幸福は日本では新しい概念である

Posted at 08/08/08

昨日。朝9時から仕事、12時過ぎに昼食。2時からまた仕事で夜9時半まで。このスケジュールもあと3回ほどか。今日もそうなのだが。

昨日新しい仕事が舞い込み、今日から始まる。仕事が入ってくるのはとにかくありがたい、忙しくはなるけれども。人間まずは経済基盤、ということはある。

仏教が好き! (朝日文庫 か 39-1)
河合 隼雄,中沢 新一
朝日新聞出版

このアイテムの詳細を見る


忙しいのでなかなか新しいこともできないが、河合隼雄・中沢新一『仏教が好き!』は読み進めている。現在218/302ページ。仏教が否定という方法論をとっていることについて。興味深い。これは佐藤優と亀山郁夫の対談本にも出てきたプロテスタントの「否定神学」の話を思い出した。定義するのではなく、「~ではない」、という形の語りで話を進めること。結局、「中心」には踏み込めないということ。「中心」の周りをぐるぐる巡回する、ということになるという話。この話はこの話としてよく分る。言葉ではいえないものを敢えて定義することはしない。「語りえないものについては沈黙しなければならない」ということ。

もう一つ面白かったのは、仏教には「幸福」の概念はない、という話。あるとしたら、生物としての「楽」の概念ではないかということ。「幸」、という概念は山幸、海幸のように協会上で霊力をうまくコントロールすると獲物をうまく得られる、という「縄文的」な概念で、「福」は常世の概念、無尽蔵の生命と関係しているのではないか、という見解。つまり幸も福も、やたらと古代的な、現世肯定的な概念で、出世間的な仏教とは無縁だということ。だから明治以前、日本には幸福という言葉はなかったし、明治になってhappinessやbonheurの訳語として引っ張り出されたのだという。こういう言葉は漢籍や仏教後から引っ張り出されるのが普通なのだが、happinessに該当する概念がそれまでなかったのだという。フランス革命のとき、サン=ジュストが「幸福はヨーロッパでは新しい概念である」と言ったけれども、明治維新の日本においては「幸福は日本では新しい概念である」だったわけだ。

確かに幸福って、一体何をさしているのかよく分らない。百人百様の幸福像でいいんじゃないか、とまあ私も思っていたが、じゃあ幸福という言葉が存在する意味自体があるのかどうか不明だ。そして存在することによって幸福という幻影を求めて人々が彷徨うということになってしまった気もしなくはない。考えもしない頃は気にもならなかった青い鳥が、気になり始めたら追い求めずに入られなくなってしまったような。幸か不幸か。さてどっち。

精神分析を受けに来る人は、別に幸福になりたくて来るわけではなく、「楽」になりたくて来るので、そういう意味では仏教的な、幸福とは無縁の、「苦のない状態としての楽」というものが必要だという人が来るということになる。幸福にはお金とされているが、楽に生きるには金は必ずしも必要ではないのではないか、というようなこと。このあたりの議論、なかなか面白い。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday