プロダクト/人を育てる/東村アキコ『海月姫』/皇統問題と旧皇族

Posted at 10/03/15

昨日はブログを書かなかった。書けなかったともいえるし、書かなかったともいえる。書く時間はないことはなかった。書こうと思ったら何か書けないことはなかったとは思うけれども、書かなかった。昨日は何か自分の中の潮がいちばん引いている感じのときで、自分の中からまた大きな潮が動き出すのを見届けたいと思っていた感じがある。敢えてここで手軽な動きをしてその動きを見失ったり壊したりしないようにと思って、自分の動きを最小限にしていた。こういうときはつまらないものに引っかかりやすいので、気をつけるようにしないといけないと思う。変なものを自分の内側に取り込んでしまうと、またそれを吐き出す機会が来るまでそれに取り付かれたりするのも面倒くさい。

疲れが出ていたということもあって、夜は知らないうちに寝てしまった。8時ごろだったと思う。1時過ぎに目が覚めて、それから着替えたり入浴したりして寝た。3時過ぎにはなっていた。朝起きたら7時前で、二回には分けたが久しぶりに十分に寝たという感じだった。

昔の友達に会うことを考えて、何だか気が進まない感じがして、それはなぜだろうと考えて見ると、最近何をしているのかという話になったときに、最近こういうことをしている、ということをはっきりとプロダクトとして見せられないからだな、ということに思い当たった。昨夜、なんとなく見ていた海外ネットワークで、イラクの総選挙を取り上げていたが、その映像に出てきた庭師のおじさんが、自分の仕事に誇りを持ち、また社会的にも評価されている感じの印象を受け(全く放送されていた内容とは関係ないことなのだけど)、それは庭師のおじさんがプロダクトとしての庭を見せることが出来る、「これが私の作った庭じゃ!」と言えることにあるんだろうなと思ったからだった。

考えてみたら仕事というのは、みなプロダクトを作るためのものだ。蕎麦屋、パン屋、そういう「作る系」の仕事はもとより、会計士だったら会計報告書をつくり、弁護士だったら取り扱ったケースで成功した事例をたくさん持っている。政治家が自分の実績を誇るのをあまり面白い気持ちで見たことはないけれども、彼らにとって「実績」というのはそういうことでしかない、具体的にどんなふうに世の中をよくしたか、ほとんどのものは賛否両論に分かれることだろうけど、とりあえずはその政治的信念に従ってこれだけのことを実現したと訴えるしかないんだなと思う。

教育というのは、プロダクトは「人を育てる」ということになる。孔子とか、教育者としての側面がかなり強いから、そのプロダクトとして多くの個性的な弟子が『論語』などにも出てくる。ただ、「弟子」というのは他のプロダクトと違い人間なので、教育というのはどこか仕事として中途半端な感じがする。大学の教員ならば自分の研究をプロダクトとして示すことが出来るけれども、それ以下の教員は結局は未完成品というか、心が必ずしも伝わっているとは限らない、もはや「弟子」といえるような状態ではない、つまりは師と弟子という感じでなく、たまたまその人間の前で喋り、たまたまその人間の話を聞いただけの、「他人」に少し関わり、また離れていく、そういう中途半端な仕事になっている気がする。

「熱心」な教員が、イベントに参加したり新しいイベントを作り出したりすることをやりたがるのも、まあ分かる気がする。イベントは形として結集しやすい、プロダクトという形として残りやすいものだからだ。身分保障された教員は、必ずしもそういうイベントを作り出さずとも、自分のペースで生徒にじっくり関わっていけばいいと考えることが多いのでイベントを嫌うけれども、形を残すことを好む人、その瞬間での爆発が欲しい人、また「学校」そのものの世間的な評価を上げるということに主眼を置く人はイベントの方に走りがちだし、それはある意味無理もないところもあると思う。学校も学校同士の競争があるわけだし、安閑とはしていられない。人は結局プロダクトにより評価するわけだから、たとえば「東大合格何十人」というはっきりしたプロダクトがあれば(まあ確かにあんまりそういうもので評価されたくないという気持ちは最近私もわかるのだけど)別だが、そうでなければ学校の人気は下がってしまい、下がってしまうと教育内容も維持できないというジレンマがある。

ただ問題は、教育という面で本当にそれがやるべきことなのかということであって、合格者数競争もイベント競争も、甲子園出場争いもそうだが、やっぱり何か教育というものの本質から外れているところがある気がする。教育って実際は地味なところが主で、厳しいところもあり、また例外的に派手なところも晴れがましいところもあるけれども、大事な部分というのは人には見えない部分が大きい。

・・・何でこんなことを書いているんだろうとはっと我に帰る。プロダクト、ということについて書いてたんだな。教育というものはその点において難しいというか、分かりにくいというか、とらえどころのない仕事だということを書こうと思ったのか。学校教師をしていたときは、卒業生を出して、これで一区切りと思っても、それがプロダクトとしてどれだけのものを送り出せたかということは、何だか虚しいことが多くて、まあそれが続けていけなかった理由だったなあと思う。

学校教育というのは結局、生徒は先生を選べないし、先生は生徒を選べない。私立ならまだましかと思うけれども、最近は「この学校だから」進学したいというよりも、マニュアル化して「このへんのグレードならいい」、みたいな雑な選び方になっているようで、愛子内親王殿下の不登校問題で図らずもクローズアップされたように、学習院ですら学級崩壊が起こり、モンスターペアレントの跳梁が起こったりしているようだ。学校教育を「サービス」と勘違いしている親が多いということが時代の趨勢としてあるのと、そうではないと親を説得する十分な論理を学校側が持っていないという問題もある。

しかし本来の教育というのは孔子とその弟子のような関係のものだと思うし、「我より童蒙を求めるにはあらず、童蒙我を求む」という、親や子どもが自らの成長を求めて師たるひとを選び、教えを乞うということがあってこそ、その力も伸びるというものであるはずだ。そういう、「育ちたい、学習したい、伸びたい」という本来の欲求を思う存分伸ばしてやるのが教育の本旨だろう。そしてその学び舎を巣立つときに、これだけの弟子が育ったと感慨無量の思いに浸るのが本来の教育のプロダクトなのだと思う。

まあ理想論だが、理想を語っておかないと現状がどこがおかしいのかの批判は出来ないので、とりあえず自分の理想のようなことを描いておこうと思う。

まあそれはそれとして、はっきりとしたプロダクトを作り出していくことが仕事としてやりがいのあることには違いない。補助的な、雑用的な仕事だとそういうものを味わいにくくなるということは確かにある。どういうものが自分のプロダクトなのか、というとらえ方もまた人それぞれだろう。

私がプロダクトとして作り出していくべきものは何なのか、ということを考えてみる。人間とはどういうものなのか、人間とは何なのか、ということを描いた作品ということになるだろうか。それも、人間とはこういう風でありたいなあとか、こういうものであるといいなあというものを描いたもの、あるいはそうなるための方法を考えたもの、ということになるかなと思う。自分が読んでいて楽しいのはそういうものだ。人はいろいろなあり方を理想として持ち、それを描いてきたけれども、そのすべてにもちろん共感できるわけではないし、むかし共感していたけど今ではそうは思わないというものや、いいたいことは分かるけど近づく気がしないもの、すごく理不尽な感じはするのについそちらに引き寄せられてしまうものなど、いろいろなあり方がある。

まあブログでも毎日そんなことも含めてああでもない、こうでもない、あるいはああかもしれない、こうかもしれないと書いているけれども、プロダクトとしてはっきりした形を取るためには、もう少しテーマを明確化し、それを広げ、また掘り下げておく必要があるなあと思う。電子書籍でも何でも、そういうプロダクトを順々に作り出していくことが、自分にとっての生きている証というか、社会に対してあるまとまったインパクトを残し得る、社会を少しでも自分のよいと思う方向に動かすことになったらいいなと思う。

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海月姫(4) (KISSコミックス)
東村 アキコ
講談社

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一昨日夜帰京。帰りに地元の文教堂で東村アキコ『海月姫』4巻を買う。いくつか読んだ中では、私は東村アキコはこの作品がいちばん面白いと思う。東村はエッセイ性や自伝性の強い作品が多く、虚実皮膜のようなところにその個性があるようにも思われるのだが、もともとはこうした完全なフィクションの方にその才能の大元はあるのではないかと思う。この巻では天水館の立ち退き問題は進まず、月海のクラゲ愛の爆発によりすごいデザインのドレスが作り出されていく展開に、蔵之介が自分の月海に対する思いを整理していく心の動き(大笑い)が加わっていくなか、あまあずと蔵之介パパ(政治家)が遭遇したり、敵?味方?入り乱れてもう何がどうなっていくのやらという感じになっていて、カオスになってきた。ちょっとごちゃごちゃしすぎてきた感じはあるが、先が楽しみな展開ではある。

昨日は午前中に西村佳哲『自分の仕事を作る』にでていた永福町の黒森庵に出掛けようと思っていたのだが、ネットで調べて休業中だということを知り、気勢がそがれて結局団地のOKストアで昼食の買い物をして帰って食べた。家の前の道路が舗装小路で通行止めになっていて遠回りさせられたことも何だか気勢をそがれた。自分の中に在るものが満ちてくるまであまり動かないようにするという方針にしていたので、昨日はあまり動かないようにし、夕方に駅まで出かけたが結局街に出るのはやめて、文教堂でSAPIOを立ち読みし、桜井章一『運とツキに好かれる人になる』(宝島社、2010)を買って帰る。

SAPIOでは小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で「伏見宮系旧皇族」について書いていたが、これはこの問題について一般誌で書かれた中では今まででいちばん本格的な論究ではないかと思った。伏見宮系旧皇族の存在については私も以前から関心を持っていて、それについては研究や論考を見るたびに目を通してはいた。そんなに網を張って読んでいたわけではないけれども。最近になって、皇統問題がクローズアップされてくる中、現皇統に属する存命の男子が数少なくなってきたことで、旧皇族(厳密にはその子孫)の皇籍復帰を主張する声が高まってきている。小林よしのりは女子、あるいは女系でも現皇統から将来の天皇を出していくべきという立場に立って、伏見宮系旧皇族子孫の皇籍復帰に強い疑問を呈している。

最大の論点は伏見宮家と現皇統の分離が室町時代に遡ることにある。600年前だ。南北朝の合一時の後小松天皇(一休禅師の父とされる)の子、称光天皇が崩御した際、観応の擾乱で皇位を追われた崇光天皇の子孫である伏見宮家から後花園天皇が即位し、その弟の貞常親王が伏見宮家を継いだが、いわゆる伏見宮系旧皇族はその子孫に当たる。室町・戦国・織豊時代と宮家を受け継ぎ、江戸時代には四親王家としてその地位を継承したが、新たに創設された宮家に比べて皇統からの距離が問題になったのだろう、その後皇位を継承したケースはない。その後は他の親王家だけでなく、五摂家・清華家にも皇籍から下った男子が継承するケースが何度もあった(たとえば近衛文麿の近衛家は後陽成天皇の皇子の家系、文麿の長男がシベリアで抑留死したため近衛家現当主は細川家から継いでいるが)ことも小林は指摘していて、男系男子に限った「血の濃さ」で言っても伏見宮系よりも近いところがある、と指摘している。

このへんの論点、私も以前はやはり男系男子が望ましいだろうし、そうなれば旧伏見宮系の皇籍復帰しか解決策はないだろうなと思っていたのだけど、小林の議論を読んでいるうちに女帝や女系についてもその議論に一定の説得力を感じるようになってきた部分がある。まあこのあたりについてはいろいろおもうところもあるが、自分が関与していくべき問題であるとも思えないのでこういう議論があった、ということを書き留めるに止めておこうと思う。立ち読みで済まそうと思ったが、今号のSAPIOはあとで買おうと思う。

運とツキに好かれる人になる 図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76
桜井 章一
宝島社

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桜井章一の本はまだちゃんと読んでおらず、ぱらぱらと見たくらいなのだけど、横書きで左開き、左のページに文章、右のページに解説イラストという今までにないつくり。徹底的にハウツー本化してみた試みだといえる。確かに視覚的イメージに訴えたほうが文字だけだと伝わりにくいものも伝わるかもしれないなとは思う。、ただ桜井の場合、言葉の説得力がかなり重要なメッセージだとも思うので、こういう試みが成功しているのかどうかは読んでみないと分からないなと思う。

うーん今日のブログ、たくさん書いたけど面白いことが書けたかどうかは自信がない。

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