楊逸『金魚生活』:日本語で書く中国人作家のユーモアとペーソス

Posted at 08/09/18

文学界 2008年 09月号 [雑誌]

文藝春秋

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昨日入手した楊逸「金魚生活」を読み、読了。『文学界』二段組で50ページ強。100枚弱の作品か。楊逸の作品を読むのは二作目だが、そのためか『時が滲む朝』よりずっと早く、すんなりと読めた。前作と同様、中国での生活の風俗、日本における在日中国人たちの生活の風俗が描きこまれている。このあたり、やはり日本人とは味付けが違うことは感じるが、まわりくどさがない筆致なのですんなりと読める。やや胸焼けを感じるが、それは風俗の違いからくる彼我の「生活の濃さ」の違いで、この濃度が良くも悪くも楊逸の作品の特徴と思われる。もうはるか昔に読んだので漠然とした印象しか残っていない魯迅『阿Q正伝』を髣髴とさせるところがある。それもまた「濃度」の問題なのだと思う。

また、「内面」というもののあり方が彼我で異なるのではないかということも感じた。これは韓国に行ったときに感じたものとも似ている。ヨーロッパやアメリカに行ったときに感じたものとは異なる感じがする。表面に何を表現するのが正しいのか、という基準はその国、その文化によって異なるのだが、その違和感はヨーロッパの人に対して感じるものとまた違うものがある。

うじゃうじゃいる民衆の一人としての私、という自覚が、日本の文学とは違う感じがする。日本の文学は基本的にはインテリの文学であるし。私は読んでいないが、ケータイ小説などにむしろ近いのかもしれないと思う。セルフリスペクトがあまり高くない、というふうにいえばいいか。しかしそのあまり高くなさ、というのもケータイ小説とはやはり異質だなと書いてみて思う。どんなにインテリでもいざとなったら皿洗いから再スタートできるたくましさ、というのが彼らに感じるものだ。

エピソードが次から次に出てきて中国での生活、在日中国人の生活や考え方がこんなふうなものなのかと全然知らないだけにそういう面で「知識を得た」という感触が残るのだが、中でも印象に残ったものを一つ。ややネタバレなので読む予定の方は一段落飛ばして読まれたい。

主人公は夫を失い、娘が日本で働いていて、その出産を助けるために東京にやってきたのだが、在留資格を得るために日本で再婚することを娘に勧められる。そして主人公のいくつもの見合い話がこの小説の後半に多様なエピソードを提供するのだが、その中の一つに寝たきりの老人との縁談がある。娘はドライに割り切って在留資格を得るためには最も望ましい話だ、と喜ぶが、その老人の娘たちに話を聞くと、長野県に住む寝たきりの老人の世話を月3万円ですることが条件で、遺産相続を放棄するということも現時点で承認しろという話であることが判明し、娘は憤然と席を立つ。「中国人を馬鹿にするな。月三万円は安すぎる」と。

在留資格を得るために日本人の独身男性に近づいて結婚し、婚姻届を出したら雲隠れした、というような日本人男性が被害者になる話はよく耳にしていたが、在留資格をだしにして老人の面倒を見させ、あとくされが残らないようにしようという日本人もいるというエピソードだ。こういう話は日本人の側からはなかなか出てこないだろう。そういう抜け目のないたくましい日本人もいるのだという話は何だか可笑しいなと思った。

こうしたエピソードに日本人の差別意識を読み取り批判する論者もあるだろうが、民衆レベルでは結局はお互いのエゴとエゴのぶつかり合いであって、お互いに「敵もさるもの引っかくもの」なのである。「月三万円」に怒る中国人の娘の取引感覚も、ユーモラスに描く楊逸ならば、結婚したはずの相手が消えて途方に暮れる日本人男性のややのんびりした哀しみも、人生模様の一つと大きく鷹揚に受けとめ、描き出すのではないかと思う。

楊逸の作品は、基本的にこのユーモアと人情の機微に接するペーソスのようなものがその作品のボディであるように思う。それは一つには、年齢的なものもあるだろう。『時が滲む朝』ではそういうものがやや抑え目にされていて大きなテーマに焦点があたっていたが、彼女の持ち味はむしろこういうものだろうと感じられた。

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by Luke Peterson

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