村上春樹『若い読者のための短編小説案内』

Posted at 10/10/30

午前9時。台風が来ている。気圧はかなり低いんだろう。からだがだるい。雨がやや強く降っている。さっき、車を運転して職場へ往復したのだが、雨つぶが大きくてフロントガラスが少し見にくかった。右足の靴の底に濡れた砂がついていたのか、ブレーキを踏んだ時の感触がすごく滑りやすい感じがしてひやっとした。運転する時の足の感触というのはけっこう微細なところまで感じ取っているんだなと思う。濡れた砂が靴の底に少しついたくらいでそういうことは気になるのだ。でもまあ確かに、ブレーキを踏むときに滑ったらそれは怖いことだから、ちゃんと靴の底の砂を払うことは重要なことだと思った。雨の日には、いろいろなことに気をつけなければいけない。

今朝目が覚めて雨の音を聞いて、まず第一に御柱を昨日やってよかったと思った。この雨では今日はできなかった。朝から雨が降るという予想はなかったから、希望的観測で今日にしていたらちょっと困ったことになっていた。お稲荷様のご託宣だろうか。ありがたやありがたや。

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)
村上 春樹
文藝春秋

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫、2004)を読んでいる。これは村上がアメリカ滞在中、プリンストン大学で客員講師の資格で滞在していたために日本文学を講義することになって「第三の新人」について考えながら学生たちと読んだ、ということがこの本の成り立ちのきっかけになっている。この本の内容そのものは日本で出版社の社員などを生徒に見立てて話をして質問などを受けたことをまとめたものだが、アメリカで考えたことやその後に考えたことなども取り入れられているだろうと思う。取り上げられているのは吉行淳之介「水の畔り」、小島信夫「馬」、安岡章太郎「ガラスの靴」、庄野潤三(先日亡くなった)「静物」、丸谷才一「樹影譚」、長谷川四郎「阿久正の話」の6本。そのすべての作品を私は読んだことがないし、安岡は中学の教科書に出ていた「サーカスの馬」とナショナリズム論の対談本だけ、吉行は麻雀関係のエッセイ本や対談本だけ(これはどれも面白かったが、小説は少し読んで挫折した)、小島・庄野・丸谷は少しだけ読んで挫折して、長谷川に至っては名前も知らなかった、というラインアップだ。

それでもこの本を読んでみようと思ったのは、もちろん村上春樹に対する興味からだ。私は村上のよい読者ではないと思うが、『ねじまき鳥クロニクル』からあとの作品は多分小説は全部(短編も含めて)読んでいる。あ、「アフターダーク」だけは読んでないか。村上がアメリカ滞在の時にやった日本文学の読み直しというのはねじまき鳥以降の村上の作品にも関係してくる部分があるのではないかという気が少しあったということもあるし、何よりも私自身が実のところ日本の近現代文学に不案内だということもある。村上を道案内にして読んでみるのもいいのではないかと思ったのだった。

と思って読み始めてみると、これが予想外の収穫。文庫本のための序文が22ページにわたってついているというゴージャスな展開なのだが、これが「僕にとっての短編小説」と題されていて、村上自身が短編を書くときのスタンス、書き方、またレイモンド・カーヴァーやフィッツジェラルドの書き方について書いていて、これがとても参考になるし、自分の考え方とほとんど同じ部分があって、すごく勇気づけられたし自信になった。そういう意味ではこの部分は「見習い作家のための短編小説入門」みたいな感じで、すごくアイディアを出すのが楽になった感じがある。「短編小説を書くときには、失敗を恐れてはならない」というのもよくわかる。実際、小説を書き始めると思うのだけど、最初はうまく書ける内容など自分はほとんど持っていないということに気がついて愕然とする。だから必死に自分の書けるものを探して、そこを足がかりにして自分の書けるものを増やしていかなければならない。だからとにかくたくさん書かなければならないし、書くための材料をどんどん考えなければならない。そしてとにかく一作一作を書き切る。短編ならばその日のうちに書けることもある。直すのはゆっくり直せばいいのだし。そうやって一作一作作品を増やしていかなければならない。まあ口で言うのは簡単だが今まさに自分がそういう過程にあって、そういう意味で読んで励まされるなあと思うのだった。

そのあとに単行本版の「はじめに」があって、ここではプリンストンで講義することになったいきさつ、その時にどのような論点を持って臨んだか、ということが書かれているのだけど、つまりは「創作行為の中」にある、「創作に関わったことのあるものにしか分からない」「秘訣」、つまり「自分の中にある創作本能」をたよりにテキストを読みとり、これらの作家が「自我」と「自己」をどのように位置づけてやってきたかということを中心的な論題に据えて読んでいった、と述べている。だから、村上はこれらの作品を――これらの作品だけでなくすべてに対してそういうことになるわけだけど――読者や評論家としてではなく作家の立場で読んでいるわけで、その感じ方がやはり私にとってはすごく参考になるように思えた。

現在104/251ページ、吉行の「水の畔り」と小島の「馬」を読み、安岡の「ガラスの靴」に入っている。特に面白かったのが「馬」の分析。小島の話ってわけがわからなくて読んでいてすごく不快になってくる部分が多いのだけど、こういうふうに考えて読めば読めるかもしれないと思った。吉行の「技巧の世界で自分なりに生きていくしかない」という決意みたいなものが現れた(と村上が解釈する)「水の畔り」の読みも面白かったけど、「馬」の登場人物の分析、男の側に1・現世的な力と価値を追求する存在、2・男性的なセクシュアリティーの高みに立つ存在、3・現世に関わることを嫌だと思いながらそれを拒否することもできず翻弄される主人公、が出てきて、それに対する女の側に1の力に対して女としてコケティッシュにおもねり、2に対して妻のように従い、主人公に対しては母のように支配し、許し、受け入れるという構造から、どのように男と女が変容していくかが描かれている、というような解釈がなるほどと思った。つまりまあ、小島の主人公は私が一番嫌なタイプの男で、また一番面倒に思うタイプの女が描かれているということなんだなあと思う。それがわかれば逆に読めないことはないかもしれない。いや、無理して読む必要があるのかどうかは分からないけど、村上の解説を読んだ限りではこれは抱腹絶倒の爆笑話のようにも思えて、ちょっと興味がわいたこともまた事実なのだ。

まあそんなこんなで村上を読んでいる。雨は相変わらずやや強く降っている。

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