人が死んでいくプロセス/塩野七生『キリストの勝利』/文章のハードル

Posted at 10/08/30

土曜日にレベッカ・ブラウン『家庭の医学』を読了した。すぐに感想を書かなかったせいか、自分のなかでもうその「書きたい感覚」が消えかけていて書きにくいのだけど、肉親のがんの発症からその死まで、極めて個人的な体験でありながら誰にでも起こり得ることを淡々と、時にその淡々とした描写の裏の悲しみやとまどいを浮かび上がらせながら、最後に向かって書き続けた記録だと思う。

家庭の医学 (朝日文庫)
レベッカ ブラウン
朝日新聞社

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多くの場所で、私が父を見送った経験と重なる部分に出会う。痛み止めの副作用で吐き気が強くなり、吐き気止めの薬を処方してもらったら便秘になり、便秘を解決するために緩下剤を処方してもらい…と「何を飲んでも別の何かを飲む破目になる」という表現は、やはり父の場合もそうだったので(具体的な薬とかは違うけど)そういう感じはよくわかる。そしてそのことをレベッカはこういう。

それは、からだのあちこちが活動を停止しつつあるということでもあった。これがあの「死んでいくプロセス」なのだ…私たち自身はその言い方を使わなかったけれど。

今なら、ああそうか、そうだったのか、と思う。ただ、父を看病している過程では、そういうふうには思いたくも、考えたくもなかった。今だから素直にそう思えるが、「まさにそうなりつつある」過程の中でそれがそうなんだと言われたくはなかった、と思う。

私はたぶん、子供のころから死ぬということはやはり恐かったのだと思うし、だからなるべく死というものを合理的に考えようとしてきたと思う。それは科学的ということではない。自分で一番受け入れられる死のイメージ、それにどう対処したらいいのかということを、自分で捜したいと思っていた。もちろんそれは人間にとってとてつもなく大きなことだから、ここですべてを書くことは出来ないが、でもフランス革命時に墓に刻まれたという「死は永遠の眠りである」ということばとか、そういうイメージとして死というものをとらえたいという感じはあった。死というものを、感情ではなく、理性や知性で受け止めたい、と思っていたと言ってもいい。

もともと感情が働き出したら制御が利かなくなる部分があると自分でも感じていたので、なるべく理性でそれに対処するという方向に自分の気持ちが行っていたのだけど、だけど実際に祖父や祖母が亡くなったとき、自分が素直に悲しめないことになんだかよくないことだなと思った。父の死のときは――そう考えていたということは、つまりはかなり早い段階でそれを感じ取っていたということなんだなと今にして思うけど――、感情を閉ざすことなく父の死に対したいという感じがあった。理性的な言説、肉親の死に際して冷静さを保つことを求める言説を、多分私は意図的に排除していて、きちんと悲しむことを自分に課したと言ってもいい。それはたぶん、というか思った以上にそうなった。そして、それでダメージを受けた部分も確かに大きかったけど、悲しむことが出来てよかった、と思っている。感情のコントロールというものは、というよりも感情を抑圧するということが、しようと思えば出来てしまうし、また負荷のかかる場面でそれをしてしまうと抑圧したままの状態から戻れなくなってしまう、と私は自分自身に対して感じている。ブレーキをかけたらかけっぱなし、アクセルを踏んだら踏みっぱなし、になって、ちゃんとコントロールするということはどうも難しい。それはそばにいるのが私一人ではなくて、母がいるということも多分大きかった。自分の感情だけでなく母の感情のこともいつも考えていた。その理解が的確であったかというと、外れていることも多分多かったのだけど。

レベッカが書いている死の瞬間から葬るまでの過程は、私が経験したことと全然違う。そこに宗教も伝統的な公的な儀式も介在しない。火葬場には親族は誰も行かないし、待合室もないのだそうだ。帰ってきたときには骨というより灰になっている。日本より強い火力で焼くのかもしれない。その灰を母の友人がくれた壷の中に入れ、母の好きだった峡谷に兄や姉や自分のパートナーたちと出かけ、みなで少しずつ壷の中から灰を取り出して撒いて、最後に兄がその壷を峡谷の中に投げて、「そこを流れる水が、母を運び去った。」ある種の現代的な自然葬のあり方を実践したということになる。

私の父の場合、ひょっとしたら父自身はそういうことを望んでいたかもしれないとも思うが、結局そうはしなかった。良し悪しはわからないが、絶対そうして欲しいと考えていたとも思えなかったからだ。埋葬の形式についてこだわることは父らしくない、というふうに私が思っていたこともある。だからといって田舎における世間と同じ形式を踏襲したことがベストだったかというとやはり疑問も残るのだけど。レベッカのやり方が、ある種すっきりしているとも思う。でも、すっきりしてしまっていいのかという感じも、残る。そういう逡巡を重視しすぎるのもどうなのかなと思ったり、もするのだけど。

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それはそうと、訳者の柴田元幸の文章は達者なものであるのだが、最近なんだか違和感というか翻訳者としてのポリシーのようなものにちょっと「え?」と思うところがある。訳文を読んでいるときには感じないのだけど、前書きやあとがきを読んでいるときにその文章を語る語り口がどうも紋切り型過ぎる感じがする、ということだろうか。もっと内在的にその文章の読み方について思ってるところを語って欲しい感じがするが、そういうことを意図的に避けているのかもしれない。だから翻訳者としてというより解説者としてのポリシーに疑問があるということになるのかな。注をつけないとか紋切り型にまとめるということで読む人の調べたいという欲望を燃え立たせるという教育的効果を狙っているというならまあそれはそれでありかもしれないんだけど。そこまでは深読みしすぎか。

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ローマ人の物語 38 (新潮文庫 し 12-88)
塩野 七生
新潮社

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昨日は午後遅くに神保町に出かけ、マザーズでパンと蜂蜜を買ってすずらん書店など本屋を適当に見ていたら三省堂の二階で塩野七生『ローマ人の物語』の新刊文庫、「キリストの勝利(上・中・下)」38~40巻(新潮文庫、2010)が出ているのを見て買った。ついでに上の階で仕事の本を二冊買う。「ローマ人の物語」は毎年この時期に文庫が出る。店頭に並んでいるのをみると、「もうそんな季節が来たのか」と思う。2002年に文庫化が始まってから足掛け9年。それももう来年で終わりだ。時代も既にコンスタンティヌスの時代を通り過ぎ、その息子コンスタンティウス2世と甥のユリアヌス帝の時代。結局は東西分裂まで時代に含まれるようだが、今は39巻(中巻)の130/179ページまで。ユリアヌスとは、あの「背教者ユリアヌス」である。

ローマ帝国のキリスト教化という逆らいがたい流れに抵抗して失敗した人、というむしろ弱々しいイメージでとらえていたら、何かで調べたときにガリアやゲルマニアの戦線で赫々たる武勲を挙げていて驚いたことがあった。西欧世界ではキリスト教を捨てたというマイナスイメージの強い人らしいが、日本ではそのことは別にマイナスではないわけで、辻邦生が彼を題材にした小説の題名に『背教者ユリアヌス』とつけたのも、「背教者」という言葉の持つデカダンなイメージを取り込もうと考えたのだろうと思う。そういうこともあって、日本ではユリアヌスのイメージは割りと肯定的ではないかという気がする。塩野のタッチもそういう感が強い。

そのあと丸の内に出て夕食を買い込み、地元に戻ったら7時を過ぎていて、もう真っ暗になっていた。

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昨日もそうだが、今朝もなかなかブログを書く気にならなくて、一度書き始めた文章を途中でやめて別のものを書き始め、それも途中でやめて最初に書いていたレベッカのことを再度書いた。自分の書きたいと思ったことを書く、ということと、読んでもらうに値することを書く、ということを両立させるということ。気持ちが充実しているときはそういう課題に乗ることはそう難しくはないが、疲れを感じているときはなかなか乗りにくい。この話題なら読んでもらえるし面白いだろう、というものを書き始めてもそのとき自分はさしてそのことについて書きたいと思っていない、ということもある。そうするといったん書くのを中断して書きたいと思うことを書き始めるのだが、書いているうちにあまりにネガティブであったりして読んでもらうに値するかどうか、と思い始めて中断したりする。調子の上がらないときは、やはり書きたいこともネガティブになっているのだなと思う。それはそれで書くに価するものであると感じるものもあるからそういう時はいいのだけど、大体元気のないときは考えがちゃんとまとまっていないので、書いているうちに何が言いたいのかわからなくなってくる。ネガティブ毒に終わることを書いても自分にとってもプラスにならない、と思ったら結局書くのをやめる。

以前はそれでも書いていることが多かったような気がするが、最近そのあたりに関しては少しハードルを設けるようにしている。書きたいもので読んでもらうに値するもの。昨日テレビで見た海老蔵の言葉で「プロとは常に昨日の自分を越えようとしている人」、というのがあって、プロでなくても自分の言葉を人に届けたいと思っている人にとっては大事なことだなあと思った。今それが自分に出来る最大のものは文章だから、たとえブログの文章であってもハードルは少し高めにした方がいい。基本的に、「書きたいものを書く」ということで今までずっとやってきた。そしてそれはそのときの自分にとってはそれなりに高いハードルだったのだ。けれども、今はそれにさらにプラスして、読んでもらうに値するもの、ということを課す方が、自分にとってプラスになると感じている。「お金を払ってもらうに値するもの」というハードルを課すことがプロになるということだろうけど、読んでもらうに値するものという方が自分にとってはとらえやすい。ハードルを調整しながら、いろいろな文章を、毎日出来るだけ書いていきたいと思う。

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中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)
村上 春樹
中央公論社

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村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』、表題作読了。この作品はなんか面白い、というか好きだったな。「誇りを持ちなさい」と中国人の先生に言われるところとか。出てくる3人の中国人はみな親以前の世代が来日した在日中国人なのだけど、そのころの日本人にとっての中国人に対するある種のイメージをうまく代表しているなと思う。現代ではこんなのん気な小説は書けないと思うが、80年前後の総中流社会に生きる日本人の代表的な感覚と、それが幻想かもしれないという問題提起の書き方としてはまあありだなと思う。何というか今では、戦後を扱った風俗小説と同じくらい、懐かしい「あのころ」の精神的風景の点描というものになっているのだけど。

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