私にとってのリアリズム/折口信夫の顔

Posted at 10/04/24

 どういう作品を書くかということを考え、今日はあらすじかあるいは場面構成を考えようと思って昨夜は寝た。そのせいか今朝は一つの場面を思い付き、その向こうにある人間関係を考え、それを書きとめようと思ったがどうもうまく書けず、結局小説そのものの書き出し部分を書くことになった。6時半ごろから書き始めて8時まで書き、一度朝食で中断して8時半から書き始めて11時半まで、一気に4時間以上書くことになった。ここまで書いてみると今まで書いてきた小説とはかなり傾向が違う内容になったし、このまま書き続けていいのかよくわからない。万年筆でA4の紙に細かい字で9枚書いた。清書してみて原稿用紙換算したら何枚になるか。昼食時間になったので一応終えたが、だいぶ頭の緊張があるし、また右腕がすごく重くなっているし腰もどうも変な感じになっているので、色々負担がかかったなと思った。

昔はリアリズムなんてかけらも考えずにものを書けたのに、最近は登場人物が何で生計を立てているのかということが妙に気になってしょうがない。自分にとってのリアリズムというのは、人が何で食べてるのかということなんだなと、妙な納得をする。そういうことにこだわるのは、私が「生計を立てる」ということについて考え始めてからそんなにたってないからだろうと思う。自分にとって生計というのは敢えてこうしてたてる、というものでなく、なんとなく立ってしまうものだった。公務員とかやっていると、自分の仕事量に関係なく給料が入ってくるから、そういうものがだんだん幻想的な感じになってくるということはあるだろう。それに、私はあまり多くの人の職業というものを知らないなあと思う。魚屋の詩情とか、板金工の気配とか、もっといろいろなものを知っているといろいろなものが書けるのになあと思う。まあ村上春樹とかだってなんだかよくわからないあやしげな職業はたくさん出てくるが、市井の一私人みたいな人はあまり出てこない。本当は、そういう仕事の中にある詩情と、現実離れした詩情というものがどこかでつながっているはずで、そういう部分が書けると書ける内容の幅が広がるんだけどなあと思う。


死者の書・身毒丸 (中公文庫)
折口 信夫
中央公論新社

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折口信夫『死者の書』を少しずつ読む。冒頭の死者は大津皇子だったのか。そうかそうか。断片的にしか覚えてなかった。それに、いま読んでもこの小説、相当難しいな。さすが碩学が専門の古代世界を小説世界にしただけあって、常人の理解を超えている。全集の冒頭に柳田国男・斎藤茂吉・折口信夫の写真が出ている。前二者はほぼ想像通りの顔なのだが、(多分以前も写真を見たことがあった)折口信夫の顔を見てなるほどこういう人だったのかと深く納得した。以前白洲正子が、折口が愛弟子の布団に忍んできた話を書いて、「折口さんの学問はそのようにしか伝えられない」ということを書いていて、それがどういうことなのかよくわからなかったのだけど、何というかこの写真を見て大変納得した。こういう顔の人がそういう人なのだと。柳田も茂吉も普通の人ではなく、ある意味社会との折り合いに苦しんだ人であるけれども、折口ほど苦しみはしなかったのではないかという気がする。こういう人であるからこそこういうものが書けたのだなと思う。

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by Luke Peterson

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