迷いとか不安とか/商業と商業主義

Posted at 11/01/27

ここのところ、午前中落ちている時が多く、ちょっと困った状態だなと思う。私にとって一番生産的な時間は朝から午前中なので、その時間に集中してものを書きたいと思うのだけど、書こうとするといろいろ迷いみたいなものが出て来て、集中できない。迷いとか不安とか、そういうものがいろいろ。

今日は朝モーニングページに、そういうことをいろいろ書いてみたりして、7時半に朝食。母が東京の病院に行くので駅まで送り、そのあと職場に出て資源ごみの処理その他。帰りにモーニングを買って自室に戻って読む。今週「ピアノの森」が休みで、「宇宙兄弟」が意気が上がらない話。「ジャイキリ」も山形の話が中心。先週始まった「老人賭博」も先週のようなドライブ感はない。何か全体に読みたいと思わない話が多くてアレだった。「もーたま」も達者だとは思うがどこかで見た感じだなとも思ったし。よかったのは「氷上のセイリオス」かな。花形満みたいなお金持ちのお坊ちゃんの天才スケーターというベタなライバルが現れて少し唖然としたが、あいかわらずそういう「金持ちの天才」をライバル視すれば話として何とか成立するという風潮が日本にはあるのか。通常と違うのはこのライバルも相当変人らしいということ。いきなりライバル対決のための特訓がはじまるという考えてみたらこれもまたベタベタの展開だ。これを2011年のモーニングで本気でやろうというのが面白いんだろう。そういう意味ではベタな恋愛マンガをオタク女子というフィルターを入れることによって成功させた「海月姫」と似た作戦なのかもしれない。確かに期待感は高まるわけで、スポ根の遺伝子はいまだに健在だということはあるんだろうなと思う。まあ根性論でなく哲学だ、と言いかえたりしているけども。

それから久しぶりに『コミック乱』を買った。立ち読みで済ませようと思ったが、今月号で橋本佐内と吉田松陰が斬首になっている。記憶に残らざるを得ない場面と言うべきだろう。明治維新、長州藩の倒幕運動の本当のスタートはここからだよな、といつも思う。

ジャイアントキリングを起こす19の方法
岩本 義弘,田中 滋,岡田 康宏,是永 大輔,川端 暁彦,土屋 雅史,北 健一郎
東邦出版

ぐずぐずしながら、それでも小説の続きを少し書いて、11時半ごろ気分転換に出かける。ツタヤで『千と千尋の神隠し』を返却し、『ジャイアントキリングを起こす19の方法』(東邦出版、2011)を買った。何というかリスペクト本?という感じの本だが、ジャイキリ読者にとっては一定面白いと思う。ジャイキリは連載でも単行本でも熟読しているので新しい発見はあまりないにしても知っていることをなぞって行くという楽な快感はある。水戸黄門の印籠的な既知との遭遇という快感。それに加えて、サッカー界でのさまざまなエピソードが交えられて行くとともに、登場キャラクターのモデルになった選手がこの人なのかな、というのが出てきたりして、それも面白い。

車を走らせてもう一つの書店へ。マンガや書籍を見ながら、つい「商業主義」という言葉が浮かんで何となく白けて買えない、という現象が起こった。そういえば商業主義、という問題について今までどのくらい考えてきたのかな、と思う。この問題について書き始めるときりがないのだけど、結論としては、「商業」自体に問題はないんだ、と思った、ということだ。ものを仕入れ、売るという商業がなければ、人間生活は成り立たない。貨幣経済システムと資本主義システムと、またそちらの方も考えて行けばいろいろアレだが、日常レベルの掘り下げ方で考えても、商業それ自体に問題があるわけではない、ということは言えると思う。問題は「商業主義」、それも「行き過ぎた商業主義」に問題があるということだろう。「行きすぎた商業主義」というか、「近視眼的な商業主義」と言ってもいいか。労働者を使い捨てたり、制作者を使いつぶしたりするような長期的な戦略に欠ける、いわば「投機的な商業主義」が問題なのだと考えるべきだと思った。

消費者としても、生産者としても、自分がイニシアチブを取れる側面であれば、それに乗るつもりは全然ないのだが、そのシステムに参入して行くときには必ずしも自分のやりたいようにやれるわけではない。だからしばらくは、そういうシステムと付き合いながら少しずつやり方を変えていくようにすればいいのだと思う。

公務員(公立高校教員)時代は逆に言えば「非商業主義」的なシステムに辟易していたことも思い出す。民間経済の世界ではどんなやり方でも経営が上手く行っていればよし、上手くいかなければ変えなければならないという厳然としたルールが貫徹しているわけだけど、無風状態の公務員の世界では政治や行政からの押し付けくらいしか変化する動機がなく、既得権に安住している人々の状態を変えるのは非常に難しい。それに比べればはっきりしたある意味客観的な基準がある世界はフェアだとは思う。もちろんそんなに単純なものではないことは承知しているが、まず第一には、ということで。

まあ不満とか迷いとかそういうものはたくさんあるけれども、ものを書いていこうとする限り、そういうものが消えてなくなることはないだろう。いや、生きている限り、それが「不満」とか「迷い」とかいう名前で呼ばれなくなっても、「問題」とか「課題」とか「懸案」とかが消えることはあり得ない。そうであるからこそものを書く意味があるわけなのだから。

なんていう結論を出してみると、少し気が楽になったような気がする。ぼちぼちやろう。いずれにしても人間はそういう「モノゴト」に取り組んでいく一生なのだから。

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