布の触感/「感情移入」に対する微妙な思い

Posted at 11/09/10

【布の触感】

昨日は夜10時まで仕事。最近忙しくてなかなか早く帰れないのだが、昨日もうちについたのは10時はくらいになっていて、それから夕食、母に愉気、入浴となって寝たのは一時近かったか。今朝は昨日やり残した洋服の片づけをいろいろやっていたのだけど、青いシャツをたたみながら、その細くこまかいブルーのストライプに窓から差し込んできた日が当たり、その光に映えるシャツの生地の柔らかさな美しさに心を動かされた。わりと普段使いで適当に着ているシャツにも、こんな美しさがあるんだと気づいて。わたしは実は、洋服を扱っているのが好きだなと思った。なにが好きかというと、結局布の触感が好きなのだろうと思う。ふんわりとした柔らかさ、たたんで行くと微妙に出て来る弾力、強さ。肌になじむ感触。あたりまえの触感なのだけど、改めて感じると何だか幸福感すら感じる。わたしは洋服が好きだったんだと、それはもちろんもともとそうは思っているのだけど、改めて知った感じがした。

【「感情移入」に対する微妙な思い】

ある方とメールでやりとりしていて、いろいろと「ものを書く」上での根本的なあたりについての話になってとても面白いのだが、一番いろいろ考えたのは「感情移入」の問題だった。その方が「物語にはまるには登場人物(主人公)への感情移入が必要」だと書いているのが、少し意外に感じられたのだ。

しかしこれは私の周りで自分の作品を読んでもらった人みんながいう感想のようなものを聞いていても、やはり「感情移入できるかどうか」というのがとても大きいのだということをいろいろ考えていて思い当った。ということはつまり、私の「感情移入」に対しての「微妙な思い」の方がより特殊であり、また何かそう思うには理由があるのだ、ということについて考え始めた。

考えてみたら、主人公に感情移入して読むというのは一般的な行為だし、小説において重要なファクターだということが、少し考えればどんどんその通りだと思って行くし、その感情移入の出し入れというか抜き差しというか、そこを微妙に加減して行くことの絶妙さこそが書き手の重要なテクニックだということがどんどん認識されて来る。上手いとされている作者を考えてみると、要するにその感情移入の加減のコントロールすること、たとえばうまく入ってきた読者を違和感のある感情や行動によってあれっと思わせたり、入ってきたところを捕まえて虜にしたり、全然知らない山の上に連れて行ったり、ときに解放しときに締め付け、読者の感情を思うがままに翻弄して満足して帰すのが作者の力量、みたいな感じがしてくる。宮部みゆきなどはそういうことが上手いなと思うし、村上春樹などでもときどきううっと思わせたりうぇっと思わせたりしながら入ってきた読者の感情をけして手放さない、ナントカ男爵かカントカ伯爵のようなテクニックの達人だ。移入してきた読者の感情を上手にいたぶってあげるのが作者のテク、みたいなことはまあ、確かに私も認識しているところはあるなと思った。

であるならば、どうしてそういうものに違和感を感じ、自分として距離を置いてきたのかということは考えた方がいいと思った。

結論から言うと、要するにそれは80年代の感覚の残滓である、ということに思い立った。当時のニューアカとかスキゾ礼賛の時代、「終わりなき日常」に耐えて生き残るために、いかに日常の文脈を差し替えて面白がり続けることができるか、みたいなことがテーマであった時代には、やはり「本気で生きる」ことがダサく、物語や小説に対しても「本気で読む」ことがダサくて、何か周辺知識のうんちくを振りまわしたりどんな小説も軽く批判して見せたりするのがカッコよく見えた。わたしが芝居を演じていたり書いていたりした当時もやはり感情移入させる/するような芝居をつくることはダサい、という感じがあり、感情移入に頼らないでも面白い芝居、みたいなことを常々考えていた気がする。

当時私が一番おもしろいと感じていた映画はアンジェイ・ズラウスキ監督の『狂気の愛』だったが、アレなどは私は最初から最後までげらげら笑っていたし、最初から最後までわくわくしっぱなしだった。ストーリーとしてはドストエフスキーの『白痴』を下敷きにした話でそんな可笑しいというタイプの映画ではないのだが、出て来る登場人物一人ひとりが、出て来るもの一つ一つが全部イカレていて、めちゃくちゃなのだ。それなのにストーリーの展開はめちゃくちゃドライブ感があり、みているうちにどんどん昂揚してくる。あの完成度は他のズラウスキ作品にもない。

当時の私はその面白さをむしろそれぞれのアイテムの面白さなのだと思っていた感がある。しかしよく考えてみると、そこで起こっている現象が全部無機的に繋がっていたらわけがわからないのだけど、舞台で展開される魑魅魍魎の饗宴だけでなく、哲学的なテーマやラブストーリーが本当は幹としてあるがために、幹よりも枝葉末節が肥大化した可笑しさがより際立つわけで、そういうキッチュな面白さであっても実は感情移入できる筋がちゃんとあるということはとても大事なのだと今では思う。

まあ芝居を作るときは、また小説を書くときでも、やはりそういう相対主義的な「脱・感情移入」を目指しているところはあり、でもそういう形の作品にするとたいがいは評判が悪い。それで感情移入できるようなストーリーを考えて価値とか美しさをちゃんと提示するとそれなりに評価してもらえるので、自分で何を書くべきなのか意識していないところで混乱していたのだなあと思い当たった。

まあ、ポーズとしての本気の否定、みたいなことは正直もうアウトオブデートだし、そんなことにこだわる必要はない、ということは認識したのだが、ただ感情移入という問題はそんなに簡単に片づけられる問題ではない。逆にいえば、感情移入を小馬鹿にするスタンスがあればこそ自由に感情移入を操れる、という面だってないわけではないわけだ。宮部みゆきの巧みさというのもそういうところがある気がするし、流行作家が何となく鼻につくのはおれは自由にお前らの感情なんか操ってやるぜみたいな感じがあるからで、どこかそういうものを嫌う感情にはホスト狩りに走る若者と共通する部分があるかもしれないと思う。って表現がやばいな。まあ感情を操って差し上げてお金をいただくのが商売です、みたいな謙虚さがもっとあってもいいかもしれない、そういう人たちには、みたいな。

結局小説の構造を考えると、やはりその小説世界に読者を招き入れるために世界巡りをする船が感情の動きであるとすると、その船が感情移入させるための仕組みによって動いているわけで、そこを中心に世界が動いて行くことになる。パイレーツオブカリビアンのゴンドラのようなものだ。あるいは『神曲』におけるダンテを導くヴェルギリウスの役割というか。そしてそこを中心にめくるめく小説世界を見せて行くわけだけど、その中には表面的な明滅する飾りつけのようなものもあるし、そこに現れるキッチュな面白さもまた要素としては小説の魅力を高める重要な働きをすることはあり得るわけだし、しかしやはりどちらにしてもそれだけ、その二つだけでは読んでいて物足りない。

大事なのは、それらを越えた何かを感じ、その何かに到達する、あるいは少なくともその感触を得る、ことだと私は思う。感情より深いところにある何か。感情は「それ」に動かされるけれども、「それ」は感情に動かされない、何か。

白洲正子が書いていたが、青山二郎は自分が気に入った器を骨董屋で見つけると、「人が見たらば蛙に成れ」と言っていたという。そういう自分だけがわかる美のようなものを見出すこともまたある種の終わりなき日常を生きるためのすべであるわけだけど、表面的なものではなく、もっと深いところにある真であるとか、美であるとか、善であるとかに到達することこそが小説を含む文学作品の最終的な到達点だろうと思う。

で、やはりその中では「善」が人気があるかな。つまりある種の倫理。村上春樹の小説は美を感じるときはないわけではないけど「真」を感じることは私の場合はあまりない。というか「真」というのは「神」に通じるから、それは意識的に自分に縁のないものと扱っているような気がする。「1Q84」はある種それに迫ろうとしていたのだと思うけど、青豆に語る教祖の語り口とかを見ているとこれはそういうものではないなと思う。やはり人間がどう考え、どう行動すべきかという倫理、何が善か、というのが村上の最大のテーマである気がする。「ブレイブ・ストーリー」などでも女神という存在は措定されているがやはり善こそが求められているのだろう。やはり一般的に若者にとって、何が善かということが一番重要に感じるからなんだろうなと思う。

まあこれは私の個性というか感覚なのだけど、どちらにしてもむき出しの善、むき出しの倫理のようなものは嫌いだし怖いし勘弁してほしい、と思うところがある。お前は紅小兵かヒトラーユーゲントか、みたいな感じがしてくるからだ。まあそれは私なりの前世?のトラウマみたいな部分もあるのだけど。人に倫理は必要だけど、でもそれは真を、つまりはある種の神、ある種の神聖なものを見通した上に立っての倫理であってほしいし、またそこには美が、あるいは詩が、ポエジーが伴うものであってほしい。そしてそういうものを書きたいと思う。

まあだいぶ話がでかくなったが、つまりは私にとっては感情移入というのは方法論的な問題なのだけど、ちょっとそれについて今まで変な先入観があってきちんと考えて来ないところがあったということは反省しておく必要があると思う。むかしは感情の出し入れなんか簡単だと思っていた(作者として)面もないわけではないけど、今ではいろいろもっと意識してブラッシュアップして行かなければならないなと思う。

「感情移入」ということについての考察でした。

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by Luke Peterson

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