存機構のようなものが「本当の自分」の実体なのだといわれるとこれはすごくよくわかる。アイデンティティとは免疫機構だ、と言う解釈があったが、まあ自己と言うものはマボロシだと言う仏教的な考え方に哲学的な解釈を加えて科学的にも解釈できるように追加された説明だと言ってもいいけれども、そうか違和感かと言われるとなるほどなあと感じ入るところがあるし、「本当の自分」にこだわることがいかに消極的な、内向きのことなのかということもよくわかる。

ということを考えていて、自分がどんなに愚かなことを繰り返してきたんだろうと思い出すとまったく冷や汗三斗の思いという感じになった。自分がやりたいこと、自分がなりたいものになるためにそれをやっていくならばそれに近づいていくことが出来ても、違和感にこだわっていただけでは全然前に進めないのは当たり前だし、違和感とやりたいことが衝突したときにどちらにも進めなくなってしまう。なんだか中学の保健体育の「葛藤」の話みたいだが、あの話ももっと深くしてもらったら多分もっと分かったんだろうなと思う。

なんというか、「違和感」をアンテナとしてそれを解決するように生きるのは生物として当たり前のことで、桜井章一などもそれをひとつの柱として重視はしているけど、「違和感」とは別に生きている以上「やりたいこと」はあるわけで、それをどう実現していくかということの方がとりあえず前に進んでいく人間としては重要なことだろう。

自分の違和感を見てみないフリをして自分の殻に閉じこもるということが多分今の若い人の根本的な問題の一つなんじゃないかと言うことも思うし、そういう意味では違和感を意識することは大事なことではあるのだけど、やはりやりたいことに取り組まなければ前には進んでいかない。

本来の自分と決意としての自分、と言うのを先日書いたけど、やはり決意というものが必要で、それはどれくらいの時期に持つとよいものかと言うと、「志学の年」である14~5歳くらい、ということかなと思う。岡潔もそんなことを言ってた。私もそのころすでにものを書いて生きていければいいなという漠然とした思いはどこかにあったけれども、それが決意にまで高められなかったのが今思うと残念だったなと思う。

まあ決意してその方向に舵を切ってもうまくいかないことはよくあることで、今までの人生を考えてみると、「違和感」に意味を持たせすぎたとき、つまり「本当の自分はこうじゃない」という思い入れが強すぎた、思い込みで突っ走った場合は失敗する傾向があったなと思う。まあ私はある意味我が強いと言うか、違和感を意識するとかなり頑強に拒絶してそれを原動力に自分も物事も動かしてしまうところがあり、今思うといろいろな失敗はそれに起因するところが多いなと思う。いやまあ基本的に失敗と言うものはそういうものだったと言ったほうがいいんだろう。

だから違和感に導かれるのではなく、(違和感は導かれるのではなく解決するものなのだ)、やりたいことをやる、やりたいことを実現する、と言う思いに導かれたほうが安全だし楽しいのだ。そして多分、わりとうまくいく。実際、この本に出会えたのも「本当の自分を考えるために」ではなく、創作という「やりたいこと」の参考にするために、と言うスタンスで探したから出会えたわけだし、多分「本当の自分を考えよう」と思って読んでいたら「違和感こそが本当の自分なんだ」という記述は全然受け入れがたかっただろう。作者は「仏教の修行に賭ける」という思いで修行に取り組むことが大切なことだった、と言っているけど、それが今の私にとっては創作のためにという視点を持って(今までは知りたいという欲望だけで、知ってその続きが特になかった)さまざまなものを見ていくことが本当になりたい自分に自分を組み替えていくことにもなり、より自由になるために必要なことなんだなと思った。

だから取り組むことは多分なんでもいい。ただまあ、その人がどんなものに向いているのかはやってみないとわからないので、結局はやってみるしかないのだろう。夢を持って取り組んでもいいし、とにかく社会人として生きていくと決意して仕事に就くのでもいいだろう。これは違うと思えば、もっとこうしたいという「やりたいこと」も出てくるだろうから、そうすればそっちに変えることも全然ありだと思う。そういう意味では「やりたいこと」が一発で見つかる、というかもともと持ってる人を除けばかなり多くの人が試行錯誤の上に到達しても全然OKだと思う。まあそこで違和感に導かれるのではなく、やりたいという思いに導かれないと失敗を繰り返す恐れがあるけれども。

とまあそんなことなのかな。書くのにだいぶ時間がかかった。今朝はこの辺で。

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