いま自分のやりたいことを、自分の責任でやればいい

Posted at 09/12/28

路面が濡れた朝。起きたら気分はすっきりしていた。それができたのは、あたたかいパジャマを着て寝たから、という割と即物的なことかもしれない。でも、起きたときに、「今やりたいことをやればいいのだ」というつぶやきが夢の中に映像とともに現れて、なんだかずいぶん楽になった。

以前やりたかったことではなく、いつかやりたいことでなく、今やりたいことを今やればいい。トイレに行きたかったら今トイレに行けばいい、というか今行くしかないように、今やりたいことは今やればいいし今しかやれない。継続性とか整合性とか考えなくていい。30分前に行ったからって今トイレに行きたければ行くしかない、そんなことに整合性がないように、今やりたいことは今しかやれない。トイレに行くのを我慢するのが健康に悪いように、今やりたいことをやらないのは精神的にも肉体的にも健康に悪い。

今やりたいことを、自分の責任でやればいい。やって結果が悪かったら自分で責任を取ればいい。大変なことなら成功するように準備をちゃんとすればいい。結果を考えずにやればいい、ということと準備をせずにやればいいということとは違う。得られるのは結果ではなくて、やりたいことをやったという充実感であり満足感だ。自分の責任でやりたいことが出来ること、それが大人ということだ。子どもはやりたいことをやることしか出来なくて責任は取れないのだけど、大人ならそこまで含めて自分ですべてをやれる。子どもの遊びは責任がないから楽しいけれど物足りない。責任があるから人生を賭ける快感もある。そこまで含めて楽しめばいい。

そういえば、責任を取る、とは責任というものをテイクする、という意味だな。take the responsibility of ~ ということだ。英語の訳語だ。責めを負う、というのが本来の日本語か。日本語の方が身体的な表現だ。

「やりたい」ことがないときでも、「やりたい」ことがない人でも、「ありたい」自分はあったりする。「ありたい=状態」の方が「やりたい=動作」よりも先行するのはあまりよくない。美しくありたいと思っても、美しくあれるわけではない。美しくならなければ美しくはなれない。「美しくなる」という動作をして初めて「美しくある」という状態が実現する。状態は動作の繰り返しによって維持される。アプリオリに「与えられている」状態はいつかは変化する。元に戻すことは誰にも出来ない。変化した状態を、さらに変化させなければならない。もともと美しい人が美しくなくなったら、美しくなる動作をしなければ美しくはなれない。もちろん、その動作が的外れであったら望むことは実現しないしそれが一番問題なのだろうけど。

長い息をしたければ、長い息をすればいい。落ち着いた状態とは、ゆっくり深く呼吸して、心拍数も落ち着いた状態だ。「落ち着いた状態」とはどんな状態か、というのを知ることが大事なように、今の自分にとって美しい状態とはどんな状態か、ということを把握しなければ美しくはなれない。それが的外れだと、美しい状態は実現できないのだろう。

いちばん的外れなのは、昔の自分の美しさを取りもどしたい、と思うことなんだと思う。昔の自分と今の自分は別人だ。別人の顔になることが不可能であるように、昔の自分の顔になることは不可能だ。今の自分には、今の自分にふさわしい美しさがある。それを把握しなければならないのだと思う。

何か「しなければならない」ことがあるとき、それは本当はだれが「したい」ことなのか、考えてみればいい。自分がしたいことなのか、親がしたいことなのか、恋人がしたいことなのか、子どもがしたいことなのか、あるいはもっと大きいほかの存在がしたいことなのか。たとえば、役所の手続きが本当に好きで好きでたまらない、という人はあんまりいないだろう。役所の手続きは必要だし自分の身を守るためにやるのだけど、本当はその決まりを作った人が社会の秩序を維持するために、社会の秩序を維持したいと思って作ったものな訳だから、その秩序が必要だと思えば納得も出来るし進んでそれをしたいと思うかもしれない。

逆にそんなことならしたくないと思うかも知れない。そうなったらある種の戦いだから、変革を目指すか従わないか、自分の責任で戦うことになる。変革者の人気と犯罪者の人気は、そういう意味で似ている。責任が取れないから出来ないことをやってのける人がいる。犯罪者は自己満足だが変革者は利益をみなにもたらすからより好ましいわけだが、その変革が失敗だったらみなに不利益をもたらすわけで、そういう意味では犯罪者より始末が悪いことだってある。

ただ、そういう社会のビジョンを描き実行する人が望ましいと思う社会の秩序のあり方があるわけで、それが制度に反映されている。現場に降りてくるまでには役人社会の官僚的な仕事の進め方に割り付けられて意味がわからなくなっていること、あるいは意味がなくなっていることが多いにしても、その元にはそういう誰かのやりたいことがあるということは見ておいたほうがいいことだ。

自分のやりたいことでなくても、誰かのためにやる、ということはある。しかしそれは、その誰かのために自分がやりたい、あるいはやったほうがいいと判断した、というところで自分の責任が生じている、ということは忘れない方がいい。それが好きな誰か、尊敬できる誰かのためならやれるしやりたいと思うだろうしやって充実感もあるだろう。だから親とか上司とか先生とか、人にやらせる立場の人間は、好かれる親であり尊敬される上司である必要が本当はある。尊敬できない人のために仕事をするのは、ある種の罰だ。社会が不幸になりがちなのは、罰としての仕事があまりに溢れているからだろう。人はみな好かれたいとか尊敬されたいとか思っている、それは自分のために気持ちよく仕事をしてもらいたいからだ。しかし好かれる自分になることとか尊敬される自分になることをそんなに実行していない、というか的外れな努力をしていることも多い。あるいは、自分が尊敬できない上司に命令されてやってきたのだから、自分の部下も尊敬できない自分のために仕事をするべきだと「割り切って」(勘違いして)いる人も多い。それでは形を変えた復讐だ。

だからまず、やらせる立場の人間は、まず今自分のやりたいことを自分の責任でやらなければならない。そうやって情熱を持って仕事をするということと、潔く責任をとるということをやらせられる立場の人間に見せ、教えなければならない。そうした尊敬できる姿を見たら、人はそうありたいと思い、この人のためにやろうと思うだろう。その両者を両立させることは難しいことだけれども、つまりは大人であるということは難しいことだと言うことなのだろう。

なんてことを朝から思った。今やりたいことを、自分の責任でやればいい。生きているということは、ただそれだけのことかもしれないと思った。

空はだいぶ晴れてきた。サッシの窓がだいぶ汚れているから少し新聞紙で拭いた。もう東京にいられるのは今年は今日が最後になるだろうから、本格的な掃除は年明けになる。来年はもっときれいな家に住もうと思う。

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