佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』読了/この本を読んでいて気分が悪くなったわけ/日本の三大文化圏は「ヤンキーの世界」「おたくの世界」「エリートの世界」/私が小説を書く理由

Posted at 11/04/29

佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』読了。第3章、セルフパブリッシングの話は興味深い。amazonDTPを使って自分の本(電子書籍)を出版するというやり方がアメリカではかなり簡易な形で可能になっているということ。そのサービスはまだ日本語に対応していないが、村上龍などがすでに試みを始めているし、そう遠くない時期に日本でも可能になるだろう。やはり日本ではまだ火がついていないという感じがするのは、amazonのような巨大なプラットフォームが日本市場には参入できていないということで、それはそれだけ日本の既存の出版界の抵抗が大きいということのようだ。佐々木はこのあたりのところに大変攻撃的で、まあ実態から言って自分が知っていることと知らないことがあるからどこまでその見解が妥当なのかは分からないのだけど、説得力はあるように思う。

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)
佐々木俊尚
ディスカヴァー・トゥエンティワン

出版業界の抱える大量流通と再販制度が日本の出版流通の癌になっているということは以前からそこここで読んではいたが、それを説得力のある形で説明してくれたのは私にとってはこの本が初めてだ。今まではそれが出版という零細な業態を支えてきた仕組みであったということも事実だとは思うが、より前に進めるためには痛みを伴った改革が必要なのではないかということもまた説得力を持っているように思う。すべての改革はダメージを伴うから、この改革が本当にプラスに出るとは断言できないけれども、より向上して行く可能性は感じられる提案であるとは思う。

どんな形にしても本の作り手は残る。その本の作り手は著者だけでなく、それをシェイプアップしかたちにして行く編集者や装丁家の仕事もなくならないだろう。電子書籍とは言え、あるいは電子書籍であるからこそ、紙の書物ではできないデザインが可能になる面もあろうし、本という形態が消えることはないだろうから電子書籍が先で紙の書籍化がそれに続くということもあろうから、装丁家の役割は今後も決して少なくないのではないかと思う。

そういうふうに考えると、出版社というものはプラットフォームを握れる少数の巨大企業をのぞけば編集プロダクション的なものに、あるいは作家のマネジメントを担当するプロダクション的なものになっていくのかもしれない。出版点数がいくら増えても電子書籍ならスペースはいらないわけで、むしろ活字が爆発して行く可能性の方が高いだろうなと思う。

第4章は上に述べたような日本の出版業界の問題を述べるとともに、もう一つ重要な知見を示している。それは、「ケータイ小説」とは既存の「地方のヤンキー文化」と「活字文化」が衝突して生まれた全く新しい可能性を示した「小説」だということだ。むしろ書き手は、「自分が小説を書いている」などという意識はなく、自分の体験談を書いたり打ち明け話を書いたりしているうちに反応が出て来てたくさんの人が読んでくれるようになった、という。そして宮部みゆきが都市中心に売れるのに対しケータイ小説は全国で人口比に応じて売れているということや、ケータイサイトのコミュニティが都市よりもむしろ地方で使われ、地方主導型で発達してきているということから、地方のショッピングモールを中心にした新たなロードサイド文化=新ヤンキー文化みたいなものが生まれているというわけだ。

このあたりの話は、非常に腑に落ちるところが多く、なるほどと思う。東村アキコ(宮崎県出身)の『ひまわり!』で、「ヤンキーに受けるマンガは必ずヒットする」という話が出てくる。ヤンキーと言ってしまえば通常あんまりいいイメージはないが、広義のヤンキーとでもいうものは日本全国どこにでもいるし、人口比で言っても文化圏的には最大の比率を占めているだろう。この話はずっと昔、たぶん80年代にどこかで読んだ覚えがあるのだが出典は忘れてしまった。

ひまわりっ ~健一レジェンド~(11) (モーニングKC)
東村アキコ
講談社

このあたりの話を読みながらだんだん自分は気分が悪くなってきたのだが、それは自分が地方のヤンキー文化が嫌で東京に出たという履歴を持っているからだということを久しぶりに意識させられたからだ。東村アキコも確か地方の若者を「ヤンキー」と「おたく」に二分していたと思うが、それに「エリート」を加えれば日本の三大文化圏と言っていいのではないかと思う。ここからあとは自分の勝手な考察だけど、そこここにどこかで読んだような要素が混入してはいると思うのだけど、まあ大体こんな感じでとらえればいいのではないかという気がする。

「ヤンキーの世界」とは、要するに愛と差別の世界だ。言葉を変えていえば暴力とセックスの世界と言ってもいい。ケータイ小説で取り上げられる「リスカ」「レイプ」「予期せぬ妊娠」、あとは「いじめ」もそうだし「純愛」もそうだし何というか愛と暴力に彩られた中である意味懸命に生きているひとたち、まあ大多数はそんなに華々しい?生活をしているわけではないにしても、わりと身近にそういうものを感じている、ある意味動物的な文化と言ってもいい。まあケータイ小説だけでなく、マンガとか映画とかでもそういう「教育によろしくない」けれども人間の真実として否定し去ることもできないようなものが生で発揮されている世界だと言ってもいい。それは現代的な現象のように思われるけれども、本当は大昔からずっと続いた人間の動物的な意味での本質が、現代的な意匠によって表現されているにすぎないということもできる。柳田國男の言う「常民」の世界というのも、まあこんなものなんだろう。太古の歌垣とか夜這いの文化とか、暴力的な通過儀礼とか、そういうものにもつながっていく。地方の祭りの担い手は鉄火肌のおっさんだったりヤンキーの兄ちゃんだったり茶髪でギャル口調のヤンママだったりするわけで、決して地方エリートが担っているわけではない。そういう意味で脈々と受け継がれた文化が輸入文化との文化融合の結果、日本最大の文化圏として今も強い力をふるっているということなのだと思う。

これはハイブロウなエリートの世界にも、常に新風を吹き込む存在としてヤンキー的なものは意識されている。フランスなどでは特にそうだが、文化的なものだけでなく実業的な世界にも新風を吹き込むのはそういう存在だったりすることはよくあるわけだ。というか、エネルギーが枯渇しがちなエリートの世界にあって、常に新風を吹き込むのは「成り上がり」の存在であるわけで、「マイフェアレディ」のような成り上がり物語は世界中どこでも人気を博すのは世界中どこでもそういう(広義の)ヤンキー文化が基調をなしているからだろう。歴史的な例を一つ上げれば帝国陸軍の世界が典型的な(広義の)ヤンキーの世界で、強固な戦友愛と苛烈な暴力の世界であったことは言うまでもない。

しかしこの激しいヤンキーの世界にはいたたまれなくなる人も少なくない。愛と暴力の世界だから、上手くやれると楽しいが、激しいじめの対象になったりするとこれはきつい。そこから逃避して形成されるのが「おたくの世界」ということになる。おたくはもともと内向的な人が多いと思うが、一つには好きなモノへの強い偏愛が大きな特徴であろうと思う。愛と暴力の世界から逃れてきたわけだから、そういう暴力的なさまざまな要素を強く拒絶し、自分の殻に閉じこもるそういう意味での「強さ」を持ち、自分と趣味と考え方の衝突しない人たちだけとの間でコミュニケーションを取る。おたくの方が実は普通に生活している人より活動的だとよく言われるが、おたくはイベントには必ず行くような強い性向を持つ人が多いからだろう。そこでは自分の好きなモノに囲まれて自分の好きな話だけしてればいいという無上の幸福に包まれている。現実を直視さえしなければ。だから、「おたくの世界」の最大の特徴は「平和」だということになろう。戦後日本の平和はこういうおたくっぽい匂いが強いわけだが、日本人全体がある意味おたく化したことによって日本が平和化したという側面は確かにあるのではないかという気がする。

まあしかし何もヤンキーの世界からの脱出を図るのはおたく化するという手段しかないわけではなく、地方出身者には『東京に行く』という選択肢もあるわけだ。(このへんは中島みゆき『ファイト!』に歌われてたりする)東京でヤンキーの世界から抜け出そうとするのはまあそれなりに難儀だとは思うが、地方出身者には東京に行って「広義のエリートの世界」に入るという選択肢がある。いや、東京出身者だってないわけじゃないけど。まあ私ももともと子どものころは東京育ちだということもあって、近畿の片田舎のなどのヤンキー文化にはもともと拒否感が強かった。だから中学生のころなどいろいろなトラブルに見舞われたし、それゆえにマグリットの絵画などに出会って強く感動したりもしたのだと思う。「こういうものに近い世界に行きたい」というのが、10代後半の自分の強い生きる動機になっていた。だから勉強するというそのこと自体が楽しかったし、必ずしもうまく行ったとは言えないにしても大学に入ったときには夢の世界に来たようだった。

予感(紙ジャケット仕様)
中島みゆき
ヤマハミュージックコミュニケーションズ

「広義のエリートの世界」の原理は「知識(教養)」と「権力」と「金」、それに「洗練」ということになると思う。昨日書いた「知識人階級」というのは、この「広義のエリートの世界」の一部分を形成するということになろう。「権力」に関わる政治家や官僚、弁護士や医師、その他たくさんの公務員などもろもろの人々、それに「金」に関わる企業家や実業人、それに膨大な企業人。「知識」に関わる大学人や文化人、そしてその末端に連なる教育関係者、を全部ひっくるめて「広義のエリートの世界」ということになろう。もちろんその中には歴史的に「高貴な血をひく」人たちも含まれているし、成り上がりもいるが、一番多いのは成りあがって二、三代目、特に「東京に出て来て二、三世代目」という人たちではないかという気がする。

そういうすべてのものがきらめいて見えるのが「エリートの世界」だが、私などは権力とか金とかはよく分からないので知識や教養、それにセンスや洗練というものに強い憧れを持った。成り上がると次に人は文化を求めると言うが、私は最初から成り上がる気もなくて文化を求めたわけだなと思う。当然ながらエリートの世界には上昇志向の強い人が多いけれども、それをあからさまに表現することは「洗練」に反するわけで、そこでもやはり愛と差別のゲームが展開されているわけだ。結局まあ、エリートの世界というのも金と権力の世界、それも本質をさかのぼれば愛と暴力の世界になるわけで、それがよりシステムを備え、洗練された形でヤンキーとおたくという下部構造の上に乗っかっているにすぎないともいえる。

ああ、一気に書いてしまったが、要するにこういう世界がこの本を読んでいるうちに眼前に巨大に立ちあがってきたわけで、なんだか気分が悪くなってきてしまったというわけだ。この世に生きるということは辛いことだね。なんて思ってみたりもする。

まあしかしこのつらい世界のあちこちに美しいものが潜んでいるわけで、だから人は気を取り直して生きて行くことができるのだろうと思う。ヤンキーの世界には「純愛」が、おたくの世界には「絶対平和」が、エリートの世界には「理想」が最も美しいものとして存在する。そのそれぞれは幻想かもしれないのだけど、人の心に存在することは可能なわけで、だからこそ人は生きて行くことができるのだし、大切な人を失ったときに、失われたものはそういう言葉で表現されるのだと思う。

ああ、感想からかけ離れてきた。このあたりは第4章と終章を読んでの感想というか考えたことになる。

佐々木が言っているのは、つまりは今までの「マスメディアの時代」は「エリートの世界」が指し示す「記号」(メルセデスとか、アルマーニとか)を憧れの対象として示し、自分の「段階」に応じて消費させることで強い吸引力を持ってヤンキーをひきつけて消費をさせようとしていた(おたくは逆にそれに反発する側面が強かったと言えなくはないが)わけだが、電子ブックの時代、つまり情報がアンビエント化する時代にはそうはいかず、地方は地方のままで、おたくはおたくのままで、ヤンキーはヤンキーのままでそれぞれの生息域(ビオトープ)に応じた書籍(商品)が得られる時代になって行く、ということだろうと思う。それは決してタコツボ化ではない、と佐々木は言うのだが、こんなふうに考えてみるとタコツボ化の危険はないではないなあと思う。

まあ今までだって決して理解し合えない人々、理解し合えない階層対立のようなものはないわけではなかったのだし、アンビエント化によって今まではつながりえなかった地域を超えての交流が可能になるという点では発展性は出て来るだろうと思う。まあそこまでは考えられるのだがそれ以上はどうもあんまりよくわからない。

まあ全体をまとめていえば、佐々木の分析はなるほど鋭いと思うことが多く、また事例も(特にケータイ小説関係で)今まで考えたこともなかった知見も多く、そういう意味ではすごく参考になった。しかし自分が地方のヤンキー世界が嫌で東京に出たというトラウマを久しぶりに思い出させられたし(笑)、何か人間の「業」の構造を久しぶりに考えさせられて参ったなあというのも正直な感想だ。しかしまあ読んでみて、自分が何に目を塞いでいたのか分かったし、それは意識することが必要なことだっただろう。このヤンキー世界の考え方とかセンスとかは、そういうものに中学時代を中心にかなり晒された私には結構根深い影響を及ぼしているところがあって、そこはある意味で近親憎悪的になる部分ですら皆無ではないのが辛いところだ。もともと子どものころの私にはおたく的傾向もあるし、その両者ともなんかいやだなと思うのは、自分の嫌なところを見ているような気がするからだろう。かといって若いころにはけっこう純粋に憧れた知的な世界も大人になればどんどんメッキがはげて見えるわけで、結局は構造の中に自分のよりどころを探すのではなく、自分が美しいと思うものによりどころを置くしかしようがなくなっていく。

私が小説を書くというのはそういう意味で自分が美しいと思うもの、自分自身が信じられるよりどころをどこに置くのか、ということを模索したり、確かめたりする作業だということになるし、たぶんそれはあらゆるアーチストがそういうことをやっているのだろうなとも思う。

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