『クォンタム・ファミリーズ』:「尊厳と希望」を再分配すること/パラグアイ戦:日本代表の課題と可能性

Posted at 10/06/30

昨日帰郷。朝から東西線が止まっていてどうなるかと少し気をもんだが、ブログをかいていたら出るのがぎりぎりになってしまい、結局いつもよりほんの少しだけ早く出た。バスで門前仲町に出てそこで様子をうかがってから東京駅に出ようかと思ったのだけど、バスを逃してしまったので駅まで歩き入場したらちょうど電車が来て、結局いつもよりスムーズに大手町に出られた。まあこういうときというのは案外そんなものだろうと思う。昨日のどの時点で気がついたのか忘れたが昨日は仏滅で、そういう運の巡りの悪い日というのは気を回し過ぎるとかえって失敗することがよくある。いつも通り適当にやって、運の悪さは受け入れて対処しようという気構えの方がうまくいく。

この帰郷中に読むものを買っていなかったので、丸善丸の内本店で本を物色。色々考えたが、三島由紀夫賞を取ったということもあり、またツイッターでツイートを読んでいるということもあって、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、2009)を買った。それから東京駅丸の内南口の「大地を守るデリ」に行って弁当を買い、中央線で新宿に出て特急に乗る。

クォンタム・ファミリーズ
東 浩紀
新潮社

このアイテムの詳細を見る

さて弁当を、と思って食べようと思ったら、何と箸がない。「箸はいりますか」といわれて「お願いします」と言ったのだが、聞き間違えられたようだ。ちょっと考えたが、汁ものが全然なかったので、手づかみで食べることにした。インド方式。手づかみで食べると箸でつまむのとは違ってじかに重量感があって食べ物も新鮮な感じだ。まあしかし、隣の席に人がいなくてよかったけど。

というわけで無事に(?)昼食を食べ終え、『クォンタム・ファミリーズ』を読み始める。まだわずかしか読んでないが、色々考えさせられる。ちょっと読んだ感じでは、村上春樹の『スプートニクの恋人』を思い出した。最初に新聞記事見たいのがついているのがそういうことを連想させたんだろう。しかし『クォンタム』の方はWikipediaの引用とか、まあそういう現代的な意匠というか、そういうものを抜け目なく使っている感じで過不足なく現代のネットでのコミュニケーションを表現している感じもあった。主人公らしき人間のブログの記事の引用という形でカントの定言命法が引用されていて、それがいわばテロリズムの根拠になっているという構造を考えさせられた。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社

このアイテムの詳細を見る

カントの思想はどうも私にはよくわからないところがあってその理解が正しいのかどうかよくわからないのだけど、彼の道徳律というのは、人はその実現が普遍的に正しいと思うことと一致するように意志し行動しろ、というふうに言っているのだろうと思う。普遍的に正しいかどうか誰が決めるのかよくわからないが、ドストエフスキーはその「普遍的な正しさ」を自然科学のように「2たす2が4になる正しさ」だととらえていて、それに従うことを拒否している、という感じだ。まあ民主主義の理念とか、そういうものはこのカントの思想に基づいて基本的には正当化されているということなんだろうな。

私は中学生の頃、公民の授業を受ければ「民主主義はなぜ正しいか」が分かるかと思って期待していたら結局それが全然わからず、10代後半を通じて「民主主義はなぜ正しいかを理論的に納得したい」と思い続けていたのだけど、結局、「歴史的にいろいろな考え方があり、民主主義も一つの考え方であって必ずしも正しいとは限らない」という考えにいたり、「民主主義が正しい」という考え方自体を(少なくとも絶対的なものとしては)放棄するにいたった。それがなぜ正しいと社会的に広く受け入れられているのかということはその後もずっと謎で、少なくとも日本では社会的な同調圧力でそう思われているということにすぎないんじゃないかというふうに思っていたのだが、今カントの考え方を改めてとらえなおしてみると、世界的に見ればこのカントの定言、つまり仮定なし、条件なしの常に正しいものとしての原則、という考え方に基づいて民主主義というものが肯定されているということなんだろうなという気がしてきた。

実践理性批判 (岩波文庫)
カント
岩波書店

このアイテムの詳細を見る

アメリカに新カント派という哲学があるということはどこかで読んだが、なぜアメリカでカントなのかと疑問に思っていたのだけど、カントこそが民主主義の絶対的正しさを保証する思想家であるとするならばアメリカがカントを必要とするのは最もだろうと思う。

まあ「理性が認める普遍的な正しさ」なんていう世界の平板なとらえ方はやはり多くの思想家に不評で、ドストエフスキーだけでなくニーチェもキルケゴールもハイデガーも反発した。しかし確かにそれらはアンチテーゼであって、カントこそが現代社会構造の根本を支えているという東の指摘は正しいのだろう。

そしてそれが現代においてはいわゆるグローバル資本主義、つまり「帝国」こそが「普遍的な正しさ」であり、市場は世界に「近代的主体/自己責任/倫理的ガバナンス」という普遍的立法を押しつけている、というわけだ。それに反発するという意味では、ドストエフスキーもテロリストも変わらない、というのが東の主張で、そういう意味では相撲協会の前近代性もまたテロリストの側なのかもしれない。世論あるいはマスコミが相撲協会に押しつけようとしているのがまさに「近代的主体/自己責任/倫理的ガバナンス」であるからだ。

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性
アントニオ・ネグリ,マイケル・ハート
以文社

このアイテムの詳細を見る

エコロジーなどもまた、「帝国」の微温的相互補完的な運動にすぎない、というのが東の指摘で、「オーガニック」はどうなんだろう、と思ってみたりする。沢尻エリカの(元?)旦那はオーガニックがエコロジーと違ってグローバリズムをひっくり返す力がある、というようなことを言っていたように思うが、私にはまああまりよくわからない。

「いまや最も重要な問題は、富の再配分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分といってもいい。」という東の指摘自体は、全くその通りだと思う。秋葉原事件やマツダ事件など報道される自暴自棄な犯罪の多くは、「尊厳」と「希望」の枯渇こそが最大の原因だろう。そして「日本の子どもの自己評価・肯定度の異常な低さ」というのも同じようなことに起因するのだろうと思う。

「それを工学的にすくい上げるテクノロジーがある」という東の示しているテーゼはもちろん小説的な希望であって、逆説的に現代の状況の出口のなさ・深刻さを表現していると言っていいわけで、ここに彼の問題意識があるのだ、ということがはっきりと示されている。

現代科学における認識が陥った陥穽の最大の原因をつくったのはデカルト主義だということはずっと思ってきたが、現代社会制度における認識が陥った陥穽の最大の原因をつくったのがカント主義だというのは新たな認識だった。啓蒙思想の魔というべきだろうか。

小説はまだ27ページまでしか読んでいない。まあそういう思想的背景があるという前提で読み始めると、豪いことだ。その前提、思想的背景を示すことの可否ということを考えざるを得ないな。それなしで勝負するのが小説だという気もしなくはない。しかしこの小説が三島賞を取ったということは、文壇の主流――そんなものがいまだにあるかどうかわからないが――もこういう小説作法を認めたということなのかなとも思う。東のツイートを読んでいると三島賞の授賞式を巡っても相当な悶着があったようで、場合によっては新潮社から本が出せなくなることも覚悟して内情を暴露したらしい。そのことについてここで触れることは控えるが、やはり「文壇」がはぐくんできた既成の「小説家」の枠組がもはや「相撲協会の常識」のようなものにはなっているのだろう。そういう意味では東が「帝国」の側に立って「文壇を告発する」側に立っているような構図になってしまって何とも皮肉な気もしなくはない。

いや、この見方はうがち過ぎなのかな。でもまあ多分、東は村上隆ともツイッターのやりとりで共感しあっているし、「帝国」そのものを絶対悪とはみなしてはいないんだろうと思う。「バクマン」が引用されていてへえっと思ったが、つまりそれを現実として受け入れて戦うことからしか何も生み出せないと思っているということなんだろうな。

バクマン。 1 (1) (ジャンプコミックス)
小畑 健
集英社

このアイテムの詳細を見る

いやはや、こんなにこのことについて書くつもりではなかったのだけど。でもまあ、サッカーの結果についてぐだぐだ書くよりは生産的かもしれない。

***

と言いつつサッカーの結果についてもぐだぐだ書くのだが。帰郷後3時に職場に出て、10時まで仕事。帰ってきて夕食、11時からパラグアイ戦を見る。どうも今までの試合と違い、選手の動きが固いように思われた。それは90分で終わらず、延長やPK戦まで行くことを見越して体力を温存しようということなのかなと思っていたのだけど、どうも最初から攻撃が雑であったのは気になった。守備は相変わらず固く万全であるとは思ったが、攻撃がどうもさえない。パラグアイがすごく警戒したセットプレーも相当何度もあったのに、結局得点を決められなかった。パラグアイの守備ももちろんとてもよかったし、一人ひとりの個人技は彼らとの差はかなり感じた。ボールのキープ力という点では相当違う。日本はボールを得てもすぐに取られるパターンが多く、ワールドカップ本戦前のじりじりするようなサッカーに戻ってしまった感じがあった。後半から延長にかけて出てきた選手が、岡崎はそうでもなかったが、憲剛も玉田もどうも妙に「うまい」プレーをしようとしていた印象があり、今回の代表の「泥臭い逞しさ」とマッチしていない感じがあった。パラグアイと日本と、結局共通していたのはそういう泥臭さだったと思うし、その泥臭さに徹しきれず、最後のところで日本がセンシティブになってしまったことが敗因だった感じがする。

全体的に見て、守備は文句なかったと言っていいと思う。4試合で2失点。川島も、最後のPKを一つも止められなかったのは悔いが残ると思うが、向こうのキーパーも結局一つも止めてない。駒野はクロスバーに当ててしまったのだから。そういう意味では互角で、結局は攻撃が今一つだったということになる。4試合で4得点というのは今までの日本代表とすれば上出来といえなくはないが、やはり満足のいくものではないだろう。特にパラグアイ戦は前半の雑な攻撃と後半・延長の「ゴールへの意志」の不足というものを感じた。たらればだが、最初のFK、遠藤でなく本田に蹴らしていたらどうなったかと思う。どっちみち遠い距離だったのだし、あそこは本田の勢いに賭けてもよかったような気がする。後で一度本田も蹴ったが、「最初の一本」が肝心ではなかったか。まあもちろんたらればなのだが。

それにしても、今回の日本代表の躍進は、岡田監督の、チームと戦術を総とっかえするという直前での驚きの決断と、それを可能にしたチームとしての団結力の強さ、そしてその核にいた本田の存在と、色々なプラス面を見せてくれて、日本が日本のサッカーをするためには何をしたらいいのかということを多く見せてくれたと思う。

それは多分、われわれ日本人のコレクティブな力というものを示してくれたということだし、それが十分世界に通用するということでもあったと思う。そしてやはりまだまだ足りないのは個人の一人ひとりの力だった。しかし、今回はチームワークを前提としつつ指揮官と選手に強力なリーダーシップを取りえる存在が生み出されたということで、日本がこれから何をしていけばいいのかということが見えたように思った。

オシムのツイートを読んでいると、やはり応援する側もサッカーに対する知識をより深めて行き、より最前線のサッカーを日本国内のチームにも求めて行くという姿勢が日本を強くするんだろうなと思った。野球がWBCで二連覇出来たのは、やはり日本人が野球というものをよく知る国民だったということがかなり大きいと思う。まだまだサッカーは野球に比べれば認知度が低い。私も最近戦術やゲーム運びの考え方などについて、「ジャイキリ」のおかげが大きいが、だいぶ理解できるようになってきたので、より多くの国民がそれを知り、またJリーグでも他のチームにもより素晴らしいプレーに対する要求を突き付けて行くことで、より強くしていけるのだと思う。ワールドカップの時だけ、代表が結果を出しそうな時だけ応援するのではやはりサッカーは強くはならないだろう。まあ、その割には本当にずいぶん日本のサッカーは向上してきているとは思うんだけど。

これからますます日本のサッカーが面白くなって行くことを期待しつつ。本日は筆を置こうと思う。

***

ああああ、それにしても、おわってしまった。つまらーん!次回は最後まで日本サポーターが楽しめる展開になってほしい。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday