『オーガニック革命』

Posted at 10/05/06

このところ、寝室の窓のカーテンを閉めないで寝ている。朝、明るくなるのが早いので、早く起きられるかと思ってそうしているのだが、なかなかそうもいかない。今朝起きたのは6時15分だった。最初に目が開いたのはもっとずっと前だったと思うが、起きられない。起きられなかったらあんまり意味がない気もするが。そういえば昨日は立夏だった。一年で一番日の長い季節がはじまっている。夜明けが早いのも当たり前なんだ。

6時半ごろ支度して外に出る。散歩ついでにファミリーマートまで『モーニング』を買いに行く。先週は連休シフトでモーニングが出ない週だったので禁断症状が起こったが、まあ今日は余裕を持って。今日はこの地区が不燃物を出す日なので、朝から人が歩いている。そこここで花が咲いている。桜もまだ少し残っているし、海棠やハナミズキやそれにライラック。信州らしい花が咲き始めて、気持ちがいい。

帰ってきて『モーニング』を読む。表紙と巻頭カラーで「Giant Killing」。展開は予想通りだが、面白い。村越の反応がいいな。「Billy Bat」。思いがけない展開。そういうことだったのか。ここはビリーバットの街なんだ。「社長 島耕作」。曾烈生とのマッチアップ。「OL進化論」ノーホラーノーシネマ(笑)。「ルシフェルの右手」医療事務・佐倉の医者疑惑。「特上カバチ!!」まあ王道の展開か。「ラキア」。連載再開。「エンゼルバンク」。今週一番「意外に」面白かったかな。日本の大企業はITへの対応が遅れている。それは専門化しすぎたから、という話は面白かった。ホテルの従業員は一人ひとりがホテルを代表していると意識して行動する。という話も。これからはビジネスのルールがどんどん変わる、というのもそうだろうなと思う。というか、本当はもう変わっていて、対応できないところが多いだけなんだろう。『オーガニック革命』などを読んでいるとそう思う。会社が社員の仕事を決めてしまうと新しいルールに対応できない、とかも。

「神の雫」。新しい展開。一から出直し。「天才柳沢教授の生活」。落ちがさすがだと思わされた。でも吸入式の万年筆は私も愛用しているので気持ちはよくわかる。「シマシマ」。。閑話休題。「かぶく者」滅茶苦茶だ(笑)。マンガだからな。(笑)「呼び出し一」相撲のシーンが出てこないとこのマンガ、面白くならないと思っていたが、これからは期待できるかも。「西遊妖猿伝」粟特城の章が最終回。うーん、この章はなんだかよくわからなかったな。でもなんとなく、西域編の進め方を、作者自身がつかんだのではないかという気がする。今後に期待。まあこの章全体が、単行本化(6月らしい)の時に大幅に書きなおされるという可能性もある気がする。「miifa」ふうん。「N'sあおい」色葉の分析力。「女性企業家」の「悲劇」。この先をどう展開させるのか、なんか期待が高まる。「誰も寝てはならぬ」ようやく退院。でもまだ松葉杖。「クッキングパパ」。石臼。「東京怪童」封印出来てた気持ち。うーん。この人の作品はやはり期待を持たせるなあ…

今週のモーニングはもともと「ピアノの森」も「へうげもの」もない週だというのは分かっていたけど、「宇宙兄弟」も「バカボンド」もなかったのでやはりちょっと物足りなかった。よかったのは「エンゼルバンク」と「東京怪童」かなあ。

昨日帰郷。東京駅はまだ連休中の雰囲気。あたりまえだけど、子どもの日なんだから。本を6冊持って乗った。今週は田舎にいるのが木金土の三日間。どれだけ読めるか。やることもあるし。いま一番読む勢いがあるのが平野啓一郎『葬送』第二部上かな。とはいっても、昨日から進んだのはドラクロワと、ヴィヨ夫人とヴィヨとの会話の部分だけであまり進んでない。大谷由紀子『「ふくらはぎをもむ」と超健康になる」は一通り読んだので母にも勧めてみた。

ドラッカー 時代を超える言葉―洞察力を鍛える160の英知
上田 惇生
ダイヤモンド社

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上田惇生『ドラッカー 時代を超える言葉』。産業革命は、技能が体系化され公開されたことにはじまる、というふうに考えているのが興味深かった。なるほど。「工学」こそが近代に特徴的な学問だ、ということなんだな。考えてみたら当たり前というか、アダム・スミスだってそういうことに言及しているんだし、言うまでもないことなんだけど。しかし私自身がそういう認識にかけてるってことは、つまりそれだけ私自身が基本的に「ものつくり」に関心が薄い、ということなんだな。子どもの頃は、機械を分解したりラジオを作ったりするのが好きだったのに、なぜなんだろう。そういうものに興味が薄くなったことと、ファンタジーや歴史に興味が惹かれて行ったこととは関係があるんだろうと思う。実際に存在するものよりも、記憶であるとか想像であるとか、人間の頭の中の出来事の方に興味が惹かれて行ったということなんだろうな。私はあまり、現実的なことに関心がないんだ。手で触れるものとかへの関心が薄い。それよりもその奥にあるものとか、その中にあるものとか、そういうものに興味がある。リアルよりも、その奥にある本当のリアルとか、そっちの方に本当には気持ちが引かれているんだなと思った。だからと言って現実への対応があまり下手でも困るのだけど。

オーガニック革命 (集英社新書 526B)
高城 剛
集英社

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高木剛『オーガニック革命』。この本、思ったよりずっと面白い。イギリスで起こったオーガニックムーブメントについて解説している。ちょうど同時に持ってきた井形慶子『英国式スピリチュアルな暮らし方』と同じことが重なって書かれている部分がけっこうあるのだけど、高木の本の方が分かりやすい。「エコ」、「グリーン」が地球本位、環境本位の考え方であるのに対し、「オーガニック」は個人の生き方の問題、という説明は分かりやすいと思った。オーガニックであることは反グローバル主義であることでもあり、市場原理主義への異議申し立てであり、反社会的なことであり、同時にグローバル経済を否定し国産愛用を意味する愛国的なことでもあり、チャールズ皇太子をはじめとする社会の上層部もまた主導し、底辺の庶民の動きでもある、上下左右あげての動きなんだ、という指摘はまったく面白い。まあそういうこともあって、「オーガニック」は「スピリチュアル」とも重なってきて、この辺はヒッピームーブメントでのフラワーチルドレンやドラッグとのかかわりとも重なるところがある。ロンドンパンクの先鋭も、IT起業の最先端を行っていたハッカーたちも、いまはオーガニックこそが最先端だと言っているらしい。そういう意味で、欧米では今のオーガニックの動きというのは68年革命に匹敵するようなものだと受け取られているようだ。日本ではまだ全然そこまでの認識はないが、底辺から掘り起こされてきていることもまた確かだ。まだカルチュラルな側面が大きく、「生き方」の問題にまでは来ていないだろうし、ごく一部の「はまっている」人たちの話にすぎないと思われているだろう。

私も正直言ってこういうものは胡散臭く思っていた方なのだが、というか今でも結構眉に唾をつけながら聞いているところも多いのだけど、基本的にそういう「熱い」動きというのは嫌いじゃないなと読みながら思った。60年代後半のムーブメント、「スウィンギン・ロンドン」なんかを読んでいるとそういう熱い現場にいられなかったことが残念だなと思うけれども、まさに「オーガニック」こそが今の「熱い」現場であるらしい。

まあ日本は後発近代国家だから逆に近代主義に関しては原理主義的な姿勢が社会の指導層の中心にあって、それが新しいもの、近代を超えようとする動きに否定的に働いているのは68年当時からずっとそうなのだが、そういう原理主義的な近代主義の姿勢が高度経済成長をもたらしたこともまた確かで、それをまた韓国や中国が追随している。日本は古代性や中世性を社会の随所に残した国で、その上に近代原理主義がのっかってきて、近代原理主義はある意味古代性や中世性の掃討作戦をずっと続けているから、ポスト近代性のようなものもそこに反近代性の匂いが嗅ぎつけられると直ちに殲滅の動きが起こる。と学会とかニセ科学の撲滅運動とか、意味のないけれども妙に可能性を狭めすぎるのも面白くない。また古い近代性や組織合理性にこだわり過ぎて、IT時代になると技術と社会の変化にうまく対応できなくなったというのもその通りだと思う。

そういう意味で日本人は色々玉石混交の「オーガニック」には飛びつきにくいだろう。また「エコ」とか「グリーン」も学級委員長的な優等生倫理にしか感じられないだろう。というか、こっちの概念も「ガイア」とかアヤシイ概念がけっこうその根底にはある、と思う。そういう反近代的な情念主義が暴走するとシーシェパードとかになって、まあああいうのは迷惑なんだけど、「捕鯨こそがエコだ」とか「捕鯨こそがオーガニックだ」というテーゼを誰かが打ち出すことが出来ればわりと黙らせることは容易なんじゃないかという気もしなくはない。それについては日本の方が近代主義の側に立っていることは自覚しなければならないし、日本の方が暗黙の優越感を持っているのは、自分たちの方が近代的・科学的・合理的なんだと思っているからなのだけど、彼らはもはやその価値観を、そのテーマに関しては疑っているから議論はかみ合わない、のだと思う。だから、「非合理である」と主張しても、それは彼らの「正しさ」を否定することはできないのだ。

最近よく思うが、小林よしのりとかは本当に徹底的に近代主義者なんだよな。彼の書くものの魅力はそういうところにあるし、説得力があるのも、多くの日本人に訴えかけるのも、中国が脅威に感じるのも、そのためなんだと思う。軍事的に合理的な主張、愛国心の肯定、女系天皇公認論なども、全部その路線だ。彼自身自分がそうであるとは思ってなかったと思うし、模索の時間が長かったとは思うが、最近そういうことがますますはっきりしてきていると思う。

私も近代合理主義を全面的に否定する気はない、というかまあ空気のようにそういうものを呼吸していてあまりそんなに根本的に考えていないといえばいないのだけど、私の中にはやはり反近代性のようなものはあり、小林も元々はそういう意味で通じるものがあると思っていたので興味があったのだけど、逆に近代性のしたたかさとかその魅力を彼の著作にみるようになっているのもなんだか皮肉というか妙なものだなと思ってしまう。なんか小林よしのり論が長くなってしまった。まあつまり、彼は本質的に、近代合理主義国家・社会の「再建屋」として近代の終わりにある意味メサイヤ的な存在感をあらわしているのだと思う。彼の指し示す先に本当に明るい未来があるのかどうかは、一人ひとりの判断にゆだねられねばならないと思うが。まあそんなところにしておこう。

昨日は3時半から9時半まで仕事。休み中の臨時営業なので、かなり静かだった。ただ、結構ちゃんと取り組まないといけない問題が多くあって、休みボケの頭には結構来るものがあった。

あと、持って帰った本は先にも述べた井形慶子とヘッセ『メルヒェン』。それからこちらに置きっぱなしにしていたイビチャ・オシム『考えよ!』と折口信夫「死者の書」がある。「死者の書」は明日が図書館の返却期限なのだが、どうしたものか。少しは読んでおかないとと思う。

ああ、あっという間に11時が過ぎてしまった。

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