「意味」の抹殺/隣国の価値観への没入の不思議/村上春樹の世界への関わり方

Posted at 10/01/06

昨日。ぎっくり腰ながら10時まで仕事をし、職場の駐車場に行ったらフロントガラスが凍結していた。まあ最近は毎日のことなのだけど、そう言う日常も誰にとってもあたりまえのことではないんだよなあと思ったので書いてみた。日本は広い。

寝るときにはいわれたように臍の周りの押すと痛いところに愉気をしながら寝る。朝は7時過ぎに起床。あまり無理しないように、なるべくゆっくりするようにした。朝食後、喪中欠礼はがきをもらっていてこちらからは出してなかった人をチェックして印刷したら黒インクの残量がわずかになった。こちらから出した人の名簿を整理して、四十九日の直会(なおらい)の手配をして、などと言うことをやっていたら10時を過ぎた。綿半に出かけて電池式の電動石油ポンプとプリンタのインクを買おうとしたらインクがなかった。結局石油ポンプと花を買う。仕方ないのでステーションパークのエイデンまで行ってインクを買った。帰りに銀行によって用事を済ませ、職場に出てゴム印を持って判子屋へ。会社の代表者が交替するので、ゴム印も新しいのをつくらなければならない。けっこうかかることがわかった。帰ってきて花を生ける。本当に久しぶりだ。少しは余裕が出てきたということか。

昼食を済ませ、自室に戻って読書。ぎっくり腰もそういいわけではないが、そう悪いわけでもない、という感じ。中上・柄谷『小林秀雄をこえて』所収の柄谷行人「交通について」を読了。

***

「交通について」。まず面白いと思ったこと。都市と農業の関係については農業の発達によって人口の集住が進み都市が形成された、というのが定説であるけれども、ジェーン・ジェイコブスという人が、それはむしろ逆で、都市こそが農業を生み出したのだ、ということを言っているのだという。農業が成り立つような栽培種の穀物が創出されるためには、穀物を異種交配することについての情報の集積が必要だ、という理屈なわけだ。確かにこの知見は面白い。考えてみたら、狩猟採集社会でも交易はあったのだから、その拠点となる場所がある程度形成されていてもそう不思議ではない。その場に集められた情報を元に、農業が生まれ発達した、ということはありえることだと思った。

情報が集積するためには、サイバネティクス型の分散型組織ではなく、中枢神経的な一点集中の組織が、つまり人びとの集住した都市を拠点とした「交通」があって初めて可能だ、というわけだ。この議論は説得力があるように思う。

ジェーン・ジェイコブスはアメリカの大都市論で有名な人らしいが、2006年に亡くなっている。『都市の経済学』(阪急コミュニケーションズ、1986)という本でこの議論が紹介されているらしい。時間があるときに探してみようかと思う。

次に感想。柄谷はいったい何を目指してこういうことをやっているんだろう、ということを考えたのだけど、「マルクスは生産・分業・交通という語を表現とか創造とかいう言葉に伴いがちな「形而上学」を斥けるために用いた、ということを言っている。つまり上部構造を徹底的に排除して、下部構造だけの唯物論的な議論のためにこういう言葉を採用した、というわけだ。その線で徹底しようとしている柄谷はつまり、「文学」から形而上的な意味での「意味」を排除しようとしている、ということなのだと思う。

これは柄谷に限らないけれども、左翼=唯物論者の人たち(心情サヨクのような中途半端な人たちではなく)の思想的な面での特徴は、この世からそういう意味での「意味」を追放しよう、ということを目指しているのだなと思った。唯物論的な議論で全てを語るということを自らに、だけではなく全ての論者に課そうとしている。超越的なもの、先験的なものの存在を一切許さない、というところがゴールであるのだなと思う。柄谷が章立てに小見出しをつけたりせず、無機的な番号だけをつけるのが何か彼の思想を表しているんだろうと思っていたのだけど、なるほどそういうことなんだなと思った。「意味」を抹殺したい、という思想。それは、たとえば共産主義社会になったらすべての人が幸福になる、というようなことを考えて行動する政治的な共産主義者とも違う。もっと原理主義的な感じだ。「幸福」だって、これ以上ないくらいの形而上的な言葉だからなあ。「幸福になる」、という表現は不適当だが、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ならばそこに形而上的な意味はかなり殺ぎ落とされているから、いいということなんだろう。

今まで左翼とか共産主義者というのは、そう言う政治的な意味での無垢な(笑)人たち(ナロードニキみたいなイメージだ)ばかり考えていたから、こういう唯物論原理主義的な人の存在を明確に認識してこなかったなと思う。この人たちは、「幸福」ということを目標にしないだけによけい始末が悪い、というかマッドフィロソファーという感じがする。まあ哲学者というのは誰でもある種マッド的なところがあるような気はするけど。

しかしこういう議論を支持する人がいる背景にはどんなことがあるんだろうと考えてみると、それは中上健次が表現している世界のような、被差別部落であるとか複雑な家庭環境であるとか在日朝鮮人であるとかの差別されてきた人たちが背負ってきたとんでもない「意味」の重圧から逃れたい、それを無意味化したい、ということがあるんだろうと思った。平坦な現代社会でも、近代以来のそうした「意味の重圧」から逃れられない人は当然大勢いるわけで、たとえば逆にやんごとない人たちの層など、反対の意味での「意味の過剰な重圧」を担わされている人もまた存在する。その中には心の病を患う人もいるわけで、そうしたものを外す一つの方法として唯物論的な思考というものは支持され得たのだろうと思う。

ということはつまり、これは村上春樹の言う「デタッチメント」ということとほぼ同じ方向を意味しているわけだ。村上の作品は形而上的な意味での「意味」を希薄化するような表現がもともと多いわけだけど、特に初期の作品はそういう既存の価値観からの解放、というようなカタルシスがあるように思う。思う、というのはもともと私はそういう時期の村上の読者ではないので、よくわからないからだ。特に初期村上作品はそういうデタッチメント的な方向性が多くの読者に支持され、また現代の中国や韓国でもそうしたカタルシスを求める読者が多い。中上のような汗臭い表現ではなく、さらっとした村上の表現の方がより臭いが脱臭され、意味をどんどん軽いものにしてくれるというところがあるだろう。中上の汗臭い悪戦苦闘による唯物論的な主張よりも、村上の都会的なさらっとした感覚の方が読みやすいし、唯物論的な主張そのものを明確に打ち出さない思想臭の薄さが(本当はそんなに薄くないと思う、少なくとも私は村上的世界に入るときはある意味「鼻をつまんで」入る感じがある)いいのだろうし、まだまだ「意味」と戦っている中国や韓国の読者をひきつけるものがあるのだろうと思う。

生命科学が「形而上学」を排除しようという方向性はある種の強い思想的信念のようなものを感じることがあるが、それは唯物論的な科学にもともと偏した立場を持っているからだろう。「創造はテクストの誤読から生まれる、突然変異が遺伝子情報の誤読から生まれるように」というたとえはなかなか巧みだが、なんだか形而上的なものの呼ぶ声に必死に耳を塞いでいるような感じもする。

彼らにとって見れば、小林秀雄は形而上学を、綺羅星のごとく並ぶ天才といった存在を無条件に認めているからこそ認めることの出来ない存在なのだ、という面は強くあるんだろうと思う。

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一つ不思議なのは、日本の唯物論者たちは日本の社会にあるさまざまな形而上学的な意味の存在を完全に否定しようとするのに、隣国の人々が主張する「意味」には実に無批判に受け入れてしまっているということだ。「植民地支配の傷跡」だの「恨」だの「戦争犯罪」だの「長征」の神話だの、何でもかんでも彼らの言うことはご無理ごもっともで、彼らの主張する「意味」を全然否定しようとしない。彼らがそういうものも真っ向から否定すればそれは一つの見識として認められなくはないが(支持はしないけど)、そうしないということは結局は彼ら自身の保身の必要性から隣国の人々の主張は否定できないのではないか、と考えざるを得ない。そのダブルスタンダードが気持ち悪い、というか、日本人の「私なりに自然な感覚」からすれば、日本人が持ってきた意味に冷たすぎる、と思う。もちろんそういう「意味の過剰」で苦しんできた人たちもいるだろうけれども、そういう「意味の存在」に支えられきた人もたくさんいる。そういう心情が、いわば柳田國男の言う「常民」の心情ではないかと思う。

逆に、中国でも韓国でもそういう官製思想(反日とか)によって不利益を被る人もたくさんいるはずで、そういう人たちに対しては全く冷ややかだ。人権派を称する人たちがチベットの虐殺や中国政府の不公正や汚職に苦しみ救済を訴える人々に対する弾圧を全く無視しているダブルスタンダードも同じような意味で納得できない。

まあしかし、こういう突き詰めた議論を読むことで、自分とは対極にある思想であっても、自分自身が逆に照射されて見えてくるところは大きく、すごく参考になったと思う。ある意味自分の思想に自信をもてるようになるわけで、大変ありがたいことだと思った。

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ついでに村上春樹のことをもう少し考えてみる。村上は、初期のデタッチメント的な方向性から、90年代半ばにコミットメント的な方向性に移行した、というようなことを言っていて、私が読んでいる『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品はそれが大きなテーマになっている。上に述べたような「隣国の人々の主張する意味」への「私などには理解不能な没入感」というものを彼も持っていて、それが彼の思想的な左翼性の一端を表現しているが、最近作『1Q84』でもそうだけれども新興宗教団体とか殺し屋とか父との対立といった形而上的なものが必然的に絡み付いてこざるを得ないものを実にデオドラントに処理している。青豆に殺される教祖の実に「理想のおとな」然としたありようや、青豆に殺害を支持する老婦人の、やや滑稽視した描き方など、「意味なんかないんだよ」という主張が実にほんわかと漂ってくる。しかしそうした中でも、もはや村上はデタッチメントを主張するのではなく、世界に関わっていくことを主張するようになっている。しかしその世界への関わりは謎めいていて、チェホフの引用だの猫の町の話だのといったまさに文学的な世界にある意味「逃げ込んで」いる。

世界には関わらなければならない、しかしそれは「意味」を通じてではない――では何を通じて?その答えを文学に求めるというのは、何というかマッチポンプだ。壁と卵のたとえにあるように、常に卵の側に立つ、というのは、ある意味での形而上学への回帰だといえなくはない。「人間」を尊重しようという、ある意味柄谷の主張とは違う方向になるからだ。しかし村上が言いたいのはもはや「壁」の側も形而上的な意味というよりは物理的な暴力装置に過ぎなくなっていて、それに対抗するためには「人間」という形而上学を復活させなければならない、ということなのかもしれない。

しかし、「人間」という意味以外何も持たない、裸の存在が果たして「壁」に対抗しえるのか。だから敗北は必至なのだ、と村上は言っているように思える。しかしそれでも私は卵の側に立つ、と。……ある意味すごく無駄なことをやっているような気がする。

伝統的な意味での形而上学を復活させることはもう不可能だ、と村上は思っているのかもしれない。まあそうかも知れないのだが、そういう意味を再評価しようという小林よしのりのような試みの方が私には共感しやすい。

まあ、だいぶいろいろなことが整理され、つながってきた感じがする。

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