書きたいことの芯/アイデンティティって借り物くさい/型とスタイル

Posted at 11/06/30

【書きたいことの芯】

朝からずっといろいろなことを考えていろいろなことを書いていたのだけど、書きたいテーマみたいなものはだんだんまとまって来た。ただそれをどんなふうな形にするのかはまだ全然思いつかない。だいたい自分ではよくわからないこともあるしなあ。よくわからないことについて書き始めて書いているうちに分かって来るというのは理想なのだけど、そんなふうにうまくは行かないということもよくある。書きたいことの芯になることが出てきて初めてちゃんとまとまったものとして書ける、というのがだいたい私のパターンで、これは齊藤孝『自己プロデュース力』(大和書房、2003)に出てきたチャップリンの言っていることと重なっていて興味深かった。まあそれが出て来るまでが苦労で、それが出てきたらあとは気力さえあれば書ける。書いているうちにそれが出て来るというタイプの人もいるんだろうなあと思うのだけど、私は今のところそういう経験はない。中心的なイメージができなければ何を書いても方向が定まらない、中途半端なものになってしまう。

自己プロデュース力
齋藤孝
大和書房

その中心的なイメージとはせりふでもいいし、あるいは具体的なキャラクターでもいいし、具体的な場面でもいい。このせりふを言わせるために一本の小説を書く、このせりふを言うべきキャラクターを造形する、という場合もあるし、あるキャラクター(人間であるとは限らない)をめぐる顛末、その構造がそのまま物語の構造になるときもある。一番最近書いたものはあるモチーフ、そしてそれを体現する場面が先にできて、ストーリーをあとからくっつけたという感じだ。とはいってもストーリーが途中までできていた二つの話をくっつけることでそのモチーフが出てきたのだから、どれが先なのかはよく分からない。だから厳密に言えば書き始めたからこそそのモチーフが出てきたわけだから、思考錯誤の形はこれと決まっているわけではなく、だからこそ書き始めはいつも産みの苦しみ、チャップリンが言うところの「迷路」にはまってしまうのだ。それを考えて考えて抜けだすことこそが醍醐味だといわれると、なるほどと勇気が出る。まだまだ先は長そうだがとにかく考えようと思う。

【アイデンティティって借り物臭い】

齋藤のこの本は、モハメド・アリ、美輪明宏、ガンジー、チャプリンという4人をとりあげて、彼らがどのように自己を確立し、売りだして行ったかというようなことを齋藤の視点で分析しているのだが、取りあえず自分に参考になりそうな美輪とチャプリンのところだけをまず読んだ。この両者のところはたいへん面白い。

どこがどう面白かったかを詳しく書くのは自分がいま書こうとしている作品と微妙に絡んでくるので細かくは書けないのだが、チャプリンについて一つ書いたので美輪明宏についても一つ書いておこうと思う。それはアイデンティティの問題だ。普通の人間は男である、あるいは女であるということにアイデンティティを持っている。しかしそれなら美輪はどうか。男でもあり、女でもある。あるいは、男でもなく女でもない。その自覚を持つことは、現代でももちろん困難が伴うことではあるが、彼が成長した時代においてはとんでもなくたいへんなことだったはずだ。しかし彼は、男でもあり女でもあることに、あるいは男でもなく女でもないことに、アイデンティティを確立したというわけで、これはなるほどと思った。

振り返って自分を考えてみると、男であることとか、日本人であることを、どう思っているのだろうと思う。もちろん事実であるわけなのだけど、それにアイデンティティを持つというのはどういうことなのか。

考えてみると、男であるということには男であるという概念が付きまとう。「いわゆる男らしさ」とか、「本当の男らしさ」とか、「実はの男らしさ」とか、いろいろだ。男は強いという概念もあれば、実は女より弱いという概念もある。そして確かにそれらの概念には、「いろいろな人間が本当はあるはず」なのに、「男とは」「女とは」でくくられがちなものでもある。そういうことを考えるのが多分ジェンダー論なのだろうけど、その神話性を暴く!みたいなはしたないアプローチがしたいというわけではなくて、つまりそういうことにアイデンティティを持つということ自体が「借り物臭い」感じがしたのだ。

俺は男だよ、うん。そりゃそうだ。それで?男は男らしくしなければいけないって?うん、そうかもね。で、君のいう男らしさってどういうこと?ふううん。それ、君が自分で考えたこと?誰かから聞いたことっぽいね。それを自分に当てはめて、面白い?力が出る?いや、力が出るならいいと思うんだ。俺は男だから彼女を守るぞ!とかね。そう考えて力が出るならうまくその概念を、アイデンティティを使ってることになる。

でも考えてみたら、男らしいことって自分らしいだろうか。むしろ「男らしくない部分がある」ということ自体が自分のアイデンティティになっていたりするところはないだろうか。多分私はある。それじゃそんな借り物のアイデンティティにこだわる必要があるんだろうか?

そうだな。まわりにあわせるためには有効なんだよね、そういうアイデンティティを持つことが。男同士、女同士、気楽に何でも言えて。女がいるといいにくいことでもベラベラいえるし気楽だよね。それでその属性に属することを再確認して、連帯感を持って。それで元気が出る?いやそれならそれでいいと思うんだ。

日本人であることもそうだな。日本人であって、よかったと思うし、嬉しいと思う。でも日本人らしさって言われるとどうなのかな。多分実際、外国人とくらべると日本人らしいところたくさんあると自分でも思う。でも、それがアイデンティティになるってどういうことなんだろう。日本人としての義務を果たす気はあるし、権利を行使する気もある。でも借り物のアイデンティティを持つ必要が必ずしもあるんだろうかと思う。

アイデンティティってつまり、「人と同じことをよしとする」という傾向の産物なんじゃないかと思ったのだった。それって集団生活には都合のよい考え方だとは思う。たとえば軍隊にはいることになったとしたら、日本人というアイデンティティと同一化できなかったら辛いだろうなと思う。

しかしものを書こうという人間、物を作ろうという人間にとってはどうなのかなと。借り物の自己、お仕着せの自己を被るということは、ものを作る人間にとってどういう意味があるんだろう。

私がアイデンティティの問題を一番意識したのは2002年9月17日。金正日が日本人拉致を認めた日だ。日本人として、この問題は全く見過ごすことができないと思った。あとは、90年代以降小林よしのりを読んで日本人の誇りがいかに戦後おとしめられてきたかということを再確認して愕然としたこと。このあたりのことでアイデンティティを一番意識したことは間違いない。

ただ、ナショナリズム的な大義というものは、どうしても突き当たり、終点がある。その先がなければやはり創造性に欠けるし、その先のことを考えるには自分はあんまり向いてないなとも思った。今でも靖国神社には行くし、この国を維持してきた人たちに感謝はするけれども、それらの人たちと自分を同一化できるかと言うと、どうだろうか。そこに全く嘘がなく隙間がないか。

少なくとも、ものを作ろうという人間は、お仕着せで満足したらだめだと思う。借り物で良しとしてはだめだと思う。男ってこうだっていうけどさ、こういうことだってあるよねとか、女ってこういうものだよねっていうけどさ、みんなそうなわけないじゃんとか、そういうものがちゃんと見えなきゃものなんて作れない。

じゃあものを作る人間は、何のアイデンティティも持たずにさまよわなければならないのか?いや、そんなふらふらした人間、なにも作ること出来ないよ、たぶん。

【アイデンティティよりスタイル】

そこで齋藤が見つけてきたのが意表を突く答えだった。少なくとも私は意表を突かれた。文中に引用されて印象に残った出典は一つが美輪の自伝『紫の履歴書』で、この本は前から絶対面白いと思いつつそれこそあまり影響され過ぎるのがいやで読んでなかったようなものなのだが、やはりとんでもなく面白いとだろういうことはよく分かった。もう一つが幸田文との対談で、幸田文ってほんと鋭い人だと思うのだが、美輪のこと(当時は丸山明宏だが)を「あなたは型を作ったのよね」というふうに言っているのだ。それを読んでわたしは「なるほどー!」と思ったのだった。

「型」、と言うと思いだすのは歌舞伎で、たとえば『熊谷陣屋』で熊谷直実が「高札の見得」というのを切るときに、四代目芝翫が作った「芝翫型」と九代目団十郎が作った「団十郎型」があって、芝翫型が札を上にして担ぐおっとりした型なのに対し、団十郎型は札を逆さにして見得を切る鋭角的な芝居で、現代では団十郎型が定番になっている、なんてことだ。これはつまり「役の解釈」というようなことなのだけど、生き方における「型」というのはつまりはその人独自のものだろう。「型より入って型を出る」という言葉もあるが最初は誰かのまねをした生き方をしてもそのうち独自の型ができるという場合もある。いいかえれば、「スタイル」ということになるか。その人独自の「スタイル」を確立する。でもそれはけっこう最初はヘミングウェイのまねだったりボギーのまねだったりすることはよくあるわけで、それはそれでいいんだろう。

「型」や「スタイル」と「アイデンティティ」を同列に比べたことはなかったのでそう並べてみると目から鱗という感じがするのだけど、そう考えてみるといかにアイデンティティという概念が粗雑なものかということが実感できる。「型」や「スタイル」がその人に何らかのことを強いる、強制的に生き方を正して行くものであるのに対して、アイデンティティはどこか適当な、甘えた概念である気がする。

もちろん、それに近いような意味でアイデンティティという概念を使ってがぴったりくるならば別にそれでもいいのだけど、私としてはその部分でレディーメードの生き方をするよりは、オーダーメードというかセルフメードの生き方を作っていくことこそが物を書いたり作ったりすることの原点ではないかという気がする。(男も女もママメードな生き方の人も多い時代ではあるが。これは余談。)

自分の中からどう生きたいかということを引き出して、自分の生き方の「型」を作り上げながら生きていく。多分そんなふうに生きたいと自分は思ってきたと思うし、おおむねそうしてきたと思う。というか、いろいろなお仕着せを押し付けられて、一度は着てみようとしたりしたけど、結局無理だったってことにすぎないかもしれないんだけどさ。

まあ少なくとも、そういう型をもっとブラッシュアップして行かなければいけないとは思うね。

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