100%妄想/固定化された世界像の更新 など

Posted at 10/06/22

昨日の今日だが、今日は更新できそうなのですることに。昨日は一日中ほとんど寝ていて、さすがに疲れはだいぶ取れた感じがする。完全に十分だとはいえないのだけど。

土曜日に上京。なんだかつかれきっていて大変な感じだったが、夜と日曜日の朝に金曜日に書いた分の小説を清書。これがだいぶ疲れに拍車をかけた。それでもせっかくの在京時間を無駄にしたくないと午後は神保町に出かける。いくつか本屋を回って立ち読みをしたがあまり買いたいと思うものがなかった。でも、何というか、小説というのは結局、100パーセント妄想というか、空想の産物なんだなと改めて思ったりした。小説というのは他の種類の本に比べて現実に依拠している割合が少ない。小説以上に現実に依拠していないのは宗教の本とかある種のトンデモ本くらいのものだと思う。それが面白いのはその妄想が豊かであることが第一の条件だろう。村上春樹の『1Q84』とか『ねじまき鳥クロニクル』とかなど、完全な妄想の産物なのだけど、やはりそこに村上が指し示そうとする何かがあるわけで、それが豊かかどうかというとちょっと首はひねるが、その妄想の持つ時代性というものに意味があるとは思う。

三省堂の前の古書即売みたいなコーナーで立ち読みしていていろいろ考えたのだが、私が小説でないいろいろな本を昔からたくさん読んでいたのは、要するに「解釈の冒険」があるものを読むのが好きだったんだろうと思う。いろいろな固定観念で語られることが多いものについて、新しい光を当てこういう風にも考えられる、本当はこうだったのかもしれないという視点が固定された世界像を更新する上で常に新風を吹き込む、世界を活性化するものに感じていたからだと思う。自分も学問の世界でやりたかったことはそういうことだったはずなのだが、完成度の高い分野でそれをやることは物凄く大変なことだということがやってみてわかった。結局、とても「固定化された世界像の更新」までは至らず、固定化されているように見えた世界像がいかに複雑に構成されていて「未決定」のままの部分が多いのかということを知ったに過ぎなかったように思う。特に私が取り組んだフランス革命など、なんだかずぶずぶの泥沼のようなもので、参照可能な史料を読むだけで一生を費やしそうな分量がある。何というか、「書きたいこと」がはっきりと先にあって、現実の史料にあたる中でそれを豊かなものにしていく、という方法しか取り組みようがないように思われた。結局現実的な条件、すなわち自分の語学力と持ち時間の少なさという二点において、このまま取り組んでいっても十分なレベルまでやれないということが明らかになったので、撤退することになった。

その後どうも、しかしやはりそれは挫折だったので、何というかペシミスティックになっている面があるんだなと思う。80年代は演劇に取り組み、自分でやれそうなこと、やりたいことに対して何でも一線でやろうとしてどれもこれもがんばったのだが結局がんばりすぎてどれも思ったような結果を得ることが出来ず、それでこの10年間の沈滞に至ったんだなと、自分の人生の見方を少し変えた。90年代は辛かったが頑張ってたことは確かで、それは否定することばかりじゃない。得るものは少なく失ったものは多く、健康も身体的にも精神的にもかなり損なったけれども、とにかく一線でやりたいという気合はあった。

2000年代の沈滞というのは、言葉を変えていえば試行錯誤の時期だったということだ。以前ほど本を読まなくなったし、本を読むときのわくわく感がなくなっていた。以前と変わったことはフィクション系にシフトしたということだ。詩を書いたり小説を書いたり、いわゆる創作系に。自分の創作の世界への足がかりは80年代以来演劇だったから、詩や小説というのは正直全く素人から始めているのでなかなか一線で勝負するものにまで至らない。しかし至る至らないというのは内容の問題というよりは気合の問題なんだなと最近思う。自分の書いたものと似たようなもので芥川賞を取った人だっているし、とにかく一線でやるんだという気合が一番大事なんじゃないかと思う。

まあ何というか、次元はともかく、それは日本代表のサッカーのようなもので、世界の一線であるオランダやブラジルをリスペクトし過ぎてはいけない、というオシムの言葉と同じような部分があるような気がする。

とにかく、一線でやれるような文章を書いていかないといけないし、いけると思うことが大事なんだと思う。

蘇我氏四代―臣、罪を知らず (ミネルヴァ日本評伝選)
遠山 美都男
ミネルヴァ書房

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で、買ったのは遠山美都男『蘇我氏四代』(ミネルヴァ書房、2006)と吉本隆明・辺見庸『夜と女と毛沢東』(文春文庫、2000)の二冊。飛鳥時代に関しては子どものころからずいぶんたくさんの本を読んできたが、どうもよく頭に入らず、いちばん入っているのは間違いなく『日出処の天子』だという体たらくなのだが、久々に読むとマンガの中の場面をいろいろ思い出しつつ記紀にはこう書いてあったのかとか、こういう解釈が現在の学界では主流なのかということが少しは分かって面白い。結局、歴史というものを生き生きと解釈するのはフィクションをおいてないんじゃないかという感じはやはり持つ。もちろんそういう考えは史学会では受け入れられないんだけど、読書界的な見方としてはそういうのもありなのではないかと私は思うのだが。

夜と女と毛沢東 (文春文庫)
吉本 隆明,辺見 庸
文藝春秋

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『夜と女と毛沢東』は、妄想好きの二人のおじさんがいろいろなことを勝手に解釈して喜んでいるという感じの本で、その当たりが面白い。最初は毛沢東の私生活の暴露本の読んでの感想の言い合いなのだが、まあそういう意味でもろに固定された世界像の更新、ないし瓦解という感じで、そういう意味での面白さを久しぶりに思い出した。今結局問題なのは、固定された世界像自身がもう存在がある意味危なくなっていて、それを守る原理主義とそれを倒そうとする原理主義の闘争という局面になっている部分が多く、どうもあまり面白くない。学問というものにどう付き合っていくのかということは、ちょっと考えなければならないことだと思う。

月曜は完璧に疲れが出て、もう今日は本当に何もしない日にしよう、と決意して寝ていたら友人からお誘いのメール。せっかくなので少し考えたのだがやはり今日は休まないとだめだと思い、断る。なんていうか、普段いつでも合えるわけではないのでこういう機会を逃すことは残念なのだが、まあ仕方ない。3時ごろまでほとんど意識があったりなかったりの状態で、3時過ぎになってさすがに寝すぎた感があっておきだし、6時前になって日本橋に出かけた。もう完全に試運転という感じですごくゆっくり動いた。東陽町で占いの本を立ち読みしたらわりと積極的な卦が出たということもあったのだけど。丸善でいろいろ立ち読みし、結局へえと思った蓮村誠『白湯 毒出し健康法』(PHP文庫、2010)を買った。

白湯毒だし健康法 (PHP文庫)
蓮村 誠
PHP研究所

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白湯というものは以前から身体にいいんじゃないかとは思っていたのだけどその根拠があまりよくわからず、その飲み方も具体的によくわからないのであまり飲まなくなっていたのだけど、この本はインドのアーユルベーダの立場から白湯の長所を紹介していて、大変興味を引かれた。帰ってきて書いてあるとおりにお湯を沸かし、飲んでみるとわりといい感じがする。まだ適切な飲み方を身体が理解しているという感じではないが、ちょっとやってみようと思った。

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