自治会/自我の肥大/ものすごい変態/江川卓と小林繁の和解/おたまじゃくしは蛙の子

Posted at 07/10/14

つ、疲れた。

今日は自治会の役員会。いつも頼りにしている総務・広報の部長がお休みで、名ばかりの副部長の私が書類一式を預かって書記から何からやることになった。別に何もないかと思っていたら作らなければならないお知らせが目白押し。12時に終わるはずの役員会の後、1時半までかかって何とか終わらせた。私は朝は食べないので、それから今日はじめての食事。蕎麦屋に行ってカツ丼と盛そばのセット。ちょっと食べ過ぎた。

しかしまだそれで仕事は終わっていない。今度の土曜日までにまたお知らせを作らなければならないのだけど、私はウィークデーはいられないし今度の土曜日も別の用事があるのででられないから、総務の部長をつかまえてそれを伝達しておかなければならない。さっき電話をかけてようやくつかまえて、書類一式を返却してようやく手が離れた。ホッとした。こういう仕事は気を使う。

私の知り合いが絡んだある芝居が大変なことになっていて、そのことについていろいろな人がmixiでコメントを書いていて、それを読んでいるうちにいろいろなことを考え出し、ちょっとmixiに書く。以下引用。

***

ある芝居について書かれている日記や、それにつけられているコメントを読んでいる。

それらを読んでいて、本質的な問題とは何かということを考えているうちに浮かんでくるのは、自我のインフレーションという問題だ。表現というものの最も原初的な手がかりになるのは、やはり自我であることが多いだろう。若い劇作家の作品が観念的だったり感傷的だったりすることが多いのは、自我に手がかりを求めるために必然的にそうならざるを得ないという理由がある。しかし、表現という行為を続けていくことによって、観客やスタッフからのフィードバックと、またそれに応えてあらたな表現を生み出すというキャッチボールの中で、自我の肥大化はある程度は抑えることが出来る。

自我の構造がある種の特権性を持っている三島由紀夫などの場合は、その特権性にある程度以上依拠した表現で十分作品性を持ったものを作ることが出来るのだろう。しかし彼は作品世界でなく現実の自己を破壊することに至ったわけで、自我の特権性に頼る作風で行くのは生易しいことではない。

そうなると、スタートの時期を除いては、いかに自我のインフレーションを防いで表現に磨きをかけるかということが表現者にとって心がけるべきことになっていく。特に多くのキャスト・スタッフを巻き込み、多くの観客から代価を取り身体の時間を拘束する演劇表現の場合は、劇作家の肥大化した自我の充足のために行われるべきでないことは明らかだ。(この文には、戯曲を書き、また現在でも文章表現を試みている私自身の自戒もこめているのだが)

年齢を重ねてみると思うのだが、実際否応なく自我というものは肥大化していく側面を持っている。これは、今現在の自分が『志を得ている』かどうかに特に関わることなのだろうと思う。『志を得ている』、つまり自分の毎日の活動に完全燃焼している人は、よけいな自我の肥大化が起こることはあまりないだろうと思う。(これはT君やS君の日記やコメントを読んでいて思うということなのだけど)

一方志を得られずに(こういう言い方をするといかにもアワレっぽいが要するに本人の姿勢が状況にまっすぐに正対で来ていないということだ)文字通り馬齢を重ねていくと、望みをかなえられなかった分の自我が火山灰のように降り積もっていく。自我は肥大化し、欲求だけは大きくなり、さらに傷つきやすくなり、そのため「自分を守ること」のみが巧みになっていく。自己防衛が狡猾になることで、自我の殻が完全に形成されると、自分でもそれを破ることがどんどん困難になり、生命が衰えていくことになる。

あるいは肥大化した自我に奉仕させるために多くのキャストやスタッフを巻き込み、あまつさえ公的機関の援助や外国の芸能者まで手駒に使い、それに対する反発を法的手段を駆使して抑え込むという文字通り帝国主義的な手法を取ったりすることにもなるのだろう。

それは侵略とか自慰行為というよりむしろ不能者によるハーレムの構築、あるいは奴隷を無意味に苦役させることでより空虚になっていく巨大な自我の王国の構築という奇観のように思われる。アングラシーンであざとく生き残り続けることによってそうした奇妙な願望を成就させる能力を身につけたのだろうか、と空想してみる。

いずれにしてもネットでこの芝居以外のことを含めて作者の人物像等さまざまなことを探ってはみたが、見ていない芝居のことについて想像するのは限界があるし、適切でもない。しかしやはりどんな芝居であれ、それに関わった人たちの真摯な姿勢がそこにあれば、見るべきものは必ず何かあるのだということを思った。その姿勢を搾取する人間の存在という巨大な負のメッセージに耐えられさえすれば、やはり見に行くべき芝居だったのだなと思う。

やはり芝居は見るべきもの。人間が真剣に取り組んでいるものであれば、どんなものであれ見る価値がどこにも見出せないということはあり得ない。そしてそれに向き合うことでしか、自分の中の表現の火を燃え立たせることは出来ないのだろうと思う。表現の火を燃やすことで肥大化した自我を燃焼させることによってのみ、「志を得ること」は可能なのだろう。

***

書いているうちに言葉がきつくなってくるのは私にはよくあることだ。真剣になればなるほどそうなるので、きつければきついほど文章としてはいいのかもしれない。このぎりぎりの真剣さでいつも書くべきなんだなあと思う。だいたい、肥大した自我の問題などというのは、半分は自分自身の問題だ。

昨日は昼過ぎから夜まで仕事をし、最終特急で帰京。仕事はまずまず忙しく。なんだか体がめっちゃ疲れて、肩がバリバリという感じ。早く寝ようと思ったが寝られず、2時近くになる。ただ、眠れないままつけていたテレビが(そういえば昨日はダルビッシュの完投劇をいくつもの番組で見られてハッピーだった)面白かった。NHK教育の学校デジタルライブラリーとかいう番組で、生物の不思議を撮った1~2分の短いビデオをいくつも流していた。中でも面白かったのはイセエビの幼生のフィロゾーマの変態で、ぺらぺらの1~2ミリの薄いフィロゾーマがいきなりぱきぱきと立体化していく変体の過程を映していて、まるでロボットみたいだった。イセエビが実はあんなものだったとは。あれはびっくりすること請け合いだ。(これを見ればちょっとは感じていただけるか。しかしあのすごさはやはり一定大きな画面で見てもらいたい)

朝は6時に目を覚まし、散歩に出かける。田舎では日の出は大体6時25分なのだが、東京では6時10分に外に出たときにはもう日が昇った後のようだった。経度にして2度くらいは違うから、時間にして8分は早くなるし、山がない分も早くなるから、明日は6時に日が出るというつもりで散歩に出ようと思う。この散歩のときに、さっき書いた芝居の感想を読んでの感想について考えていたのだ。

ザ・サンデーで「江川と小林の再会」というテーマのコマーシャルについてやっていた。味わいが深い。あれからもう28年か。小林ってホント雰囲気が歌手みたいな人だな。江川は野球選手以外ではありえないけど。

午後食事の後はのびていて、パリーグプレーオフ、もといクライマックスご一緒にを見ていたのだが、今日はファイターズはボロ負けしていたので見るのをやめた。もし日本シリーズに進出するのが中日とロッテになったら日本シリーズは「真の日本二を決める一戦!」ということになるな。まあいぢわるをいっても仕方ないので、とにかくファイターズに頑張って欲しい。それにしても武田勝が打ち込まれたってのはちょっとヤだな。

夕刻丸の内丸善に出かける。コミックガンボの先週貰い損ねたのを貰い、雑誌と岩明均『ヘウレーカ』(白泉社ジェッツコミックス、2002)を買う。

ヘウレーカ (ジェッツコミックス)
岩明 均
白泉社

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アルキメデスとシチリアの話をちょっと読んでみたい。それからショパンなど音楽関係の本を少し見たのだけど、どういうものから手をつけるべきなのかちょっと見当がつかない。音楽はただ聞くだけだからいいが、勉強しようとすると今まで身につけてきたような方法論と同じ方向性で理解が出来ないんじゃないかという気がする。伝記として読んでみて面白そうなのはモーツァルト、ショパン、ムソルグスキーの三人かなあという気がする。ただこの三人はもう特定のイメージが定着しすぎている感じがあり、私のようなものが読んで面白いのかどうかよくわからない。ただ、ショパンのお父さんが実は生粋のフランス人だったとか、ムソルグスキーがプーシキンの影響をかなり受けているらしいということなどは面白いなと思った。その辺を取っ掛かりにしてみれば読めるのかもしれない。

コミックガンボは相変わらず『トーキョー博物誌』が面白い。「おたまじゃくしは蛙の子」というたは実は相当素敵な歌詞だと言うことが分かって嬉しくなった。出来ればテノール・バス・バリトンの男声三部の重唱でアンダンテで歌いたい。

1.
おたまじゃくしは 蛙の子
鯰の孫では ないわいな     (なんで鯰やねん)
それがなにより 証拠には
やがて手が出る 足が出る

2.
でんでんむしは かたつむり     (何もいっとらんがな)
さざえの孫では ないわいな     (思いません!)
それがなにより 証拠には
つぼやきしょうにも ふたがない   (かたつむりはつぼ焼きしません!)

3.
風にゆらゆら 薄の穂
箒の孫では ないわいな       (無生物に孫がいるかいな)
それがなにより 証拠には
薄でどら猫 どやされぬ       (あへあへと力なく笑う)

4.
蛸入道は 八つ足
イカの兄貴では ないわいな
それがなにより 証拠には
イカに鉢巻 できやせぬ        (蛸にも鉢巻はせんぞ!)

蛸はそういえば蛸焼き屋では鉢巻してるな。

家近良樹『幕末の朝廷』読了。政治プレーヤーとしての孝明天皇がクローズアップされていて興味深い。下級公家の列参事件は、条約勅許を取り消したとき、第二次征長の失敗後、征長軍の解体を訴えたときと二度あったことは知っていたが、禁門の変の直前にもあったことは知らなかった。このときは長州藩主父子の入京を許可し、京都守護職松平容保の退京を嘆願したらしい。七卿が長州に落ちた後も、長州派の公家はまだかなりいたということになる。このあたり、一つ一つの事件への光の当て方がこの著者は非常に巧みだと思う。魅力的だ。

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