風の強い日のオープンカフェ/アンティークも売ってるブックオフ

Posted at 10/05/04

今、4日火曜日午後3時50分。みどりの日。家の中は、少し暑い。窓を開けて、少し風を通してみる。ようやく、初夏らしい気だるい午後の季節になってきた。

昨日。早く起きて早く朝食を食べ、そのせいで午前中、早い時間からおなかが空いたので、早い時間から昼食を食べた。12時過ぎに家を出て、丸善丸の内店で平野啓一郎『葬送』第二部上(新潮文庫、2005)を買う。でるときにヘルマン・ヘッセ『メルヒェン』(新潮文庫、1973)を持って出たが、『葬送』の続きを読みたいという気持ちも強く、二冊携えて出かけた。

葬送〈第2部(上)〉 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社

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保土ヶ谷で友人と会う。バスで桜ヶ丘に上り、保土ヶ谷公園のZaimカフェでお茶。オープンスペースで、セルフサービス。石川町のアネックスとはかなり違うが、センスはやはり共通するものが。外は青嵐。風が強く、私の席に鉢植えが倒れてきたりした。野点ての茶席を思わせる赤い大きなパラソルが時折大きく揺れていた。大きな木が生えていて、ZAIMというよりBAUMだなとなんとなく思っていた。友人も、どことなくドイツっぽいと言って、なんとなく意見が合った。散歩途中らしき人がちょうどいいや、という感じで次々に立ち寄ってくる。石川町のカフェは知る人ぞ知るという感じで隠れ家的でいいのだけど、保土ヶ谷公園のほうはオープンな感じで全然違った。ただ、自分の精神状態があまりオープンマインドな感じではなかったのでなんかその場にそぐわず、それはまあちょっと残念だった。何も気にかかるものがなければ、けっこうよかったとおもうんだけど。

保土ヶ谷に戻り、大船まで電車。車中、ヘッセの話などする。いや、バスの中からドラッカーの話とか、最近自分が考えていることをいろいろ話していたのだが。大船のブックオフへ。ここのブックオフは、そういうところは初めてだったのだけど、本だけでなくいろいろなものの中古品が売られていた。ウェッジウッドのデミタスカップが一客3000円というのがあって、これはいいなと思ったけどまあ買わなかった。友人が本を物色している間、私は併設されているカフェで本を読み続けた。

今まで『葬送』にはあまりはまってなかったのだけど、昨日今日はどんどん読んでいて、今は202/457ページ。『葬送』って多分、『1Q84』に匹敵するくらいの長さがあると思うのだが、けっこう読んでいる。でもまだ全4巻の7割は行ってないかな。しかしショパンとサンドが破局したあと、どういうストーリーが続くのか。今読んでいるのは1848年の二月革命の混乱をショパンとサンドとドラクロワがどのように潜り抜け、あるいは潜り抜けそこなったか、というようなくだり。その直前に、輝かしいばかりのショパンのプレイエル社でのリサイタルの描写が延々80ページくらい続くので、それへのギャップの激しさと、ショパンやドラクロワが感じた落胆というものが感じられる。

私自身、7月革命は明るいイメージを持っていたけど、2月革命はどうもぱっとしない、暗い印象を持っていて、でも歴史学的には2月革命こそが真の変化の契機だと言うことになっていて、つまり自由主義の時代から国民主義の時代への変化、ブルジョアが完全に体制化し、ブルジョアと労働者の対立が時代の主調音となり、体制側に立ったブルジョアが国民的統合を強化して行って、挙句は19世紀末の帝国主義時代を招来する、その契機だと言うことになっているわけだ。まあ、このあとにフランスでは第二帝政が成立し、イタリア・ドイツの統一運動が激しさを増していくわけだからもちろんそれはそれでわかるのだけど、『革命』という言葉がロマンチシズムを失うのもまた2月革命だったのだなと、自分の「感触」を裏付けるものだなあと思った。パリの街中に築かれたバリケード、イラストではみたことがあったけど、実際にはどんな感じだったのだろう。また、オスマンの都市計画によって、どういう街路がどういうふうに変化したのか。そういうのも、実際にパリの街を歩いて見たりしないとぴんとはこないんだろうなあと思ったりした。

友人が戻ってきて友人の現況の話などし、いろいろああでもない、こうでもないといったりしているうちに、カフェに差し込んでいた午後の日差しは夕闇に変わり、春の夕暮れのいちばん美しい空気が少しずつ闇に沈んでいくのが感じられた。室内にいてもその美しさが分かるくらいだから、外をそぞろ歩いていたら、一層美しかっただろう。

帰りに、せっかく遠いところまで来たので、カフェに飾られていたアンティーク風ブリキのオモチャの車を500円で買った。大船の街は夜になっても活気があって意外だった。ブックオフの前の交差点が「松竹前」という名で、そうか、ここに松竹の大船撮影所があったのか、と改めて気づく。蒲田から大船に移り、新木場に移転する計画だったらしいが、頓挫したとwikipediaには書いてある。時代劇は京都の太秦で撮っているが、『釣りバカ日誌』は東映練馬で撮ったらしい。うーん。

スイカで乗ったから何も考えなかったのだが、大船から東京駅まで780円もかかって驚いた。東京-横浜が450円なのに。330円も高い。今ネットで調べると横浜-大船間が290円だから、一度横浜で降りたほうが40円も安かったわけだ。この当たり昔からそうだけど、JRの運賃設定はやや問題ありだと思うことがある。

メルヒェン (新潮文庫)
ヘッセ
新潮社

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ヘルマン・ヘッセ『メルヒェン』は今を去ること29年前、大学1年の最初のドイツ語のリーダーのテキストが『メルヒェン』所収の「詩人」で、その日本語訳の参考に新潮文庫を買っていたけど全然読んでなかったのだ。で、改めて読み出してみるとこれが面白い。いま「アウグスツス」「詩人」「笛の夢」の三作品を読み終わり、66/175ページ。ヘッセのメルヒェンは大人のための童話という感じだが、一つ一つが実に美しい。憧れと夢と、人生への諦念と、生と死と、しかしそのすべてを美しく歌い上げずにはいられないヘッセの詩人の魂のようなものを強く感じる。ヘッセも、伝統的な価値観の大陸にはおられず、かといってやたら新しいものを求める進取の精神、革新者の群の新しい大陸にもいられない、孤独なたましいであったことを感じる。その孤独や悲しみや苦しみが自分にも感じられるということは意味のあることだと思う。自分がものを書く、書かずにはいられない原動力もまた、そうした大陸にはいられない、木の葉のような自らの船で人生という荒波を越えていかざるを得ない因果なたましいのあり方そのものだ、ということを、また友人と話しながら自覚した。

喜びのゆえに、愛のゆえにものを書く人、ものをつくる人がいて、それはそれで理想だと思うのだけど、自分はどうもそうではない。もし喜びや愛を自分が捕らえていたら、私はそれをいつくしみ、それを味わうほうに全力を傾けるだろう。でも、愛や喜びもまた、本当は苦しみや孤独とそんなに違うものではないのかもしれない。何かを作らずにはいられない人間の本能というものが、発揮されると言うことにおいては同じであるのだし。

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by Luke Peterson

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