コルシュノウ『だれが君を殺したのか』/青春のバイブル

Posted at 08/10/15

だれが君を殺したのか (世界の青春ノベルズ)
イリーナ コルシュノウ
岩波書店

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コルシュノウ『だれが君を殺したのか』(岩波書店、1983)読了。主人公は高校生、親友が事故死とも自殺とも取れる死を遂げてから一週間、そのあいだにいろいろなことがあり、ある種の地獄めぐりのような日々を経て、立ち直るまでの物語。

主人公、語り手はマルティンだが、実質的な主人公は親友で死んでしまうクリストフの方だろう。もう一人重要な登場人物は共通の女友達のウルリケ。ミュンヘン郊外の開発により崩壊しつつある農村、オーバーリート村での出来事。マルティンはクリストフの死が回りのおとなたちの無理解によるものと考え、世界に背を向けていくが、数学教師マイヤーや自分の父と話をすることによって「おとな」というもの、「大人になる」ということを少しずつ理解していく。最後にウルリケの告白によってクリストフが追い詰めていたものの真相を知り、そこで決定的にクリストフの虚無的な世界観への没入から救われる。

河合はこの小説を絶賛しているが、私は少しひっかかる。進歩主義礼賛みたいなところがあるが、それはドイツの知的風土なのだろうか。『朗読者』を読んだときもそれは感じたけれど。確かにアムネスティ・インターナショナルを批判的に見ているなど単純な進歩主義ではないが、それでも進歩は基本的によいことだし、ステロタイプな俗物的な大人の描写などはどうもあまり単純すぎる気がする。また、古くからの村人たちに秘められた異分子への攻撃性とホロコーストの比較も単純すぎる気がする。このあたりに私は現代ドイツの過去と、ことにナチスと訣別しなければならないというある種の性急さ、その性急さは伝統すべてを一緒くたに否定しようとする日本でもありがちな左翼的な性急さと共通のものを感じて、少し嫌な感じがする。

しかし20歳前くらいの少年たちの純粋性の追求による、それ自体は至極もっともな、しかしガラスのような世界観を描くのに、この小説は成功しているなあと思う。観念としての世界像は完成しても、実際に世界を生きていくことの本当の意味をとらえきれていない、それは大人になって自分の足で立つ前の、足弱の少年たちにとっては無理のないことなのだが、そういう状態の少年たちが少しずつ自分の足で立つことの意味を知っていく、そして自分の足で立つことが出来て初めて異性との問題も地に足がついたものになっていく、という至極真っ当な少年たちの成長を描いた物語だ。

しかし正直言って読む前の方がこの小説は面白く感じた。読んでしまうとどうということはない、というか、まあはるか昔にあたりまえのことになっていることが書かれているわけだ。だから、やはり10代後半から遅くても20代前半に読むべき本だということなのだと思う。その時期に読めば、何か行き詰まっているものがある人に、ある程度のヒントになりえるかもしれない。そういう意味では「悪くない」本だと思う。

というか、めぐり合わせによっては、『青春のバイブル』になってもおかしくない本なんだろうなと思う。私のあの頃の『青春のバイブル』は高野文子の『絶対安全剃刀』だった。なんていうか、あの本を読むと「生きていてもいいな」という気になったのだ。深刻主義は嫌いだけど健気なのは好きで、という自分のパターンが既に出来てるんだなと思う。深刻主義が嫌いだから他の人のが深刻に考え込んでいるのが理解できず理解できないということを深刻に考えているうちに深刻に考える病にはまり、かなり長い間それを患ったなあと思う。深刻に考えないということは事態をそのままにして放っておいていいというわけではなく、解決するためにあらゆる手を打つということではあるのだが、結局はすべて手を尽くすその手数を惜しむから自体の深刻さに巻き込まれてしまうわけで、そういう人の様子を見ていてそれを自分もまねをしてしまうというあまりよくないパターンに後にはまった。

しかし、原点に帰ってみると、深刻主義に陥らず、でも健気に頑張ろうよ、みたいな考えが私のデフォルトなんだなと思う。そんなことを思い出せたのも、こういう本を敢えて今読むことの効能なのかもしれないと思った。

絶対安全剃刀―高野文子作品集
高野 文子
白泉社

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