ツイッターと携帯百景/カント『美と崇高との感情性に関する観察』

Posted at 09/07/15

昨日帰郷。いろいろと飛び込みでやらなければならないことが入ったり、予定がずれ込んだりしてがたがたしてしまう。仕事は10時までかかったが、連絡がいまいちうまく行かなかったのがあって、新しく仕事がきちんと入るかどうかが心配。何とかなりますように。

今。午後1時15分。自室でブログを書いているわけだが、窓を開けっ放しにして風を通している。今まで梅雨の間、その前のまだあまり暖かくない間は窓を開けていなかったので、いきなり風を通すと思いがけないところにほこりがたまっていて風が通った拍子にほこりが降ってきて驚いた。電気の傘の上を払い、窓の桟の上を払ったのでこれで大丈夫だと思うけど。

最近こういうくだらない日常的な内容をあまり書いてない気がするが、それはツイッターの方で実は書いている。こういうくだらない内容を読んでもいいという人はこちらをフォローしてみてください。こういうのもアクセスにこだわる心理と同じで、数字があると増やしたくなる本能のようなものがあるみたいだ。受け狙いで面白いことを書こうとしても滑るところも一緒。携帯百景のほうは投票ボタンがついていて、「5nice!」とか表示される。いにしえの日記猿人を思い出す。今のところまだ二桁nice!がないのでそれが当面の目標。(笑)でも普通の人は「トリビアの泉」の「80へぇ」とかを思い出すんだろうな。

ツイッターは何でも断片的なことを書けばいいので、これは使ってみるとかなり面白い。自分の書いたことだけでなく、人の書いたことを読んでいても結構面白いなと思う。何が面白いのかはまだいまいちよくわからないのだが、分析してみると面白いかもしれない。携帯百景は携帯で撮った写真にコメントをいれて表示するという単純なシステムで、「写真でお手軽ミニブログ」と銘打たれているが、ツイッターと連動していてこれも面白い。ツイッターが世界中で爆発的に普及しているらしいことはイランのニュースなどでもわかるが、携帯百景は日本国内のことだろうけどはまっている人は結構多いと思う。

先週注文していた本二冊は土曜日に届いたのだが、あまりちゃんと読んでない。『非論理的なひとのための論理的な文章の書き方入門』は役に立ちそうなんだけど、まだ読んでない。論理的な文章を書こうという思考があまりないからなんだと思う。書こうと思えばいくらでも書けると思っているからでもあるが、案外そうも行かないんだろうと思うけど。

『マンガエロティクスf』という雑誌をぱらぱら見る。いまいちエロなんだか何なんだかよくわからないのだけど、おがきちか「侍ばんぱいや」が掲載されていたので買ってみた。山本直樹とかが載っていて、久々に読んでみたがやっぱり暴力的なエロだ。というより、セックスというものの暴力性を描き出そうとする作家なんだなと思う。

……いきなり隣の家でえらい音で草刈り機が稼動し始めた。窓を閉めると暑くて仕方ないし、夏の田舎はこういうことが多くて困る。文化的な洗練度が低いんだよな。

上座敷に移動して本を読んでいたら気持ちよくなって寝てしまった。

美と崇高との感情性に関する観察 (岩波文庫 青 626-0)
イマヌエル・カント
岩波書店

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カント『美と崇高との感情性に関する観察』(岩波文庫、1948)読書中。現在20/82ページ。カントがこんなに親しみやすく読めるなんて全く予想外だった。やはりテーマによるんだなと思う。旧字旧仮名遣いでも気にならない。こういうのは内容次第なんだと思う。「美」と「崇高」について、対比して説明している。私はバークを読んだときにこの二つの概念について知って強く興味を持ったのだけど、バークの美学書そのものはなんだか難しく、結局読みこなせなかった。カントの方がずっとシンプルで説明もわかりやすいし、体感的だ。そう、そこが意外なのだけど、カントはもっと認識論的な観念的な難しいことばかりいう人だと思っていたのだ。新カント派と呼ばれるグループがアメリカにあるけれども、プラグマティカルなものを好むアメリカ人がカント、というのは意外だったのだが、こういうのを読むとカントも(アメリカ人にとっても)ありなんだなという気がした。

まだ最初の方を読んでいるわけだが、「もの尽くし」になっている。清少納言が『枕草子』で「うつくしきもの」を列挙したように、これは美、これは崇高、と羅列している。カントはもっと論理的な取り付く島もないような書き方をする人だと思っていたのでそのへんも意外だった。「夜は崇高で、昼は美である。…崇高は揺がし、美は唆(けしかけ)る。崇高なるものは常に大きくなくてはならぬ。美なるものは小さくてもいい。崇高なるものは単純でなければならぬ。美なるものは磨かれ、飾られていてもいい。…悟性は崇高であり、機知は美である。勇猛は崇高で偉大であり、奸策は卑小であるが美である。」等々。

ものづくしなんて原始的な書き方だとなんとなく避けていたが、カント大先生がやってるならわたしもやってもいいな、と思うくらいには私も権威主義を背負ってはいるなと思うのだけど、何が美で何が崇高かというのを理解させるのに、こういう「列挙」という方法が一番適しているということは確かだと思う。つまり、原則は提示しているけれども、それを具体的な事物にあてはめたときにどう解釈されるかははっきりしているとはいえないから、カントが率先して場合分けをしてみせることで、その概念の大体の傾向を読者につかめるようにしているわけだ。親切だ。

バークを読んだときは、自然の雄大な景観は崇高で、人が作った人工物のうつくしさが美だ、というくらいの理解だったのだが、カントのほうはもっと踏み込んでいて、人間の性質にも崇高性と美性がある、という見方だ。勇気は崇高で洗練は美だ、というのはなるほどと思う。どちらも人間としての美しさではあるが、勇気は自分自身を超越していこうという志向性を持っているわけだし、洗練はできる範囲で自分を充実させようという志向を持っているわけで、その性質は明らかに違う。

もちろんこの話はそう簡単な二項対立で終わるわけではないのだけど、まずはっきりとした二項を立てることに意味がある。書いてあることは単純かもしれないが、カントの単純さなら味わう意味がある、という感じがする。カントもまた、崇高を志向している人なのだと思う。

閑寂な上座敷で電気もつけず寝っ転がってぼおっと空を眺めながら本を読んでいると、ある意味至福とはこういうことだなと思う。私が落ち着くのは、飾り付けられた美しい空間よりも、何もなくても充実した座敷の空間とかだなと思う。こういう空間は美なのか崇高なのか。室町時代の大名茶が美を志向しているとすると、村田珠光に始まる侘び茶はやはり崇高さを茶室に持ち込む工夫だろう。座敷とか日本の先人が作り出した空間は、単純な美よりもより侘びた崇高さに似合う空間だとは思う。崇高さをコンパクトにしたというのはさすが縮み志向の日本人というべきか。

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by Luke Peterson

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