The 美/左翼の文化ナショナリズム/月の出を待つ文化

Posted at 08/02/17

体調は、まあまあ回復。土曜の朝、対処法を電話で聞いて実行。自分で出来ることと出来ないことがあるのであれだが、当面はこれでいけるか。11時30分の特急で帰京、2時ごろ家に着く。『愛と悲しみのボレロ』を借りようと思って貸しビデオ屋にいったが見つからず。ジョルジュ・ドンの踊りが見たかったのだが。

愛と哀しみのボレロ

ソニー・ピクチャーズエンタテイメント

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Youtubeで探すと案外バレエ関係の映像があることが分かった。ベジャールの『春の祭典』や『ボレロ』も見たが、いくつか探しているうちにシルヴィ・ギエムの踊りがやはりすごいなと思ってそればかり見てしまった。

キトリ

同じく

プティパの振り付けのグランパクラッシック

エヴィデンシア(ギエムが制作した映像作品)

ギエムのキトリの踊りを見ていると、「美しいとはこういうことか」と思わされた。もちろんいろいろな美はあるのだけど、そういう「~の美」という限定がつかない「The 美」というものはこういうものかと思わされた。

午後丸の内に出かける。17日日曜はオアゾが全館休館なので土曜のうちにと。しかし日曜は東京マラソンで都心はどこも不便になるんだよな。丸善で『ダンスマガジン』を買う。

DANCE MAGAZINE (ダンスマガジン) 2008年 03月号 [雑誌]

新書館

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特集がまさにシルヴィ・ギエムなのだが、読んでいると要するにこの雑誌は歌舞伎における『演劇界』なのだなということが分かる。

演劇界 2008年 03月号 [雑誌]

小学館

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『演劇界』は演劇といってもほとんど歌舞伎のことしか取り上げてないし、歌舞伎界の動向ならこれを読めばたいていのことは分かるという感じで、『ダンスマガジン』もこれを読めばバレエ界の動向は手に取るようにわかる、という趣旨の雑誌だ。もちろん日本の演劇でほとんどの役者が松竹に所属し、歌舞伎座という明確な中心がある歌舞伎と、海外起源の舞踊で有名バレエ団や個人の来日公演がスポットを浴びるバレエとはかなり違う点もあるけれども、寄稿者が書いている内容、舞台評の雰囲気などが非常によく似ている。

キエフ・バレエの『ライモンダ』で「アブデラフマン」という役を踊るイーゴリ・コルプが表紙なのだが、こういう民族色の強い踊りも面白い。

「バレエ入門ABC」という企画も鑑賞者養成のためには役立つだろうなと思う。何より驚いたのは「パリ・オペラ座バレエ昇進試験」という記事で、フランスのダンサーの劇場内の昇進試験を日本の雑誌が取り上げている、という事実だ。そういうことがバレエ界では大きなニュースなんだなということを知ることが出来たし、まあたとえばそういう記事が歌舞伎で言えば名跡襲名みたいなことに当たるのかもしれないとも思った。まあそれにしてもね。次月号ではローザンヌのコンクールの特集もあるようだし、まあそんなふうに見ていくものなのかな。

日本の芸能とバレエとでは体の使い方がかなり、ある意味根本的に異なるわけだけど、でも同じ人間の体を使うわけだから共通あるいは類似する部分もないわけではないだろうとも思う。古武術の甲野善紀と近い栢野忠夫の体の使い方をやってみてこれはバレエと共通するものがあるなと感じたりもしたし、多分「体幹」の使い方の重要性などにおいては変わらないのだと思う。使い方は異なるんだろうけど。このあたりのところは興味がある。能役者の子弟がバスケットボールをしていたのが高校生くらいに体の使い方が異なるので辞めた、というような話をよく聞くのだけど、「踊り」に関してもそういうことはあるのかな。

小麦の価格が上がると日本人は米を食えばいいとか『報道ステーション』で言っていたが、政治的には戦後民主主義的・左翼的な報ステが食など文化面では一気にナショナリズムっぽくなるのが面白いなと思う。実際そういう人は多いだろう。バレエは今日本でもブームみたいだけど、からだの使い方がそういうふうに欧米化してしまうことに危機感を持つ人も武道や芸能関係の人には多いだろうと思うし、私もそういう危惧を共有する部分はある。

戦後のGHQの改革で日本の政治的ナショナリズムは徹底的に破壊されて、歌舞伎や武道なども弾圧の危機に晒された訳だけど、とりあえず生き残りはした。しかし西欧的なスポーツや芸能はこれをきっかけにして日本に一気にはいってきたということもまた事実だろう。もし戦前のような国民のメンタリティだったら、子どもに競ってバレエを習わせるというような現象は起きなかったと思う。いろいろな意味で、欧米的な文化に対する追い風というのはかなり強いと思う。

しかし、『文化』が日本のよりどころだ、と考える考え方もまた強いということが小麦論争などでもよく現れているわけだ。たぶん、鯨問題の本質もそのあたりであって、日本の政治的なナショナリズムについては欧米ではほとんど気にされてないのだ。まあ日本国内で潰そうとする勢力が強いからね。(東アジア諸国はまあ神経質に気にしてはいるが。)だから、日本の文化的ナショナリズムについてかなり突出して警戒心をもたれていて、ここを制圧すれば日本は「無害化」されると考えているのではないかという気がする。

私自身は結構逆で、日本的なものはもちろん維持していくべきだと思うけど、文化のレベルではもっと自由に緩く考えていいんじゃないかという気がする。しかし、政治的な、あるいはスピリチュアルな部分では日本的なものの重要性をもっと強化していくべきなんだろうと思う。

政治的な思考の自由のないその補償作用として文化的な面で日本というものの価値を言い立てるのはどうも何かみっともないような気がするんだけどな。日本はもっと自由な思考の出来る国になるといいと思う。

***

車中で上田篤『庭と日本人』を読了。いろいろ面白いことは多かったのだが、一番心に残ったのは、桂離宮は月を見るために作られた建築だった、という見方だ。なるほど、桂といえば月だし、日本の月見の文化は世界的に見ても割と珍しいと思う。また、太陽が出てくる瞬間、日の出のときを重要視されているということは分かっていたけれども、月もそうだということはあまり認識していなかった。満月が出たときに一番美しく見える建築、というのは考えてみたらすごいものだ。

庭と日本人 (新潮新書 246)
上田 篤
新潮社

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そう指摘されて考えて見ると、立待月・居待月・寝待月という言葉は、いずれも『月の出』を待つ、ということを前提とした名称だ。月見というもの満月ならいつでもいいというわけではなく、東の山の端から顔を出すところを見ることに意味があるのだ。そういえば花札の坊主もそうだな。

考えてみたら不思議なことだけど、今まであまりそう思ったことがなかった。日の出は待っても月の出を待った経験がないからだけど、文化って単純じゃないなと改めて思わされてしまった。

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by Luke Peterson

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