堀田善衛『広場の孤独』/倫理と感傷の相互乗り入れ

Posted at 08/09/16

広場の孤独・漢奸 (集英社文庫)
堀田 善衛
集英社

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堀田善衛『広場の孤独』読了。大変よい小説だった。びっくりした。こういう作品を書く人なのかと。小説として面白い。オーストリアの亡命貴族で現ブローカー、なんてロマネスクなキャラクターを引っ張り出してもちゃんと芥川賞が取れるんだと驚いた。というか、芥川賞を見直した。このキャラクターにリアリティがあるかどうかは意見が分かれるところだと思うが、朝鮮戦争の混乱期の東京と、第二次大戦末期の混乱期の上海に主人公のカップルとともにそこにいたという設定は充分ありえるなあと思う。というよりも、世界的にみればこの程度の人物設定は全然OKだと思うのだが、日本の純文学はそういうところがやや厳格すぎるような気がする。

登場人物もうまく類型を書き分けている。逆にいえば登場人物が類型的であることを弱点として指摘することも出来る。これは一つの寓話だと思えばいいという気もするし、「三酔人経綸問答」みたいなものだと言ってもいいように思う。あるタイプを代表するような人なので、ストレートに分りやすい、ということの功罪だと言ってもいい。しかしそこにシンプルな力強さがあることも確かなので、私はそのあたりも含めて好きだ。

コミットメント、という問題をめぐって話が展開する。構図がはっきりしているので書こうと思えば構図はすぐに書けるのだが、それを書いてしまうとつまらないので省く。ただ、サンフランシスコ講和条約の前には、どの国にもつかない、という「光栄ある孤立」のような夢を描けた時代だったのだ、ということは印象に残った。アメリカや資本の側にコミットしたくない。かといって共産党やソ連の側にも。そして生きていることによって否応なく国際情勢という化け物に飲み込まれていく。主人公は国際情勢から逃れて亡命することを最後に拒絶するのだが、それもまた一つの夢の表現であり、決意でもある。

日本がアメリカにつく、ということに忸怩たる思いを抱いている人は現代でも日本人に少なからぬ割合でいるはずだ。日本がもし敗戦国でなかったら、どこの国にもつかないということも可能だったかもしれない。しかし敗戦という現実を受け入れさせられ、さらに国際情勢に巻き込まれ二大陣営のどちらかにコミットせざるを得ない現実も飲まされていることへの知識層の苦しみを描いたという意味では現代でも十分に読める作品だ。

また、占領末期の風俗もとてもリアルに描かれていて、こういう時代だったのかと肌で感じられるところがある。

「堀田善衛の『広場の孤独』の出現は、ほとんど一つの事件として迎えられた。
 彼が芥川賞をもらったとき、その受賞記念会の席上で信州の講演旅行から駆けつけた中野好夫が、「伊那の谷では『広場の孤独』をまるで四書五経を読むように熱心に読んでいて、一字一句についてまで質問が出る始末」と語ったそうである。」(『日本の文学』第73巻解説・村松剛による)

この感じは分る。とにかく構図が非常に明晰なのだ。逆に個人の描写という点では曖昧なところもあるのだが、それは構図にうまく収められている。傑作だと思う。

なお、田舎の図書館で全集を借りたのだがどうも読みにくいので、月曜の朝東京の図書館で文庫本を借りてそちらで読んだ。同時収録が全集本が「鬼無鬼島」、文庫本が「漢奸」。「漢奸」のほうは多分読むと思う。「鬼無鬼島」は余裕があったらということになるか。

それにしても戦後という時代は、この本が出てから11年後に生まれた私にはわからないことが多いなあと思う。

***

コミットメント、ということについて少し書こうと思う。人は無意識に何らかのものに否応なくコミットしている。先進国で飽食を楽しんでいることに気がついたとき、自らも途上国の飢餓にコミットしていることに気づく、というように。そしてその気づきは、何らかの運動への目覚めに発展することも多い。逆にいえばそのコミットメントを自覚させることがオルガナイズの重要なテクニックにもなるわけだ。

私は左翼のオルグは相当受けたが結局コミットすることはほとんどなかった。自分でコミットを感じて運動に前向きに賛同したというのは拉致問題に関してだ。いずれにしても、連帯という問題、誰を敵とし誰を見方とするのかという問題、運動というものはさまざまなことが関わってくる。左翼的な運動もあれば保守的な運動もある。楊逸の『時が滲む朝』の主人公もコミットメントへのこだわりがあるが、現実的な中国人たちがあっというまにそういうことに関心を失っていく様が描かれていて、中国人たちのたくましさというか、そういうことにこだわらないオポルチュニズム的な強さというものに圧倒される。そのあたり、中国人を見ていてかなわないなあと思うところである。いい意味でもそうでない意味でも。

話を戻すが、人は直接的なコミットメントより間接的なコミットメントの方がより印象に残るのだと思う。見慣れているものにはあまり違和感を感じないが、見慣れないものには強く違和感を感じるからだろう。目の前の人には辛くあたっても平気だが、縁の遠い人にはいい人であろうとする。コミットメントは、倫理と感傷が相互乗り入れする地点でもある。

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