『バカの壁』を読み直す(続き):変わる自分と変わらない自分/アートと身体性

Posted at 09/09/04

養老猛『バカの壁』を読み直す。の続き。

「第4章 万物流転、情報不変」の章。この章では個性の問題について引き続き考察しているのだが、現代日本でなぜこれだけ『個性』が叫ばれるようになったのか、という問題を考察している。養老によれば、それはある重大な倒錯があったからだ、ということになる。

「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」とは方丈記の書き出しで、「万物は流転する」(ヘラクレイトス)ことを述べているわけだが、人間もまた同じで、「彼は昔の彼ならず」であり、「呉下の阿蒙」である。「男子三日遭わざれば括目して見よ」であり、「君子は豹変す」(易経)である。人間は生物だから常に変化している。それは成長かもしれないし老化かもしれない。人の心は変わるものだし、「変わってしまう悲しみは僕も知っている」とかぐや姫も歌っている。

しかし一方で、私たちは「自分は自分だ」と思っている。どんどん変わっていくにもかかわらずなぜ自分が自分だと思っているかというと、「意識は自己同一性を求める」からだという。人間が社会生活を営む上で、昨日の自分と今日の自分が違う、ということは自分にとっても他者にとっても困る。変化するからこそ意識は自己同一性を求める、ということになる。

しかしその意識化が徹底していくと、逆に自分は「変化しない自己」であるという思い込みが強くなってくる。そして、であるからこそ、「個性」があるのだ、という倒錯が生じ、自分は変わることのない自分なのだ、と思うようになるというのである。

確かに考えてみると、「自分は変わる」ということはすんなり理解できる一方で、「自分は変わらない」と思う、少なくとも思いたい自分がいることもすぐにわかる。自分が変わるということは当然だと思いつつも、変わる自分しかない、あるいは変わらない部分がない、というのはなんだか頼りなさ過ぎて、そう思いたくない。また、変わってしまって、それまでの自分を忘れてしまうことにも恐怖心がある。過去から現在まで、そして未来を通じて、変わらない自分でいたいという欲求もまたあるわけだ。

一方、変わらない、あるいはほとんど変わらない自分もまたある。それは身体だ。身体ももちろん少しずつは変わるが、昨日と今日とで根本的に違うということはよほどのことがない限りない。だから、個性というものがあるとしたら、それは身体にであって意識にではない、と養老はいう。

変わってしまうことに対する恐怖というのは、意識が感じることであるが、それは意識が変化するものであることを意識自身がよくわかっているからこそであり、意識に個性があるという倒錯を信じているからでもある、ということになるのだろう。

万物は流転すると言う一方で、「情報は不変である」と養老は言う。このテーゼがわかりにくいように私は思ったが、養老の言わんとするところを私なりに斟酌すると、生きている人間は変化するが、生きていない「情報」、言葉とかシグナルとかは、一度発せられたら変化することはない。それはなぜかといえば、変化する人間が自己同一性を保つために、また一人一人違う身体性を持った人間が共通の理解に達するために作られたのが言葉であり、自己同一性や共通性を保つために変化することのない情報=言葉を用いているのだ、ということになるのだと思う。

たとえば、「約束」ということの意味はそこにある。人間が変化しないのならば、約束などする必要がない。今日の相手と明日の相手が同じなら、今日の相手の言うことをそのまま信じておけばいいわけだ。しかし、人間は変化するから、明日になったらどういうことを考えているかわからない。だからこそどんなに変化しても守らなければならない約束というものの意味が出てくるわけだ。

人間が変化するものだと考えていた前近代的メンタリティを持つ人たちにとって、約束は重い。『走れメロス』の例を出すまでもなく、約束を守ることがいかに大事なことか、多くの言が費やされてきた。しかし、現代では約束というものが限りなく軽くなってしまっている。それはつまり、情報は変化するものだという考え違いが人々の意識に定着してしまっているからだという訳だ。

平気で嘘をつく、平気で約束を破る人たちのメンタリティには、言葉は変わるものという意識とともに、約束を破っても自分は自分で変わらない、という意識もあるのではないかという養老の指摘は、うーんと思う。世の中が悪くなってきたのは、情報は変わるものであり、自分は変わらないものであるという倒錯が原因ではないかと養老は指摘する。つまり、『個性尊重』という倒錯が起こるのと同じ原因によって世の中が悪くなっているのだ、というわけだ。

『バカの壁』が発生する原因には、「自分というものは変わらないものだ」という間違った思い込みと、情報は変化するという錯覚もまたあるということだ。

4章はまだ重要な問題が語られているが、書く時間がないので今日はここまでとしたい。
***

この辺になってくると、正直かなり難しい。確かに言われるとおりだと思ってはみるのだが、世間に流布した思い込みに自分自身が相当毒されていることを自覚させられる。考えているうちに、それこそ自己同一性(アイデンティティ)が揺らぐ感じを覚えたりする。とにかく、虚心になって自分自身を見つめてみないといけないと思う。

ただ、個性というものは身体性に由来する、というのはだいぶ納得がいくようになってきた。自分の中で個性を本当に自覚したと思えるのは、舞台上に立ったときのことであったり、野口整体で自分の体についていくつかのことを知ったりしたときであったなあと思う。舞台に立ってみると、他人と違う自分、というのは強く自覚する。明らかに別々の肉体を持っているのだから当然なんだが。個性というものは実感するもので、想像するものではない。

そういうふうに考えると、自分の個性に自身がもてなくなったことと、演劇から手をひいたことは関係があるのだなあと思う。演劇という身体性を失い、文章の世界に取り組むようになってから、私の迷走は始まったという部分はあるのかもしれないと思う。

考えてみれば個性的な人、たとえば作家や学者でも、は、やや芝居がかったところがある。文章の世界や論理の世界では発揮できない身体性を、そう言うところで埋め合わせているのかもしれないと思う。

最近『ピアノの森』を読むようになってから、自分の中に回復してくるものをたくさん感じるのだけど、それは読みながら作中に出てくる音楽を聴くようになったことともとても関係しているのだなと思う。私は音楽を聞くことでそこに身体性と記号性の両方を存分に吸収しようとしているのだなあと思う。

アートとは、自分は相当程度意識の問題だと思っているところがあったが、本当はそうではなく、身体性の問題だったんだなと思う。だからそれは、演劇を離れることで失われた身体性を、アート全般に触れるという形で回復しようとしていたということなんだなと思った。

文章だって、その作者の身体性がよく表れているものはある。そういう意味で文章は単なる情報の枠に収まらないところがある。そしてそういうものがよい作品なのだ。私のアートとは、私の身体性を発揮することなのだ。

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