観念の世界と生命の世界に橋を架けるということ

Posted at 11/10/01

【観念の世界と生命の世界に橋を架けるということ】

今日から10月。昨日はいろいろなことで頭が混乱したりしていたけど、全体的に体調は向上しているし、今朝の感じも悪くない。逆に言えばだいぶエネルギーが出てきたために思考にそれが注入されるとある種の自家中毒を起こすということではないかという気がする。それは逆に言えばつまり、何か思考の円環とかループの中に嵌り込んでしまうというか、人のしかけた言葉の罠、昨日で言えば香川照之のインタビューの中に出てきたいくつかの言葉に何か変なスイッチが入って暴走してしまったところがあるような気がする。

逆に言えばそれは人の土俵で相撲をとってしまったということで、しかも一人相撲。いくら技を掛けても相手は倒れない、当たり前だが。本当に自分のやりたいことに取り組んだとは言えない。でもそれは自分がたとえば無視したり嫌ったりしてきたという形で関心を示していたものと決着を図らなければならないところがどうにも出てきてしまったということでもあり、無視したり嫌ったりすることでむやみに相手を自分の中ででかくしてしまったからそうなったわけで、全く文字通り一人相撲なのだ。自分の設定した枠が変更されたからどう変更されたのかを確かめずにはいられず、それはまあ想像上の自分の領域を侵犯されたということでスクランブル発進してみたら相手は幽霊みたいなもので物理的には撃退できない、変な影のようなものが漂ってるだけで、迷走して疲れ果てて影を撃って帰って来た、みたいな感じになってしまった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言ってもいい。

まあそういう実態のない霊みたいな観念と付き合うのも一つの作家の仕事なのかもしれないなと思うし、まあそこから何か本質に迫ることができたり人間存在のばかばかしい側面を描くことができたりもするのではないかという気もするが、まあとりあえず観念が暴走してしまうような状態では自分の力を十全に発揮しているとは言えないし、やはり上半身だけで物を書いている感じが否めない。下半身、と言っても下ネタという意味ではなく、自分を成り立たせている根本、ああ、下部構造と言った方がいいか、マルクス的な意味ではないけど、自分の生命の本来的な志向みたいなものから観念まですべてを貫く射程みたいなものがちゃんとある文章を書かなければいけないと思うし、そういう作品、そういう物語を書きたいと思う。

だから表面的なネタに幻惑されてしまうと意識の表層のお花畑で遊ぶだけになり、マンガ版ナウシカのヒドラの作った楽園のような感じになってしまう、と書いてみて、実はあのマンガ版ナウシカの各々の設定の奈落のように深い意味を自分はまだ解釈を避けているところがあるなというのに気がついた。いや正直言ってこの辺も考えだすと三回くらいは頭がおかしくなりそうなものなのだ。日々の生活に追われているとそうそう頭をおかしくしている余裕もないから、そういう意味で早く十分の糧を得て文筆生活に入れるといいなというところはある。まあそれはともかく、生命の世界と意識の世界は意識の世界を発達させると分離して行きがちになるし、それをしっかり結びつけるたましいの世界の存在のようなものをきちんと描き出すことが自分にとっては自分の書くべき物語の役割なんだと思っている。

風の谷のナウシカ 7
宮崎 駿
徳間書店

たましいの世界を描き出すこと。

それは観念ではない。かと言って描写そのものでもない。その中間にあって、ある種の幻のように立ち現れて来るもの。信じること。信念。「何かつかんだ」という感じ。自信。確信。みずみずしさ。常に新しいもの。常に更新されるもの。生きているということ。その橋のようなもの。橋を架けるということ。新しい橋。古い橋を多くの人が渡った。しかしその橋はもう朽ち、崩れ落ちようとしている。そして多くの人たちが奈落へと落ちている。橋をかけなければならない。新しい橋を。そんな感じのことを思う。

ああ、何か霊媒化したな。まあ作家なんか霊媒みたいなもの、というかそういう要素はすごい強いと思うけど。そういうものを商品として流通させなければならないんだから面倒なことは多いな。村上春樹とかそういう意味ではすごいと思う。

今朝はとりあえずこれで。

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