自分の中にある書くためのものさし/私が信じられるもの、私が信じられないもの

Posted at 10/11/15

今日も朝からモーニングページを書いた後、小説をずっと書いていた。自分でも思いがけない展開がどんどん思いついてきて、最初に思っていたのとなんだか全然違う小説になって来た。自分の中の内側にあるほのかな光を頼りにものを書く作業というのは、自分の知らなかった自分のようなものを古い書庫の中で探すようなものだなと思う。自分の中に在る古文書を解読することで、その物語の意味を知っていく。そのときどこに何が現れるのか。

ハウルの動く城 [DVD]
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

昨日の帰り、ツタヤによってブルーレイの『ハウルの動く城』を借りようと思ったのだけど、でていないようだったので普通のDVDを借りた。一度見たものを何度も見ようとするのは、それだけ自分の中で見たいと思う気持ちが起こってきたということで、以前は半ば勉強のために見ようと思っていたのだから、かなり根本的な変化が自分の中で起こっている。昨夜は小説を書いて、そして『ハウルの動く城』をみて、結局寝たのは2時半頃だった。起きたのは7時過ぎ。朝もモーニングページを書いた後小説を書き始め、ご飯を食べながら「生活ほっとモーニング」のもやし特集を見て、生で食べたらいかんということを知り、また小説を書いて『ハウルの動く城』の後半部分、「ハウルの子ども時代」からあとの部分を見た。結局、ソフィーがもう老婆に戻らなくなったのは、空襲を受けてる途中なんだよな。ああいう心のありようが年齢的なものになって現れるという描写は面白いなと思う。それから、最初に見たときは「家族」というテーマにひきつけられてみたのだけど、今回は「恋愛」というテーマにひきつけて見た。ハウルの子どもの世界での運命の出会い、というところを前回はなんとなく見たので、今回はそのへんをしっかり見たという感じ。やっぱりこのソフィーというキャラクターは、女性像として最も強く惹かれるものがある。ということは前も書いたか。

小説に関しては長い間試行錯誤が続いていたのだけど、ようやく何か見えてきたものがあって、それは結局私の場合、「面白いものを書こうとして面白く書く」ことに尽きる。そのためには、どういうものが面白いか、という創作の上でのものさしが確立していなければいけないということで、これはそんなに簡単ではない。読む上でならバラエティ豊かな物を楽しむことは可能だけど、書く上では自分の書く、こういうことは面白い、ということを信じて書けるものさしを、一つ確立するのもそう容易ではない。そして一つが何とか書けても、二つ目はまたそこから新たに書きながら探さなければならないわけで、これはこういうことが好きでなければやはり出来ないなと思う。そして、私は書きながら、そういうことが好きな自分というのをどんどん観察する機会が多くなってきていて、ああやっぱり好きなんだなと思うのだった。小説を読むのが好きということと、小説を書くのが好きということは、一人の人間の中で一致する場合はもちろん多いだろうけど、本来違う行為なんだと思う。今私は、「こういうものが面白い、という感じ」を取りもどしていて、何かを見るとき読むときも勉強のためでなく見たいから見られるというようになって来た。それが嬉しい。

昨日丸善を歩きながら思ったのだけど、実は私は文化的伝統とか、学的世界というものを、案外あんまり信じていない、信用していないということに気がついてきた。もちろんそういうものに対する憧れのようなものは昔は強くあったし、そういうものは今だってそんなに嫌いじゃないけど、自分がその中で生きる、つまり学的世界、文化的伝統の中の一ページとして生きても悔いないというか、むしろその一ページを飾ることを誇らしく感じるとか、そういうことはないんだなと思った。そういう部分が実はないから、結局学者にはならなかったしなれなかったんだなと思う。教師として職業生活をまっとうできなかったのもそういうことなんだなと思う。

自己信頼[新訳]
ラルフ・ウォルドー・エマソン
海と月社

私は結局、エマソンの言うように、自分の内側のかすかな光を大事にして、それを大きくして表現する、そういう自由な立場でしか、自分の生を全うすることは出来ないんだなと思ったのだった。

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