カント読了/『ピアノの森』:心を奪われる

Posted at 09/07/22

カント『美と崇高との感情性に関する観察』読了。やはりカントの作品の中ではかなり異色だったのだと思うが、面白かった。

美と崇高との感情性に関する観察 (岩波文庫 青 626-0)
イマヌエル・カント
岩波書店

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イタリア人とフランス人は美の感情性において、ドイツ人とイギリス人とスペイン人は崇高の感情性によって目立つ存在だという。フランス人は崇高な感情すら美の感情性に従属し、これと合致したときのみ力を持ち、機知を弄び、思いつきのために真理をいくぶん犠牲にすることを顧みない、というのはわかる気がする。「本当」より「面白さ」の方が先に立ってしまうのだ、いくぶんそういうところが私にもあるのでわからないではない。また機知を弄ぶことができない数学とか深遠な芸術や学問においては根本的な洞察を示す、という分析も面白いなと思った。

「フランス人は落ち着いた市民であって、租税管理人の圧迫に対して風刺で溜飲を下げる。あるいは最高裁判所(筆者注:高等法院ということだろう)への抗議によるので、これはその企図するところは、民族の代表達に、美しい愛国的な名声を与へておいて、それらが光栄ある冠をいただかされ、意義の深い讃詩でうたはれることに止めて、それ以上に何事も言はないのである。」

……実はそうではなかったということがこれから25年後に起こるフランス革命によって明らかにされてしまうのだが。カントもまた、フランス革命の勃発の前後でかなり考えが変わったところがあるように思われる。

アラビア人は東洋のスペイン人で、ペルシャ人はアジアのフランス人であり、日本人はアジアのイギリス人なのだそうだ、「極端な強情に堕する不動性、その勇気および死の軽視等の」性質において。

最後に歴史に鑑みて、ギリシャ・ローマの時代を称え、中世を遺憾とし、十字軍や修道院制度を徹底的に批判する。またわれわれの時代=ルネサンス以降を「美と高貴に関する正しい趣味の興隆」と評価する。惑わしやすい虚光が高貴な単純さからわれわれを遠ざけないことを願い、外部で起こることを正しい趣味によって評価を下すことが望まれる、と結んでいる。このあたり結局、美と崇高の概念においても古代・中世・近代の三分法に基づき、近代の進歩を肯定する近代主義のスキームの中にカントもいることが明らかになる。
***

日本という方法―おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)
松岡 正剛
日本放送出版協会

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昨日(火曜日)帰郷。月曜日に丸善に寄ったとき、一色まこと『ピアノの森』の第1巻が立ち読みできるようになっていたので半分くらい読んだ。読んでいるうちにどんどん引き込まれてやばいなと思っていた。昨日はでがけに丸善により、松岡正剛『日本という方法』(日本放送出版協会、2006)を買う。この本もずいぶん面白い。日本をおもかげ・うつろいの国とし、アイデンティティの実質を持っているというより、多様なものを取り入れ日本化していくその方法にこそ日本的な本質がある、という主張で、その方法を「編集」というキーワードを用いて説明していく、というもの。あまりそういう視点で考えたことがない、というか編集というものの実質をどうとらえればいいのかだいぶ迷ったのだが、まだまとめて書くほどまとまっていないのでまたの機会に。

ピアノの森―The perfect world of KAI (1) (モーニングKC (1429))
一色 まこと
講談社

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それから2階に降りてきて『ピアノの森』の第1巻を最後まで読んで、じんとしてしまい、第2巻を買った。特急の中で『日本という方法』と『ピアノの森』を読んだのだが、『ピアノの森』は読めば読むほど感動してしまった。「一行を読めば一行に驚き、一篇を読めば一篇に驚く」と子規が感嘆したような感動の仕方。全くけれんみのない直球のストーリー。純粋な音楽の世界と野卑で野蛮な、あるいは陰湿で策謀渦巻く大人の世界。どうしてこんなにストレートに感動するんだろうと首をかしげ、またある場面に出くわして心を奪われる、ということの繰り返し。結局昨日仕事が終わったあと、10時過ぎに車を飛ばして蔦屋で3、4巻を買い、あっという間に読了してしまった。

今朝は5時過ぎに起きてモーニングページを書き、いろいろなことについて考える。内観的な身体の内部の観察の仕方についてや、「カンがいい」とはどういうことか、というようなことについて。7時半に食事に行き、8時半過ぎに車で八ヶ岳の山麓に出かける。今日は雨。日蝕はみられそうもない。山麓で少し話をしたり準備をしたり見学したりし、11時ごろ出る。帰りに蔦屋により、『ピアノの森』5、6巻を買う。帰ってきて読んでさらにさらに感動。ストーリーとしては単純な構成、また、絵柄としても見た目でいい人か悪い人かがわかる古典的な描写。絵がとてもきれいなのと、コラージュ的な表現、比喩的な表現、文学的な表現、音楽的な表現、さまざまなものが組み合わされて「そのピアノの素晴らしさ」がこれでもかと表現されていく。交通事故、愛する人の死、将来への絶望。最悪の環境に育った少年、森の中のピアノ。そうしたさまざまなもの、そうその一つ一つがある純粋性をもって交響詩を織り成していく。一つ一つが粒だっている。余計な挟雑物がない。まさに「素材を吟味した」プロの味わいだ。一つ一つの要素がすばらしいものだけで構成すればこれだけのものが出来る。そういうことに本当に滂沱の思いがした。

昼食後、いろいろ片付けて、続きをどうするか迷ったのだが、『ピアノの森』はいずれ成長後のストーリーになるのだから、小学生時代のところの最後まで読もうと思って7、8巻を買いにいった。いきがけに綿半によって純露とトルコ桔梗を買う。帰ってきて読んだら、小学生時代は7巻で終わりで、8巻からは5年後、高校生になった雨宮が帰国し、海に会いに来るところから話が始まっていた。

小学生時代のストーリーは、ピアノを引く純粋な喜びが表現されているシーンが本当に胸を打ったのだけど、高校時代になると少し性格が変わっている気がする。今はとりあえず、小学生編の余韻に浸っていたいと思う。

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