風の強い日/ネガティブな思いが、実は生きる原動力になっている/小林よしのり『ゴーマニズム宣言Special 昭和天皇論』

Posted at 10/03/21

なんか今日はいろいろ思ったこと、考えたことが溜まっているのだけど、はっきりと言葉にならない部分が多く、書こうと思っても多分そんなに上手くはかけないことが多くて、でもきっと書くという勢いだけはあるので余計なことをずらずら書くかもしれないという予感が少々。

昨日は午後、仕事がけっこう忙しく、また飛び入りでいい意味での予定外もいろいろあったのでよかった。6時半に仕事を終え、7時前の特急で上京。弁当が売り切れていて、車内販売の稲荷寿司を買ったがこれもそれなりに美味しかった。車内販売で変えない場合に備えてパウンドケーキとビスケットを買っておいたのだが、いなり寿司とそれらを食べたら大体十分になってしまった。

東京に着き、地元の駅前の文教堂を覗いたら、小林よしのり『昭和天皇論』(幻冬舎、2010)がでていて驚いた。小林が新刊を出すということはSAPIOなどでも予告されていたから知っていたのだけど、まさかこんなど真ん中の直球の剛速球を投げ込むとは。しかも全編書下ろしというのは、今までにない労作だ。小林の力の入れ具合を感じ、一も二もなく購入した。

帰宅後、『美の巨匠たち』でデンマークの画家の話を見たり、スポーツニュースでダルビッシュが打たれるのをみて今度はがんばれと思ったり、『ミューズの晩餐』でチェロ奏者がショパンについて語るのを見たりしてから『昭和天皇論』を読み始め、2時くらいまでかかって読了した。感想はあとで。

今朝は8時過ぎに起床。寝床の中で強風を聞く。起きたころには少しはおさまっていたようだ。でも予報を見ると今日一日は風が強いようだ。午後から湾岸に出かけることになっているのでちょっとちょっとなんだが。

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昨日の午後、忙しい仕事の合間にふといろいろな考えが浮かんだ。昨日のブログに書いたことの中で、子ども時代の自分を今の自分が教えられたらなあ、というようなことを書いたけれども、私が「教える」ということにこだわりがあるのは、自分の子どものころに先生、あるいは「師」といえる存在に恵まれなかった、という思いがずっとあるからだなあということに気がついた。そういうルサンチマンというか、そういうものが結局、自分に「教える」ということに対する情熱を付与しているのだということに。自分の子ども時代は過ぎてしまったから、もうその時期に「与えられたらよかったのに」と思う教育が与えられるということはない。だから今の自分がどんなにいい指導をしようと工夫を凝らしても、それが満たされるということはない。逆に言えば、満たされないからこそいつまでもそういう工夫をし続けられるということでもある。思いもかけなかったことなのだけど、自分を動かす原動力というのはそういうルサンチマンのようなものだった、あるいはそういうものが大きい部分を実は占めていたのだということに気がついたのだ。

今まで私は、そういうことを考えたことがなかった。人を見て、明らかにこの人はルサンチマンをバネにがんばってるな、と思う人がいると、むしろちょっと嫌だな、と思っていた。つまり、人間の「やりたいこと」というのは、人間の明るい部分の中にある興味や関心、好奇心と言ったものからでてくるもので、人間性の暗い部分であるルサンチマンや苦しみ、衝動と言ったものからでてくるものとは違う、と思っていたのだ。

こう言葉にして考えて見ると、そんな暗さをバネにしてすごい作品を書いた人がいくらでもいるのに、どうしてそういうふうに考えなかったのかという気がしてくるのだけど、自分自身がそういうことが苦手だとかそういうものと向き合うのを避けて来たということ以外に、明るい部分と暗い部分の二分法のようなものが私の中で刷り込まれていて、明るい部分にだけ関心を集中するような心の動きを周りからも自分自身によっても訓練されていたのだなと思う。禅の言葉を読んでいて、そういう二分法みたいなものが必要ないんだな、と感じたことが無意識のうちに自分の意識の中で自分がやりたいことをやる、自分を動かす原動力というポジティブなイメージで語られるものとルサンチマンというネガティブなイメージで語られるものを結びつけることを可能にしたのだと思う。今まで、そういうことは本当に考えないようになっていた。自分自身を自分自身から隠す、という心の動きが私にはけっこうあって、そういうところで自分が分からなくなってしまうことがよくあるのだけど、まさにそんなことだったんだなと思う。

私がダンテの『神曲』が好きなのは、ダンテの情念が書きつくされ、地獄に行っているはずだと感じている多くの人々が書き込まれ、フィレンツェでの争いに敗れて追放されたこと、若くしてベアトリーチェを失った悲しみなど、数多くのものがついに浄化されていくからで、そこに幻視されるさまざまな風景の魅力は、既に書かれたものからはダンテの苦しみや怒り、恨みといったものはきれいに拭い去られ、残っていないけれども、そういうものを原動力としなければそれを昇華し、巨大な精神世界を描くこともまた出来なかっただろうと思う。

そういうマイナスのパワーはクリエイティブな方向に上手く方向付けられればいいけれども、破壊的なほうに方向付けられるとヒトラー的な、悪魔的な破壊力を持つこともまた確かで、だからこそネガティブなパワーは封印されるべきだと多くの人々が考えてきて、それに私自身も共感していたということがあるんだろうなと思う。

ただ、生きるということは苦しみだ、という仏教の一切皆苦の教えは、実はだからそれに耐えるしかない、という消極的な教えなのではなく、苦こそが生きていく原動力に、創造の原動力になりうるという180度転換するための教えなんじゃないかなとそういうことを思った。そうなると「避けるべき」苦というものは消えてなくなる。苦があればこそ生きられるのだから。そうなればこの世には何もなく、からりと晴れた無限の空が広がるだけで、だから苦しみから人を救うよう導くべき「聖なるもの」の存在もまた幻のように消える。それを達磨は「廓然無聖」と称したのだろう、と思う。

だからすべてのものを、避けるべき苦であるとか、必要な生の原動力であるとか、分けているからわからなくなるのだ、ということが禅の教えなんだろうと思う。

たとえば韓国でいう「恨(ハン)」という概念があるが、考えてみたらこれはそういうことだろう。恨みつらみ苦しみが生きる原動力、と教養のある韓国人が書いているとああ日本とは違うなあ、なんかそういうの嫌だなあ、と正直言って思っていた。韓国人にあまりいい感情が持てなかったのも、実はそういう部分が大きい気がする。恨(ハン)のみが生きる原動力だといわれると、どうかな?とは今でも思うけれども、そういうことなのか、ということは少しは分かり、少しはいいたいことが通じてきた気がする。

未来は明るい部分から出てくるべきで、暗い部分は克服すべきものだ、という二分法が自分を呪縛していたんだなと思う。明るい部分だけで出来ている人間などいないのに、自分に暗い部分があるということが、私自身、ずっと許せない感じがあり、それを感じるたびに無力感のようなものに負けそうになっていた。「やりたいこと」を考えようと思っても、自分の明るい部分からだけでは出てこないことも多く、何だかどうしたらいいんだろうと思うことも多かった。植物の根が暗いほうに向かって大きく伸び、それが大地に根を張って植物を支えているように、暗い部分こそが明るい部分に伸びるためのさまざまな可能性を育んでいるかもしれないということに、全く思い当たらなかった。

考えてみたら、モーニングページというのは本来そういうもので、泣き言を書いたり自分のイヤな部分、暗い部分を書いたりしているうちに、自分がやりたいことが見えてくる、ということがあるんだろう。いい先生にめぐり合えなくて嫌だったな、ぶつぶつ、と書いても何も生み出さないかというとそうではなくて、そう書くことで、それで自分が「教える」ということ、いい「師」であろうとすることに強いこだわりをもつ理由が見えてくる、ということもまた、モーニングページの建設的な役割なんだろう。そう考えると、今でも私のモーニングページはネガティブ度が足りない気がする。もっとネガティブなことをぶつけた方が、もっと元気が出てくるのではないかなと思った。

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ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論
小林 よしのり
幻冬舎

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小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論』。一気に読了。これは読み応えがある。昭和天皇について考えもしなかったことがいろいろ考察されていて、読みながら興奮したり涙ぐんだりした部分がたくさんあった。小林は、今までの著作でもそうだが自分の意見を説明するのが上手いと思うし、情景を描写するのも上手いと思うが、その本質はドラマを作ることにあるんだということを今回初めて思った。近代史の本を読んでいても、面白いと思うことはたくさんあるけれども、そこにどういうドラマがあったんだろうということをそんなに的確に想像できるとは限らない。しかし、小林は自分なりにじっくり考えた末だろうが、「この出来事はこういうドラマだったのだ」ということを解釈し、それをドラマチックに書くことが非常に上手いのだ。『東大一直線』のころのドラマツルギーはどちらかというと展開していくドライブ感のすごさが彼の作品の魅力だったのだけど、『戦争論』のころからか、「間」の使い方がとても上手くなって来たように思う。今回の作品でもずいぶんその「間」には泣かされた。対象が対象だということもあるが、一筆入魂というか、一つ一つのカットにずいぶん力が入っているのを感じる。『脱正義論』などでは人の醜悪さを描くのにそういうものが使われていたけれども、『戦争論』のころから人の美しさ、素晴らしさを描く心遣いのようなものが絵に表れてきて、そのためにとても共感を呼ぶようになったのではないかと思う。

昭和天皇とマッカーサーの関係というのも面白い。昭和天皇はアメリカ訪問の際、結局マッカーサー記念館には足を運ばず、それに怒った未亡人はホワイトハウスからの招待を断ったのだという。彼らの関係が単純なものでなかったのはこのことでも分かるし、昭和天皇が一筋縄で行かない人物であったこともよく分かる。

終戦の詔勅とか、昭和21年年頭の詔書、いわゆる人間宣言なども全文を引用し、それを詳細に検討して、昭和天皇の意がどこにあったのか、またGHQの目論見をいかに換骨奪胎したのかというところもよく分かり、全く痛快だ。

終戦の聖断に関する鈴木貫太郎と阿南惟幾の件は圧巻だ。私は靖国神社の遊就館に行くと、いつも阿南の血染めの遺書、『一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル』を見ると深い感動と悲しみに襲われるのだけど、その当たりのことが本当によく書けていると思う。ポツダム宣言の条件つき受諾(国体護持の一点)を申し入れた日本に対する連合国の回答を巡る議論の末、昭和天皇が阿南に「阿南よ、もうよい。心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある。」と告げる場面の天皇の微笑みは、何度見ても泣ける。二度目の御前会議の延期を鈴木首相に申し入れ、拒絶されて退去するときの顔を見た迫水書記官長が鈴木に「…阿南さんは死にますね」とつぶやき、鈴木が「うむ、気の毒だが…」と答える場面は、この難局を乗り切ろうとする鈴木と阿南の阿吽の呼吸が現れていて、何も言わない鈴木の万感の思いと、阿南の決意の双方の美しさが胸を打つ。昭和天皇は阿南自決の報を聞き、「阿南には阿南としての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした」と言われ、戦後の巡幸のときに阿南の未亡人を特に呼び出して言葉をかけられたという。

天皇の沖縄発言、戦後の巡幸についてもかなりのページ数を割き、近衛の自決についての天皇の言葉についても描いている。講話条約締結をめぐるダレスとのやり取りについては始めて知ったが、確かに政治家には出来ない重要な役割を昭和天皇は果たしていたんだなあと思う。また、敗戦という未曾有の苦難を乗り越えるときに昭和天皇が心の支えにしたのは白村江の戦に敗れて緊急に国家の立て直しを図った天智天皇だった、というのも天皇という存在の日本における歴史的な意味をよく表現しえている。

巡幸の話もいいエピソード満載だが、佐賀の戦災孤児の孤児院を訪ね、その帰りにひとりの子どもが裾をつかんだまま帰りに車までついてきて、「また来てね」と言ったとき、「また来るよ、また来るよ」と答えて微笑まれたその絵など、静かなクライマックスを感じさせる。終戦時に住んでいた御文庫が湿気がひどい状態で早く住居をつくろうとの提案を昭和天皇はずっと拒まれ、昭和36年になって初めて吹上御所に移られた、という話も初めて聞いた。この本は、小林の畢生の代表作といってもいい出来に仕上がっていると思う。平成22年の現在にこのような本が出されたこと自体が、ひとつの奇蹟のような気がしてくる。

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