成長と競争と分配

Posted at 10/03/06

昨日。一日よく晴れていたが、今朝は朝から雨。今日は啓蟄。虫たちも起き上がってきているのだろうか。そういえば隣の家の池の錦鯉は、もうみんな顔をのぞかせて動いていた。冬眠状態からは抜け出しているらしい。鯉は虫じゃないけど。

昨日の夜は大分咳が出たが、寝られたことは寝られた。ただ、そんな深くは眠れなかったんだろうなと思う。ある程度すっきりはしているけど、かったるさは残っている。

仕事は大分暇だったので、早目に上がって早目に食事。愛子内親王殿下のニュースなど見る。学習院も学級崩壊しているのか?とか思う。まあ実態はよくわからないが、学習院のような学校の生徒でさえ皇室に対する自然な尊敬の念が衰えているのだとすれば、本当に皇室の藩屏というものはもう雲散霧消してしまっているということで、学習院が学習院である意味ももうあまりないということになる。悠仁親王殿下はお茶の水付属に進むということだし、学習院の存在意義自体が問われる段階になってきてはいるなあと思う。

それから中国のバブルの報道。確かに不動産の投機目的の購入が激しさを増していて、一般人が住宅を買えないような状況になっているそうだから、これは確かにバブル状態といっていいんだろう。リーマンショック後の中共当局の大々的な金融緩和策によって相当金余り現象が起きているようなので、これは遠からず崩壊するという見立ては正しいと思う。その時に世界経済に与える影響がどれほどになるかは想像すると大変だが、日本も何らかの対策を講じておかないと大変になりそうだ。

報道ステーションに出ていた浜とかいう女性の学者が、「成長、競争、分配」の三つの足で立たないと経済はうまくいかないが、今の中国は成長という一本の足だけで立っている危険な状態だと言っていて、なるほどと思うところがあった。

成長、競争、分配。それぞれ人間にとって重要な活動の性質だが、一人の人間においてもどの側面を重視するのかということで人間性というものが決まってくる面があるように思った。

それを自分の場合に当てはめてみると、自分の頭と心と体のそれぞれが、心は成長を求め、頭は競争を求めて、体は自然の恵みの分配を欲している、という感じなんだなと思う。昨日のブログに書いたことをもう少し考えてみると、その二つの考え方を組み合わせると面白いアイディアが出てくるように思う。西村佳哲がブログでモンゴルで馬に乗った話を引き合いに出し、人の体というのは馬みたいなもので、人が自分の都合で動かそうと思ってもいうことを聞かないことがある、ということを書いていたけど、ちょっと似ている。

体が欲していることは、頭が欲していることとはかなり違うようで、最近、カフェなどでも自然食品系統のところに行きたいという気持ちが自然に強い。デトックスというか、体から毒抜きをしたいという感じがある。自然食がとにかくおいしいという感じなのだけど、考えてみたらどんなものでも自然の恵みであることには違いないわけで、ものを食べる時には自然の恵みを分配してもらっているのだという気持ちで食べると体が満足するような気がした。今朝朝食を食べながら思ったこと。

心が成長を求めているというのは、やはり創造性を開いていく、というようなことと関わりがあるのだろう。創造性というものも、「心の成長」というところにポイントを置いて考えてみると、自分のやっていく方針が立つ部分があるような気がした。それは案外、父が求めていたものと近いところにあるという気もする。

頭は相変わらず競争社会の中にあって、まあ勝負勝負という感じになっているのだけど、それで大分疲れ果ててしまっているのでしばらく休んだ方がいいというのが現状なんだと思う。

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