一人称と三人称を結びつけるもの

Posted at 11/07/23

【一人称と三人称を結びつけるもの】

今日は仏滅で、大暑で、下弦の半月。そしてふみの日。一筆啓上火の用心。おせん泣かすな馬肥やせ。旧暦では6月23日だから、夏の終わりということになる。旧暦では7月は秋の月だ。

あまり時事的なことや、大きな話題になるようなこと、広く話題になるような昔話的なこともあまり書かないようにしている。アクセスはここのところ毎日400程度になっていたが、テキスト庵閉鎖騒動のあった頃は600を越えた日もあった。とはいえ600、ともいえる。有名ブログにリンクされたりすると1000を越えることだってあるから、テキスト庵のコミュニティの大きさと言うものは、あるいは自分とテキスト庵との距離は、これくらいの感じなのかなあとも思った。

今日は朝から『ピアノの森』の昔の単行本を何冊も読んでいちいちまた感動していたのだけど、こういう感動をどうしたら文章で与えることが出来るのかとかを考えたり、あるいは中の書かれているセリフを自分が受け取ったらどうなるかを考えたりしていた。

6年生の誉子がコンクールの本選でカイに心の中でこう話し掛けながらピアノを弾く場面がある。「カイ…誉子わかったの。自分のピアノを弾くってことが、それがどれだけ素敵なことかが。」

それが自分が受け取るとしたら、「自分の物語、自分の小説を書くということが、どんなにステキなことか」ということになる。これは正直、本当にステキで、何者にも代え難い喜びがある。自分の物語が書けた、自分の小説が書けた、と思うことはまだまだそうないけど、本当にそう思える時はとても嬉しい。

自分のピアノってどんなピアノなんだろう、とピアニストはどういうふうに考えるのかよくわからないけど、心の赴くままに自由に弾くのか、自分の心が納得するように弾くのか、自分の心をこめて弾くのか、いずれにしてもピアノと、あるいは音と自分がつながっている、あるいはそこにたましいを与えているということがあるんだろうし、自分が書いていてもその作品の核になる、あるいはたましいになることがなければ自分として納得のいく作品にはならない。そのレベルで考えるとここのところ書き上げた三つの作品の中でも、どこまで書けたかの達成度はそれぞれ違う。ある基準以上ではあるけど、もっと上の基準になると結構差がつくし、まだまだ自分なりの基準を完全に満足させられているとはいえない。

書くということは常に向上していくということなのだ、みたいなことは村上春樹がいっていたが、書くという営為を人類は何千年もやってきて、その遺産は膨大なものがあって、私自身がその遺産をどの程度生かせているかというとまあものすごくほんのわずかのちっぽけな部分しか吸収し反映していないわけだけど、逆にいえば人類が今までやったことをなぞっていくだけで無限にやることがあるし、いま自分がやっていることが人類にとって初めての挑戦であったりするもわけで、人類と無縁で書いているような気がしていてもでもどこか人類がいつか感じたことをいま自分が感じて書いていると思うことがときどきあって、だから初めてなのに懐かしい、という感じが書いていてすることがあるんだろうと思う。

大きく言って小説には一人称小説と三人称小説があるけれども、私自身がものを考えていて一人称で考えているときと三人称で考えているときがある。一人称で考えるというのは私自身が何かをするとか何かをしたとかどう感じたとかそういうことを考えているわけだけど、もっと広く情勢を判断したり他の人の気持ちを考えたり観察したり分析したりしている時は三人称で考えているわけだ。主語は自分ではないから。村上春樹の小説も初期はずっと一人称であったけど、結構描写自体が客観的というか俯瞰的というか、自分の感情をまじえずに書くことで三人称的な雰囲気を出したりしているし、三人称小説でもすごく感情的な描写を持ち込んで主観の嵐の戦いみたいに書くのがうまい人もある。

自分で書いていて思うのは一人称小説だと主人公から見えることしか書けないから描写が不自由だし、世界を広げにくくてどうしても回想場面が多くなったり、あるいは主人公をいろいろな場所に送り出して場所の目先を変えたりしたくなってくる。一人称小説の強みは主人公が一貫して自分自身であり続けることなのだけど、逆に言えば自分が自分であり続けることの不自由さみたいな点を、書いているときには感じることがある。

逆に三人称小説を書いているといろいろな情景描写をしたり、この人がこうであってこちらの人はこうだ、みたいなことを書くことはできても書いているうちに視線がバラバラになってきてしまう気味がある。三人称小説の強みはいろいろな角度から視線を当てられるということにあるのだと思うけど、ずっと同じ人に同じ方向から角度を当ててしまったり、適度に他の人に話を移したりしないとバランスが悪くなったり、唐突な感じがしたりすることがある。多分、まだ十分小説の技術に習熟していないうちは一人称小説のほうがその不自由さゆえにある意味書きやすいということがあり、三人称小説はいま自分がどういう角度からどういうふうに書いているのかを常に明確に意識して書けるようになってからのほうが書きやすいのだろうと思う。

私はもともと芝居の台本を書くことからフィクションの制作を始めているので、舞台という場所を思い切り広く使うことを常に考えて書いていた。視線は常に観客からの視線を考えていればいいのだし、基本はダイヤローグとモノローグ、クライマックスで集合シーン、と使えるアイテムは限られているというか、逆に少ないアイテムをどう使いこなすかが腕の見せ所、みたいな感じになって、一瞬で場面を作れるセリフをどう書くかとかいうことも考えるが、一瞬で場面を作るのは役者の力量に任せる、あるいは演出効果に任せるという部分もあったわけで、各人の「しどころ」をいかに用意するか、みたいなことを考えて作っていたのだけど、小説というのは一から十まで作者のもので、めりはりを効かすのも場面を作るのも「言葉」以外にないから、身につけなければならない技術は本当に多いなと思う。

芝居をやっていて思っていたのは、芝居で何を表現したいかというけれど、芝居で一番やりたいことは芝居それ自体なのだ。映画を作る人たちだって、一番やりたいのは映画それ自体だろう。何かを表現するというけれども、それはある意味「だし」であって、今まで表現されたことのない何かを芝居で表現できればそれはそれで面白いし、まあ今までと同じものが表現されただけではつまらないけど、でも使い古されたものでも全く新しいやり方で表現できればそれでもいいわけで、多分音楽とかが永遠にベートーベンやショパンが演奏されていくだろうことは、そういうことなんだと思う。小説を書くこと自体が大事なのであって、何が書かれるかというのはその次の問題なのだと言ってもいい。

芸術活動というのはそういう意味でそれ自身で完結している部分がある。思想運動とか社会運動というのは思想と実践みたいな形で常に応用していかなければならないところがあって、そう言うものに従事している人は大変だろうなと思う。

自分が考えていて、一人称で考えているときと三人称で考えているときというのはまるで違う自分がいるようだなと思うときがある。三人称で考えているときは冷静だが、ほとんど人ごとのように自分で動こうという気にならないし、動いてもあまりうまくいかない。一人称で考えていると気はとにかくまず動こうと思って焦って動いて失敗したりすることが多い。

その一人称と三人称の二つの思考を結びつけるものは何かと考えてみると、「やりたいことをやる」ということなのではないかという気がする。一人称で動いているときには何がやりたいのかわけがわからなくなってしまうことがよくあるし、三人称で考えていると気はただの行動に結びつかない願望に過ぎなかったりするのだけど、「やりたいことをやる」という原則をはっきり立てておけばそれを実行するためにさまざまな作戦を立て、一歩ずつでも実現に向かって進んでいくことが出来るだろう。

人間は生きている以上必ずやりたいことはあるのだし、それをどう実現するかが大事になってくると思う。ああなんだか書き始めたら限りがないのだけど、とりあえずこんなところで。

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