『蟹工船』読了/もう永遠に空想の娘らは来やしない
Posted at 08/05/30
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昨日は仕事は前半は忙しくなりそうな雰囲気があったのだが、後半は一気に暇になった。たまには早く帰るのもいいかなとは思ったが。夜は早めに食事をし、早めに入浴し、早めに就寝。そのためか、今朝起きたら5時半。このくらいに起きられるといろいろが朝のうちにやれてありがたい。モーニングページを書き、活元運動をしてから歩きに出て、職場のゴミ捨てなど。自宅に戻って父に愉気、朝食。まだ仕事の時間ではないが職場に来て必要な仕事を片付け、今日記を書いている。
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小林多喜二『蟹工船』読了。なるほど、こういう作品なんだ。いろいろな描写をして、また共産党的世界観を展開し、これでもか、これでもかと盛り上げていくところはよくできている。今、こういうものがなかなか上手くできないのは、こうしたストレートな盛り上げを図れるような事例がなかなかなく、また現代人がより鬱屈しているからだろう。この中に描かれている漁夫たちの生態は、あまりにも素朴でストレートでめまいがするくらい。最後が結局アジテーションなのは、もちろんそういうものだからだろう。「お約束」という言い方をするには当時の人たちはもっと素朴な「正義感」とか「怒り」をもって読んだり書いたりしていただろうから、ちょっと当てはまらないというか現代に偏した見方になると思う。
そこまでの描写がどれだけ生き生きしたものになっているかがこうした作品の命だと思うが、その点でこの作品がかなり成功しているといえるだろう。「お約束」というよりは「マルクス主義の公式」にどれだけ命を吹き込むかがプロレタリア文学の成否がかかっているわけで、そういう意味で最上の作品だと思う。
書かれている内容については、具体的な描写の部分に関しては実際こういうこともあったんだろうなと思う。しかし、日本の戦争は全部大金持ちの資本家がたくらんだものだ、などという現代から見れば素朴すぎる歴史観が入っている。当時の共産主義運動の公式見解がそういうものだったのだろうし、そうした限界を超えることを望むのはないものねだりだろう。そのように考えてみると、今この作品がワーキングプアの人たちによく読まれているということの意味は、そうした公式見解よりも、具体的な労働者の惨状に思い入れられる部分が強くあるということなのだろうと思う。
この作品の最終的なメッセージは、団結すれば勝てる、ということだと思うのだけど、それがどのようにワープアの人たちの救いになるのか、その具体的な道筋はよくは分らない。何にしても、彼らの状況改善の一助になるならそれに越したことはないが、私が想像するような道筋とは違うんだろなとは思う。ただとにかく、毎日を生き抜く力がこの小説を読むことで生まれるなら、多分それでいいのだろう。こういうものを今まで読んだことのない人たちにとっては、ひとつの大きな刺激にはなるのかもしれないと思う。
私自身にとっては、大学時代にいまだ残存していたセクトのお兄さん方と議論させていただいてこういう議論の展開にはかなりイヤな思い出が残っているので、基本的にはあまり付き合いたくないものではある。しかし世の中にこういうことがあるということ自体は否定できないし、またその世界にしかないユーモアとか暴力を媒介にした人間的なパワーの目覚めのようなものもあるわけで、見たくはないけどたまには見ておいた方がいいことなんだろうなとも思った。
作中、船内で映画を見る場面があるが、それを読みながら会田雄次『アーロン収容所』に描かれた捕虜にされた日本兵たちが収容所で自分たちの仕事の技術と創意工夫ですごい芝居をやってしまう場面を思い出した。また、小林よしのりの『戦争論』の中に出てくる、ニューギニアの演芸部隊が現地の部隊を公演して回ったときの話とかも思い出した。過酷な毎日にあってこうした催しがいかに人の心を救うものになるか。芝居とか演芸とか芸術というものの真の価値というか、そういうものを考えさせられる。そういうものに飽き飽きしている現代人の満腹感ではなく、そういうものに飢餓状態になっている極限状況での文化の価値というものは、想像を絶した圧倒的な至福に近いものがあるのだろうなあと思う。
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萩原朔太郎『青猫』の一遍、「野鼠」。
ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても
もう永遠に空想の娘らは來やしない。
このフレーズは、近藤ようこ『見晴らしが丘にて』の中の一作品に引用されていたのを思い出した。こういうのを見つけると、いろいろなものがつながってきてとても気持ちがいい。
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| イロニーの精神 (ちくま学芸文庫)久米 博,ウラディミール・ジャンケレヴィッチ筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』。24/280ページ。私はボードレールやそれを受けた西脇順三郎の「イロニー」観を理解しようと思ってこの本を読み始めたのだが、どうもジャンケレヴィッチはそういうものに批判的であるようだ。象徴詩に見られるようなすべてを曖昧にするイロニーの使い方について、ヘーゲルの「夜になれば、どんな猫も灰色だ」という揶揄を引用している。この当たりを読んでいると、桜井章一が書いていること、月明かりの中で路上のゴミを見るとはっとするくらい美しいことがあるが、でも太陽の光でみれば、やはりゴミはゴミなんだ、という言葉を思い出す。美とは何か、ということについては、まだまだ考えなければいけないことが多いなと思う。
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『文芸読本 萩原朔太郎』を少しずつ読む。勉強になる部分が出てきた。しっかり読み取ろうと思う。
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