カラマーゾフの兄弟

Posted at 08/05/11

昨日。昨日は引き続き『カラマーゾフの兄弟』3巻を読み続け、また『文芸時評』を読み、またポーの試訳を続けた。詩作もいくつかしたが、今ひとつ。午後から仕事、6時半に引き継いで上京。朝から雨が降っていた。特急は空いている。寒いせいでかなり疲れ、また体調もおかしいところが出てくる。本当に寒いということは、それだけで万病のもとだなという気がする。このくらいの気候変動に影響されないくらいには強くありたい物なのだが。

今朝の東京も朝から雨が降っている。外が薄暗かったが、さっきから窓が明るくなってきた。午後は晴れはしないが、雨が上がることはあるだろう。出かける当てもできたので、少し出て行こうと思う。

The Fall of the House of Usher and Other Writings: Poems, Tales, Essays and Reviews (Penguin Classics)

Penguin USA (P)

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ポーの詩を訳していると感じることは、普通は使わない魔術的な語彙が多いため、英語の不思議な世界に彷徨いこむ感じがすることだ。ただ、米英の人々が持っているそうした魔術的なイメージの観念は私たちの持っているそれとは違うために、なかなか感得しにくいところが多い。今訳しているのが若い頃の作品であるということもあり、若さゆえの気負いからか表現がより込み入ったものになっているのではないかという気がする。それはそれで面白いのだが。

文芸時評―現状と本当は恐いその歴史
吉岡 栄一
彩流社

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『文芸時評』現在第7章途中、140/446ページ。現状を述べた上で文芸時評の歴史を明治から遡って検討している。現在昭和戦前期のところだが、唖然とするくらいステロタイプな「軍国主義」史観に基づいて論を展開しているので驚いた。文学者というのはそういうものなのかな。特に小林秀雄に関しては、そういう線からの批判をかなり持っていることは見受けられた。ただ、小林の考え方についての理解はどうもあまり深くないことは察せられる。批判のためにわざと入り込み過ぎないようにしているのかもしれないが。特に小林の「戦争責任」を追及しようというような論の展開が時々出てきて、私は基本的に小林の信奉者なので、やんのかおら、どこ中だてめえ、みたいな気持ちになったりするわけだが、だからといってその問題に深入りすることなく、するっとスルーしていくので拍子抜けではある。文芸時評に客観性はあるのか、文芸時評をするものの心構えはどうあるべきか、という問題以外は基本的には深入りはしないのである。そのあたりは食い足りないが、ある意味クレバーな論の展開なのだとは思う。しかし「司法の喋りすぎ」のように、補足みたいな感じで嫌味な見解を紹介したり、しれっとプロレタリア文学理論を科学的だといってみたり、微妙な部分はある。このあたりは全部読んでから総括するしかないだろうけれども。

カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー
光文社

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しかしなんといっても昨日読んだものでもっとも感動したのは『カラマーゾフの兄弟』だ。第9編まで、そんなに面白いとは思わずに読んできたし、だいたい去年の9月に読み始めて第8編まで読んだのだけど7ヶ月間中断していた。亀山郁夫+佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』を読んで改めて読む気を刺激されて再び読み始めたのだけど、第9編もドミートリーの尋問のところはそんなに面白いというほどでもなかった。

尋問される側の気持ち、何を誇りに思い、何を恥辱に思い、何を守りたいと思い、何を取るに足りないと思うか、取り調べる側と取り調べられる側の価値観が全く乖離している場合、これはひどい悲喜劇になるのだと思った。テレビで取り調べ場面を見ていると沈鬱に押し黙った場面ばかりだが、ドミートリーは全く躁狂的で、言わなくていいことまで喋り捲っている。ただこのドミートリーという人格はそうした場所にあわせて振舞う狡さのようなものが皆無であり、そこに貴族的な精神というものが感じられるのだなと思った。そういうことを考えながらは読んでいたが、ものすごく面白いというほどではなかったのだ。

しかし証拠調べで身包み脱がされることによって、ドミートリーは大いなる恥辱を感じるのだが、それによって人格的な変化もまた起こったように思われる。その憑き物が落ちたような有様ははっとさせられる。そして、昨日読んだうちで最初にはっとしたのは以下のような場面だ。

「窓の外を見てもいいですか?」とふいに予審判事にたずねた。
「ええ、いくらでも」と相手は答えた。
 ミーチャは立ち上がって窓辺に近づいた。緑がかった小さな窓ガラスを、雨が激しく打ち付けていた。窓のすぐ下には泥んこの道が見え、さらにその先には、黒く、貧しい、見栄えのしない百姓家がいくつも雨に煙っていた。百姓家は雨のせいでますます黒ずみ、貧しげに見えた。ミーチャは「金髪の巻き毛のお日さま」のことを思い出した。そういえば、最初の日の出とともに、ピストル自殺するつもりだったのだ。《きっと、こんな朝の方がよかったのかもしれない》彼は薄笑いをもらし、不意に手を下に払うと、「拷問者」の方に向き直った。

このリリカルな風景描写。ドミートリー(ミーチャ)の尋問場面の後にこの描写がくると、急に世界が開けるような錯覚に囚われる。この開放感はドストエフスキーを通り越し、もっと先まで見通せるような感じがする。どこまで見通せるか、ということは多分、書かぬが花ではあるのだが。ここで私は急に読み続ける興味が100倍に増した。やはりポエジーのある描写にぶつかると読みが活性化される。

次はグルーシェニカ(アグラフェーナ)の証言の描写である。それまであばずれの売笑婦としか思えなかった彼女が、ここに着て急に凛とした態度を見せ、見たこと感じたことをきちんと証言していく。「彼女のけわしい顔立ち、まっすぐで真剣そのもののまなざし、落ち着き払った物腰は、一同にたいそう好ましい印象をもたらした。」そして彼が父親殺しを実行すると思ったかどうか聞かれて、こう答える。

「いいえ、一度も信じたことなんてありません!」彼女は、しっかりとした口調で答えた。「彼の高潔さを信じていましたから」

そして自分を信じてくれと叫ぶドミートリに答えて、予審判事に言う。

「この人が今いったことを、信じてください!私はこの人を知っています。この人は、思ったことを何でも口にしてしまう人なんです。人を笑わせるためだったり、頑固なせいだったり。でも、良心に恥じることなら、絶対に嘘はつきません。真実をそのまま、はっきりといいます、それを信じてください!」
「ありがとうアグラフェーナさん、これで生きた心地がしてきた!」震える声でミーチャは答えた。

そして取調べ後、疲れきったミーチャは長持ちの上に横になって夢を見る。その夢についてはこの小説全体のテーマが関わってくるといっていいのだろう。内容に関しては書くと野暮になるので書かないが、ああこういう小説だったのかとここで初めて腑に落ちるような本質に関わる夢の描写である。ここにくるために、文庫本でまる三冊の小説の展開が必要だったのだ。

『カラマーゾフの兄弟』は4巻まで買ってあったのだが、中断していたので最後の5巻を買ってなかった。しかしこれで読了する目途がついたので、帰りに地元の書店に立ち寄って5巻を購入した。ついでに『宗像教授伝奇考』の3集も。

しかしそれにしても敷居の高い小説である。ここまで読み続けなければ本質に触れられないという小説はそうはないだろうと思う。

この尋問、予審の場面で私が感動したのは結局、詩的な場面であり、また演劇的な場面であり、また映像的な場面である。詩的な窓の外の情景描写、そしてグルーシェニカの証言の場面は、数多くの唐十郎の状況劇場時代の作品の裁判場面を思い出させた。『海の牙』『鉄仮面』など、唐の作品には多くの裁判シーンが出てくる。そして裁かれるのは李礼仙の演じる女性主人公なのだが、その裁判シーンで屹立する李礼仙が、まさにグルーシェニカの凛としたイメージなのだなと思ったのだ。そういう意味では、私はこの小説を演劇的に読んだことになる。また、ドミートリーの夢の場面は、タルコフスキーの映画を思わせる。非常に映像的だ。もっとも小説的な『カラマーゾフの兄弟』の中に、これだけ多様なイメージが内包されていることに私は嬉しくなった。

今朝は起きてから詩を書き、10時ごろからこの日記を書き始めたのだが、途中で友だちから電話がかかってきて2時間弱話してしまったので、少しアップが遅くなった。詩のアップもしようと思っているが、それは帰ってきてからになりそうだ。

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